再び立ち上がって、生きてイゴー!
梅雨の晴れ間、少し汗ばむ初夏の午後。
私は花とお菓子を抱え、原田さんの入院している病院へ向かった。
ここは、市内にある総合病院。
一年少し前、私はここで入院生活を送っていた。
病室へ向かう廊下を歩きながら、ふと不思議な気持ちになる。
あの頃は見舞われる側だった。
それが今日は、お見舞いに来ている側だ。
しかも相手は、ほんの数か月前まで知らなかった人。
武田信玄によると、原田さんは骨折して救急車で運ばれ、
そのまま手術になったらしい。
大きな病気ではないと聞いて、とりあえずほっとしていた。
病室に近づくと、廊下まで笑い声が聞こえてきた。
「いやー、それは悪手だろ!」
「そこは切らなきゃダメだって!」
思わず足が止まる。
部屋をのぞくと、原田さんと見知らぬ男性が囲碁を打っていた。
入院してまで囲碁か。
私は思わず吹き出しそうになる。
よかった。元気そうだ。
「こんにちは……」
遠慮がちに声をかけると、
「あっ、三崎さん!」
原田さんがぱっと顔を上げた。
「わざわざ来てくれてありがとね!」
聞けば、雨の日に、側溝に落ちて泣いていた子猫を助けようとして、滑って転んだらしい。
「気持ちは若いんだけどねぇ。足がついてこないんだ」
原田さんはバツが悪そうに肩をすくめた。
猫を助けようとして骨折するなんて。
いかにも原田さんらしくて、頬がゆるむ。
「三崎さん、せっかくだから一局打とうよ」
「は、はいっ!」
入院していても囲碁か。
本当に好きなんだなぁ。
原田さんが碁盤を引き寄せた。
病室の小さなテーブルに盤が置かれる。
パチ。
パチ。
石の音が静かに響く。
窓の向こうには、初夏の光が満ちていた。白い雲がゆっくりと流れていく。
「へえ~、ずいぶん石がつながるようになったじゃないか」
「そうですか?」
「うん。前は一人ぼっちの石が多かったけどな」
原田さんは盤面を眺めながら、満足そうにうなずいた。
そして私は、黒石と白石が入り組む中で、ここだと思う場所にそっと石を置く。
パチ。
すると、
「おっ、いいねえ、この手!」
原田さんが身を乗り出した。
「素直な手だね。やっぱりさ、何事も、素直が一番だよ」
囲碁の話をしているはずなのに、その言葉が妙に心に残る。
人生のことを言われているような気がする。
原田さんはそんなつもりはないのだろうけど。
「それにしても、猫を助けようとしてケガするなんて、なんか原田さんらしいですね」
そう投げかけると、
「でしょ? 俺って世話好きだからさっ」
原田さんは得意そうに言った。
「この前も、猫がサークルに迷い込んできたから、世話してやったしな~」
猫が?サークルに!?
「最初は不安そうだったけど、だんだん仲間になじんでさ。今じゃすっかり居ついてるよ」
ん?
