表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
私の人生、囲碁よろしく! ―50歳、乳がんサバイバーが囲碁で人生を取り戻すまで―  作者: 春野ひつじ
私の人生、囲碁よろしく!

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
1/11

囲碁サークルへ、いざ出陣!

「つまらない」


それが、いつの間にか私の口癖になっていた。


50歳。既婚。


夫は会社員で、大学生の娘と、

思春期まっただ中の中学生の娘がいる。 


どこにでもある、普通の家庭。 


——だったはずなのに。



1年前、乳がんになった。


ステージ2。


「がん」という言葉を医師から告げられたときのことは、

今でもはっきり覚えている。



頭の中が真っ白になる、というのは、ああいうことを言うんだなと思った。


手術は無事に終わった。左胸は全摘。


でも、それで終わりなんかじゃ全然なかった。



そこから一年間、つらい抗がん剤の治療が続いた。

あの時間は、正直、地獄だった。



吐き気がひどくて、何も食べられない。


匂いだけで気分が悪くなる。


体を起こすだけで精一杯で、ほとんど布団の中で過ごしていた。


時間だけが、やけにゆっくりと流れていく。



その中で、唯一の救いだったのが、「NHK大河ドラマ」だった。


昔から歴史は好きだった。

特に戦国時代。


サブスクに入って、毎日ひたすら過去の大河ドラマを見続ける日々。



画面の中では、武将たちが戦い、負け、裏切られ、

それでもまた立ち上がっていく。


どんな状況でも、「次の一手」を考えている。


私は布団の中で、それをただ見ていた。

絶望と孤独の中で、ただ時間を潰すように。


——あれから一年。


再発も、転移もなかった。


「順調ですね」と医師は言った。



本当なら、喜ぶべきことだ。

でも。


体力は戻らなかった。


気力も、戻らなかった。


何かをやろうという気持ちが、どうしても湧いてこない。




仕事は、フルタイム勤務を続けるのは体力的に厳しく、


週3日のパート勤務へ変更してもらった。



お陰で、身体の負担も仕事の責任も、かなり軽くなった。



でも。


バリバリ働いていた頃の自分と比べてしまう。


会議の中心にいたはずの自分が、今は端にいる。




会社の人からの「無理しないでくださいね」という言葉の裏に、


どこか見えない線を感じる。



——ここまででいいですよ、と。




給与は、大きく減った。


仕方ないことだと分かっている。



でも、どこかで、「負けた」気がしてしまう。


日々、なんとか仕事と家事をこなしている。


それだけで、一日が終わる。




達成感はない。


ただ、疲れるだけ。



娘達とも、どこか距離を感じる。大学生の娘は、必要なことだけしか話さない。


中学生の娘は、思春期らしく、こちらを少し避けているような空気がある。



仕事が忙しいのにかまけて、



——ちゃんと向き合ってこなかったからかな。



ふと、そんな自分の過去を思い出して、後悔する。


けれど今さら、何かを取り戻せる気もしなかった。




 「つまらない」


また、口に出る。


毎日が、その繰り返しだった。




気分転換に近くに旅行にでも行きたい。


でもまだ体力的に、無理だ。




昔は好きだった海外旅行も、今は遠い世界の話に思える。


お金も、体力も、気力もない。


——こんな人生になるはずじゃなかった。




ふと、そんな思いがこみ上げる。




「……詰んだな」




小さくつぶやく。


人生、詰んだ。


大げさかもしれない。


でも、そのときの私は、本気でそう思っていた。




精神科にも通っている。


抗不安薬を飲みながら、なんとか日々をやり過ごしている。




それでも、根本的には何も変わらない。


ただ、「つまらない」が続くだけ。




——その日、私はいつものように大河ドラマを見ていた。




画面の中では、武将が一人、静かに囲碁を打っていた。


白と黒の石が、盤の上に整然と並んでいる。




戦の合間に。


交渉の前に。


静かに、石を置く。




その光景を見て、ふと、思った。




——あれ?そういえば。




戦国武将って、よく囲碁を打っている。


ドラマで、徳川家康や真田昌幸が、一人静かに碁を打っていた場面を思い出す。




今まで何度も見ていたはずなのに、そのとき初めて意識した。


「……囲碁か」




白と黒。


シンプルなのに、やけに奥が深そうな世界。


戦国武将は、なぜ囲碁を打つんだろう?




——私も、やってみる?




すぐに、スマホで「囲碁教室」と検察してみた。


いくつか出てきた中で、ひとつの文字が目に止まった。




——囲碁サークル 初心者歓迎




近くの公民館だった。


車で5分程度の距離。


こんなところに、そんな場所があったのかと少し驚く。




——行ってみる?




でも。


疲れるだけか。どうせ期待はずれかも。




そうかもしれない。




それでも。


何か新しいことを始めないと、窒息しそうな自分がいる。




「……どうせ、毎日つまらないんだし。


何も行動しないよりは、いいんじゃない?」


自分に言い聞かせ、私は立ち上がっていた。




公民館の扉を開ける。


10人ほどの男性がいた。




年齢は、60代から80代くらいだろうか。


みなさん静かに、碁盤を挟んで向かい合っている。


カチ、という石の音だけが、部屋に響く。




——え、ここ?




思わず立ち止まる。


私、明らかに、場違いだよね。


女性は誰もいない。




しかも、年齢層が違いすぎる。


帰ろうか、と一瞬思う。




でも。


ここで帰ったら、たぶん私は、また同じ毎日に戻るだけだ。




 「……あの、見学に来たんですけど」


思い切って、声を出した。


数人が顔を上げる。




少しの沈黙。




それから、一人の男性が、ゆっくりと笑った。


「おお、いいね。どうぞ座って。」




拍子抜けするくらい、あっさりとした反応だった。


私は、言われるままに、とりあえずその場に座った。




目の前では、白と黒の石が静かにぶつかり合っている。


ルールは、全然分からない。


でも。




 ——この世界は、なんだろう。




そのときの私は、まだ知らなかった。


この場所での出会いが、


自分の人生を大きく変えていくことになるなんて。




私はその時、ほんの少しだけ、新しい世界の入口に立っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