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私の人生、囲碁よろしく! ―50歳、乳がんサバイバーが囲碁で人生を取り戻すまで―  作者: 春野ひつじ
私の人生、囲碁よろしく!

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11/11

再び立ち上がって、生きてイゴー!

梅雨の晴れ間、少し汗ばむ初夏の午後。


私は花とお菓子を抱え、原田さんの入院している病院へ向かった。



ここは、市内にある総合病院。


一年少し前、私はここで入院生活を送っていた。



病室へ向かう廊下を歩きながら、ふと不思議な気持ちになる。



あの頃は見舞われる側だった。


それが今日は、お見舞いに来ている側だ。



しかも相手は、ほんの数か月前まで知らなかった人。



武田信玄によると、原田さんは骨折して救急車で運ばれ、


そのまま手術になったらしい。


大きな病気ではないと聞いて、とりあえずほっとしていた。




病室に近づくと、廊下まで笑い声が聞こえてきた。




「いやー、それは悪手だろ!」


「そこは切らなきゃダメだって!」



思わず足が止まる。



部屋をのぞくと、原田さんと見知らぬ男性が囲碁を打っていた。




入院してまで囲碁か。


私は思わず吹き出しそうになる。


よかった。元気そうだ。




「こんにちは……」


遠慮がちに声をかけると、



「あっ、三崎さん!」


原田さんがぱっと顔を上げた。



「わざわざ来てくれてありがとね!」



聞けば、雨の日に、側溝に落ちて泣いていた子猫を助けようとして、滑って転んだらしい。




「気持ちは若いんだけどねぇ。足がついてこないんだ」


原田さんはバツが悪そうに肩をすくめた。




猫を助けようとして骨折するなんて。


いかにも原田さんらしくて、頬がゆるむ。




「三崎さん、せっかくだから一局打とうよ」


「は、はいっ!」




入院していても囲碁か。


本当に好きなんだなぁ。




原田さんが碁盤を引き寄せた。


病室の小さなテーブルに盤が置かれる。



パチ。


パチ。



石の音が静かに響く。


窓の向こうには、初夏の光が満ちていた。白い雲がゆっくりと流れていく。




「へえ~、ずいぶん石がつながるようになったじゃないか」


「そうですか?」




「うん。前は一人ぼっちの石が多かったけどな」


原田さんは盤面を眺めながら、満足そうにうなずいた。




そして私は、黒石と白石が入り組む中で、ここだと思う場所にそっと石を置く。


パチ。




すると、


「おっ、いいねえ、この手!」


原田さんが身を乗り出した。



「素直な手だね。やっぱりさ、何事も、素直が一番だよ」



囲碁の話をしているはずなのに、その言葉が妙に心に残る。




人生のことを言われているような気がする。


原田さんはそんなつもりはないのだろうけど。




「それにしても、猫を助けようとしてケガするなんて、なんか原田さんらしいですね」


そう投げかけると、




「でしょ? 俺って世話好きだからさっ」


原田さんは得意そうに言った。




「この前も、猫がサークルに迷い込んできたから、世話してやったしな~」



猫が?サークルに!?



「最初は不安そうだったけど、だんだん仲間になじんでさ。今じゃすっかり居ついてるよ」




ん?


私は思わず、原田さんをじっと見た




「それって…私のことですか?」


「さあ、どうだろうねぇ」




原田さんはにやりと笑う。


私もつられて笑った。




確かに、初めて公民館へ行った日、私は、迷い猫のようだったのかもしれない。


見知らぬ高齢男性ばかりの輪の中で,




――帰ろうか。やめようか。




そう迷っていた私に、原田さんは真っ先に声をかけてくれた。




あれからまだ数か月しか経っていない。


それなのに今は、こうして病院で囲碁を打ちながら笑っている。




「三崎さんの打つ手…なんか優しくなったね」




原田さんは嬉しそうに目を細めた。




「前は一手一手、負けまいとしてピリピリしてたけどさ。最近は何ていうか…ゆったり攻めてくる感じがするな」




なんだか、純粋に嬉しい。




「じゃあきっとそれは、原田さんのお陰ですよ」




――本当に。




囲碁サークルで居場所をつくれたことも。


今こうして笑っていられることも。




そういえば、私はまだ原田さんのことをほとんど知らない。


どんな仕事をしていたのかとか、家族のこととか。




原田さんも、私のことをあれこれ聞いてはこない。




でも、それでいい気がした。


いや……それがいいんだ。




石と石がつながるのに、相手のことを全部知る必要はない。


ただ、そこにいてくれればいい。




囲碁盤をはさんで向かい合う。


それだけで十分な関係もある。




楽しい時間はあっという間に過ぎ、気づけば帰る時間になっていた。




「じゃ、またサークルで!」


「はい。腕を磨いて待ってますから」




原田さんは軽く手を振り、


私も小さく会釈をして、病室をあとにした。




原田さんとの面会を終え、病院の玄関ロビーへ下りてきた。




ふと周りを見回す。




今日も病院は、たくさんの人であふれていた。




この中には、乳がんで片胸を失った人もいるだろう。




ニット帽をかぶった女性は、抗がん剤の影響だろうか。




診察待ちに疲れたように椅子にもたれかかるおばあさん。


車椅子に乗った小さな男の子。


点滴スタンドを押しながら歩く患者さん。




みんな名前も知らない。


私には関係のない人たちだ。




以前の私なら、自分のことで精一杯で、この人たちの気持ちなんて気にもかけなかっただろう。




けれど、今は少し違う。




不安で眠れない夜があることも。


検査結果を待つ怖さも。


思うようにならない体を抱えるもどかしさも。




今の私は、痛いほどよく分かる。




――弱い石ほど、つながることで生きられる。




ふと、カフェの石橋さんの言葉が浮かぶ。




ロビーにいる人たちを、もう一度見渡した。




――皆さん、どうか頑張ってください。私も頑張ります。




心の中でそっとつぶやく。


ほんの少しだけ、私はこの人たちとつながっている気がした。





病院内のカフェに向かった。




ここは入院中、毎日のように通った場所だ。




コーヒーを受け取り、大きな窓の近くの席に腰をおろした。


青空には、真っ白な雲がゆっくりと流れている。




ふわっと立ち上る香りを吸い込み、ブラックをひと口。


苦い味とともに、あの頃の記憶がよみがえってくる。




――はぁ……。


思わずため息がもれた。




診断を受けてからの一年。


激しい流れにのみ込まれ、必死にもがき続けてきた。



手術に治療。副作用や先の見えない不安。



ふと、父の言葉を思い出す。




毎日のように病院に通ってくれた高齢の父。


ずっと黙って寄り添ってくれた。




でも退院の日、




不安と嘆きばかりを口にする私に、父は優しく、けれど強く言った。




「親としてさ、子どもには心配かけるなよ…」




「また立ち上がって…しっかりと生きていってくれ、な」




夫、娘、遠方の姉、幼なじみの美和。


たくさんの人が、私を支え、つながっていてくれた。




“孤独”だの。




“絶望”だの。




“人生詰んだ”だの。




――もう、そんなふうに自分を追い込むのはやめようか。




抗がん剤治療も終わり、少しずつ回復してきた今。




支えてくれた人たちに、


今度は私が、笑顔でいられる時間を返していきたい。




窓の外、新緑の光がまぶしくきらめいている。





私の人生は、きっとまだ中盤だ。




――失敗してもいい。負けてもいい。また打てばいいんだから。




アロハシャツの森さんの笑顔が、ふとよぎる。




囲碁の盤上に無数の空点が残っているように、


人生にも、まだ打てる場所がたくさん残っている。




乳がんになったことも。




苦しかった治療の日々も。




あの経験があったからこそ、見えた景色や出会えた人たちがいる。




幸せそうに見える人も、それぞれに何かを抱えながら生きている。





今朝も、ヒカルと成績の話をしたら、プイッとすねられてしまった。




私の言い方が悪かったのかもしれない。




けれど、仕方ない。


またやり直そう。




また寄り添ってみよう。




まずは今晩、おいしいご飯を作ってあげたい。


かぼちゃグラタンにしようか、ハンバーグもいいな……。




コーヒーの最後の一口を飲み、窓の外へ目をやった。




――さて。




次は、どこへ打とうか。




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