私は思わず、原田さんをじっと見た
「それって…私のことですか?」
「さあ、どうだろうねぇ」
原田さんはにやりと笑う。
私もつられて笑った。
確かに、初めて公民館へ行った日、私は、迷い猫のようだったのかもしれない。
見知らぬ高齢男性ばかりの輪の中で,
――帰ろうか。やめようか。
そう迷っていた私に、原田さんは真っ先に声をかけてくれた。
あれからまだ数か月しか経っていない。
それなのに今は、こうして病院で囲碁を打ちながら笑っている。
「三崎さんの打つ手…なんか優しくなったね」
原田さんは嬉しそうに目を細めた。
「前は一手一手、負けまいとしてピリピリしてたけどさ。最近は何ていうか…ゆったり攻めてくる感じがするな」
なんだか、純粋に嬉しい。
「じゃあきっとそれは、原田さんのお陰ですよ」
――本当に。
囲碁サークルで居場所をつくれたことも。
今こうして笑っていられることも。
そういえば、私はまだ原田さんのことをほとんど知らない。
どんな仕事をしていたのかとか、家族のこととか。
原田さんも、私のことをあれこれ聞いてはこない。
でも、それでいい気がした。
いや……それがいいんだ。
石と石がつながるのに、相手のことを全部知る必要はない。
ただ、そこにいてくれればいい。
囲碁盤をはさんで向かい合う。
それだけで十分な関係もある。
楽しい時間はあっという間に過ぎ、気づけば帰る時間になっていた。
「じゃ、またサークルで!」
「はい。腕を磨いて待ってますから」
原田さんは軽く手を振り、
私も小さく会釈をして、病室をあとにした。
原田さんとの面会を終え、病院の玄関ロビーへ下りてきた。
ふと周りを見回す。
今日も病院は、たくさんの人であふれていた。
この中には、乳がんで片胸を失った人もいるだろう。
ニット帽をかぶった女性は、抗がん剤の影響だろうか。
診察待ちに疲れたように椅子にもたれかかるおばあさん。
車椅子に乗った小さな男の子。
点滴スタンドを押しながら歩く患者さん。
みんな名前も知らない。
私には関係のない人たちだ。
以前の私なら、自分のことで精一杯で、この人たちの気持ちなんて気にもかけなかっただろう。
けれど、今は少し違う。
不安で眠れない夜があることも。
検査結果を待つ怖さも。
思うようにならない体を抱えるもどかしさも。
今の私は、痛いほどよく分かる。
――弱い石ほど、つながることで生きられる。
ふと、カフェの石橋さんの言葉が浮かぶ。
ロビーにいる人たちを、もう一度見渡した。
――皆さん、どうか頑張ってください。私も頑張ります。
心の中でそっとつぶやく。
ほんの少しだけ、私はこの人たちとつながっている気がした。
病院内のカフェに向かった。
ここは入院中、毎日のように通った場所だ。
コーヒーを受け取り、大きな窓の近くの席に腰をおろした。
青空には、真っ白な雲がゆっくりと流れている。
ふわっと立ち上る香りを吸い込み、ブラックをひと口。
苦い味とともに、あの頃の記憶がよみがえってくる。
――はぁ……。
思わずため息がもれた。
診断を受けてからの一年。
激しい流れにのみ込まれ、必死にもがき続けてきた。
手術に治療。副作用や先の見えない不安。
ふと、父の言葉を思い出す。
毎日のように病院に通ってくれた高齢の父。
ずっと黙って寄り添ってくれた。
でも退院の日、
不安と嘆きばかりを口にする私に、父は優しく、けれど強く言った。
「親としてさ、子どもには心配かけるなよ…」
「また立ち上がって…しっかりと生きていってくれ、な」
夫、娘、遠方の姉、幼なじみの美和。
たくさんの人が、私を支え、つながっていてくれた。
“孤独”だの。
“絶望”だの。
“人生詰んだ”だの。
――もう、そんなふうに自分を追い込むのはやめようか。
抗がん剤治療も終わり、少しずつ回復してきた今。
支えてくれた人たちに、
今度は私が、笑顔でいられる時間を返していきたい。
窓の外、新緑の光がまぶしくきらめいている。
私の人生は、きっとまだ中盤だ。
――失敗してもいい。負けてもいい。また打てばいいんだから。
アロハシャツの森さんの笑顔が、ふとよぎる。
囲碁の盤上に無数の空点が残っているように、
人生にも、まだ打てる場所がたくさん残っている。
乳がんになったことも。
苦しかった治療の日々も。
あの経験があったからこそ、見えた景色や出会えた人たちがいる。
幸せそうに見える人も、それぞれに何かを抱えながら生きている。
今朝も、ヒカルと成績の話をしたら、プイッとすねられてしまった。
私の言い方が悪かったのかもしれない。
けれど、仕方ない。
またやり直そう。
また寄り添ってみよう。
まずは今晩、おいしいご飯を作ってあげたい。
かぼちゃグラタンにしようか、ハンバーグもいいな……。
コーヒーの最後の一口を飲み、窓の外へ目をやった。
――さて。
次は、どこへ打とうか。
完




