弱い石が生き残るコツ
日曜の午後。
カフェの扉を開けると、香ばしいコーヒーの香りがふわりと鼻をくすぐった。
深い茶色の木目に囲まれた店内は、どこか時間の流れまでゆっくりしているようだった。
「こんにちは。この前の囲碁大会で……」
「ああ、よく来てくれましたね! どうぞどうぞ!」
その人は嬉しそうに店内へ招いてくれた。
私と夫はカウンター席に腰を下ろす。
一週間前の囲碁大会の懇親会で、コーヒーを持参して配っていた人がいた。
それが相手チームの石橋さんだった。
市内でカフェを営んでいるという。
腰が低くて、細身のジェントルマン、とても感じのいい人だ。
最近は大手チェーンばかりで、個人のカフェに入る機会もほとんど無かったので、
今日は夫を誘って、そのお店を訪ねてみたのだ。
「素敵なお店ですね。もう長いんですか?」
席に座るなり尋ねると、
「五年くらいですかね。脱サラして始めたんですよ」
と石橋さんは笑った。
以前は中堅菓子メーカーの営業マンだったらしい。
「自分で言うのもなんですがね」
少し照れくさそうに続ける。
「営業成績はずっと上位だったんですよ」
夫が感心したようにうなずく。
「全国を飛び回って販路開拓してね。
会社はどんどん大きくなりました。
するとね、この会社を大きくしたのは自分だ、自分が会社を支えているんだって、
勘違いというか、天狗になっていったんですよ」
そう言って苦笑した。
「あ、すみません。急にこんな話をして」
石橋さんは慌ててメニューを差し出した。
私たちは本日のブレンドコーヒーとケーキセットを注文した。
夫はチーズケーキ。
私はチョコレートケーキ。
ガリガリガリ……。
豆を挽く音が静かに響く。
その音を聞いているだけで、なんだか気持ちが落ち着いた。
「それで、どうなったんですか?」
話の続きが気になった。
石橋さんは手を止めることなく続けた。
「ある時、絶対に取りたい大型商談があったんですよ。
これを取ったらまた俺の評価が上がる、そんな案件でね」
――ライバル会社に取られるものか。
そんな思いで、無理な条件の契約を結んでしまったという。
結果は大失敗だった。
会社には大きな損失を出し、社長に呼び出された。
部下たちにまで責められた。
「でも当時の私はね」
石橋さんは苦笑した。
「俺は今までどれだけ会社に利益を持ってきたと思ってるんだ、
なんて言い返しちゃったんですよ」
誰も味方してくれる人はいなかった。
社長とも大喧嘩した。
そして…会社を辞めた。
こんな穏やかで優しそうな笑顔からは想像もできない話だった。
同じ人とは思えない。
「何だか、今の石橋さんからは全然想像つかないんですけど……」
思わず口に出た。
ペーパーフィルターに静かにお湯が注がれる。
白い湯気がふわりと立ち上った。
その様子を見つめながら、石橋さんはぽつりと言った。
「私、変わったんですよ。囲碁で」
「えっ? 囲碁で?」
思わず聞き返した。
会社を辞めてしばらく家に引きこもっていると、同級生から囲碁サークルに誘われたという。
高校時代に少し囲碁クラブに入っていた程度だった。
「暇だったし、行ってみるかって」
現役時代は仕事仕事で、囲碁なんてすっかり忘れていた。
ところが久しぶりに打ってみて、初めて気づいたことがあったという。
「私は、孤立した石だったんだなって」
「孤立した石?」
「あっ、囲碁で言えば、です。
弱い石なのに、誰ともつながらずに頑張ろうとしていたんですよ」
「営業成績を上げられたのも、会社の看板があったからだし、
部下や現場の人たちが支えてくれたからなんですよね」
「取引先にも恵まれた」
「でも全部自分の力だと思い込んで…」
――認められたい。
――勝ちたい。
もっと上に行きたい。
そんなことばかり考えていた。
「会社にも、部下にも、ライバルにも。一人で、自分が勝つことばっかり」
そう言ったところで、
「はい、どうぞ」
コーヒーとケーキが目の前に置かれた。
ふわりと立ち上る香りに、思わず顔がほころぶ。
そのとき石橋さんは、レジの横に置かれていた小さな九路盤を手元へ引き寄せた。
碁笥から黒石を一つ取り出す。
パチ。
盤上にその黒石を置いた。
続いて白石を三つ。
パチ。パチ。パチ。
黒石を取り囲むように並べる。
「ほら、この黒石。一個だけじゃ弱いでしょう?」
確かに、今にも白石に捕まりそうに見える。
すると石橋さんは、今度は黒石をいくつか碁笥から取り出し、
パチ、パチ、と盤上に打っていった。
黒石が少しずつ、つながっていく。
「こうやって味方とつながるとね」
石橋さんは並んだ黒石を指さした。
「さっきより安心して見えるでしょう?」
私は思わずうなずいた。
たったそれだけなのに、さっきまで頼りなく見えた黒石が、急に落ち着いて見える。
「弱い石は、つながるからこそ強くなれるんですよ」
石橋さんは、盤の上の黒石を見つめたまま言った。
「でもあの時の私は、一個だけで強い石になろうとしていたんです」
チョコレートケーキの甘さが、舌の上でゆっくりほどけていった。
苦い話には、深煎りのブラックがよく似合う。
「それと、囲碁ってね」
石橋さんは続けた。
「欲張って相手の陣地を全部奪おうとすると、かえって自分の石まで弱くなるんですよ」
「でも、ここは相手にあげよう。ここだけ自分がもらおう。そう考えると全体が生きるんです」
ふっと、石橋さんの表情がゆるんだ。
「だって、勝つのに必要なのは、ただ相手より一目多いかどうか、それだけなんですから」
私は、思わずうなずいていた。
それは囲碁の話なのに、どこか人生の話のようだった。
病気のこと。
仕事のこと。
娘のこと。
私は、一人で抱えてきた気がする。
自分で何とかしなければと。
碁盤の上に、最初にポツリと置かれたあの黒石は、どこか私に似ていた。
「そこから、何でカフェを始めたんですか?」不思議に思い聞いてみた。
「これから何しようかなと考えた時に、ふと思い出したんですよ」
石橋さんは、少し目を細めた。
「全国を飛び回る中で、カフェでコーヒーを飲むひとときが癒やしの時間だったなって」
忙しい毎日の中で、ほんの少し肩の力を抜ける場所だった。
「だから今度は、自分がそんな場所になれたらいいなと思いましてね」
石橋さんは、静かに店内を見渡した。
「この店だけ儲かればいいとは思ってないんです」
「お客さんも喜ぶ。仕入れ先も喜ぶ。自分も喜ぶ」
「そんな店でいられたら十分です」
そして照れくさそうに笑った。
「おかげさまで何とか五年続いてます。囲碁に再会したおかげですかね」
その顔は本当に穏やかだった。
隣で夫が大きくうなずいている。
私も自然とうなずいていた。
――帰り道。
夫がぽつりと言った。
「たまには、こういう店に来るのもいいな」
「そうだね」
結婚して二十年。
普段はあまり会話のない夫婦だ。
それでも、こうして同じコーヒーを飲み、同じ話を聞いて帰る。
そんな時間も悪くない。
私は隣を歩く夫の横顔を見た。
いつの間にか白髪が増えて、髪も薄くなっている。
あごのあたりもだいぶ丸くなった。
「ありがとね」と、小さくつぶやいた。
「え? 何が?」
「まあ、いろいろ」
夫は、少し不思議そうに首をかしげた。
でも少しうれしそうだった。
私も、つられて小さく笑った。
一人で頑張らなくていい。
――分け合うこと。
――つながること。
囲碁は、盤の上だけじゃなく、生き方まで教えてくれる。
コーヒーの香りが、まだ少しだけ残っていた。
*
――翌週。
大会が終わった後の囲碁サークルは、まるで祭りの後のようだった。
先週までの賑やかさが嘘みたいに静かで、少しだけ寂しい。
今日は原田さんが来ていない。
あの明るい人がいないと、なんだか物足りない。
そんな気持ちになる。
そのときだった。
武田信玄の携帯が鳴った。
「え? 原田さんが救急車で運ばれた?」
信玄が思わず声を張り上げる。
何!?
原田さんが救急車?
どうして?
私はドキドキしながら、電話を聞く信玄の横顔を見つめた。




