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46.大魔女の名を呼ぶな


 ――その言葉を聞いた瞬間に、背筋が一瞬で冷えていくのがわかった。

 どこでその()()を見た?

 どうしてその()()を読み上げるに至った?


 ペンのインクが、じわりと紙から滲み出していく。

 完璧だった魔術式に、もう使い物にならないほどの綻びが生まれる。

 ヘイルはすぐに椅子から立ち上がり、その声の元へと向かった。


 ――――


「……だ、い、ま、じょ、の……。」


 荘厳な本の表紙には、久しく目にしていなかった文字が羅列されていた。

 お母さんが、よく絵本を読んでくれていたから。

 その文字を、彼女は知っていた。


「随分悪趣味なんだね、君。」


 そんな感傷に浸る間もなく、冷たい声が思考を遮った。


「っ、え……?」


 カフカが、勢いよく声の方へ振り向く。

 そこには、いつにも増して冷めた表情のヘイルが立っていた。

 その鋭い眼光は、カフカの手元にある本を見つめている。


「……悪趣味、ですか?」


「ああ、本当に。

 よりにもよってその邪悪な歴史書を手に取るなんて。」


 ヘイルの右足が、ゆっくりと前へ出る。


「……というか、()()書籍は深層書庫に仕舞ったはずなんだけどな。」


 次は左足。

 埃の溜まった床に、革靴の跡が一つずつ刻まれていく。

 カフカは思わず目を瞑る。

 ヘイルの手が、自分の抱える本目掛けて迫っているのがわかったからだ。


「カフカ、君はどうしてそれを読めたんだい。」


 カフカ――初めて母親以外に呼び捨てにされた名前。

 ドクン、と心臓が鳴った。

 これは恐怖心だ。

 獲物を追い詰める冷たい氷の刃が、喉元に突きつけられているみたいに。

 じわりと一帯の空気の温度がなくなっていく。

 ――本を奪われる。

 そう思った瞬間だった。


「あれー、ヘイルさん、何やってんすか?」


 フォンスの気の抜けた声が頭上から聞こえた。

 カフカは、心の底から安堵した。

 彼の声が、凍りついた空気を溶かすように、暖かく図書館に響いた。

 ヘイルの伸びた手が、ぴたりと止まる。


「……別に。気になる本が目に入っただけだよ。」

 

 フォンスが、ゆっくりと梯子から降りてくる。

 手や顔に埃がついており、本棚がいかに手入れしていないかというのがよくわかる。


「カフカちゃん、なんか良い本見つけたのか?」


「え、え〜っと……なんか綺麗な本を見つけたから、つい手に取っちゃって。」


 カフカが、手に取った分厚い本をフォンスに渡す。

 思った以上の重量に、フォンスもカフカと同じく腕が沈む。


「え〜っと、なんだこれ。

 なんて書いてるんだ?見たこともない文字だぞ。」


「……え?」


「さっきカフカちゃん、読んでたよな。

 ……このタイトル、なんて書いてあるんだ?」


 フォンスが、なんの躊躇いもなくページをパラパラと捲っていく。

 その遠慮の無さに、ヘイルは呆れて何も言えなくなっているようだった。


「フォンス、これ読めないの?ええ、なんで?」


「その文字は、現代では使われていないからだよ。」


 二人の会話を遮るように、ヘイルの鋭い声が聞こえた。


「……君は、逆にどうやってこの文字を読んだ?」


「ああ、えっと。

 お、お母さんが……。」


「お母さん?」


「お母さんが、昔この文字で書かれた絵本を寝る前に読んでくれていたんです。」


 図書館に気まずい沈黙が訪れる。


「君のお母さんは、随分黙示文字に精通していたみたいだね。」


「黙示文字……?なんすかそれは。」


 フォンスが首を傾げる。


「さっきも言ったけど。

 もう現代では使われていない文字のことだよ。」


「へ〜、ヘイルさんはなんでも知ってるんすね。」


「別に、なんでも知ってるわけじゃないさ。」


「……黙示文字っていうんだ、知らなかった。」


 フォンスは、どの頁を見ても、いたずらに落書きしたようにしか見えなかった。

 正直、黙示文字なんかよりこの高そうな本の値段を知りたいと、商人魂が唸っていた。

 重厚感のある表紙の色に、金色に縁取られた背表紙。

 頁は一つひとつ色褪せているのに、破けそうにない素材。

 これはきっと、お宝に違いないだろうと、本能が騒ぎ立てていたのだ。

 銀色の龍種や、黒く塗りつぶされた塊の絵など、独特の風合いでどれも描かれていた。

 パラパラと、品定めをするように本を捲っていると、カフカが急にある頁を指差した。


「……あれ、この黒い塊の絵さ、この間の害魔獣に似てない?」


「おお……?ほ、本当だ。

 言われてみれば似てるな。」


 その絵にも、歪なツギハギが描かれている。

 掠れた黒い文字が、絵の周りに書かれていたが、フォンスには何が何やらさっぱりだった。


「なぁ、これなんて読むかわかるか?」


 フォンスが、絵の横に書かれている文字列を指差した。

 カフカが、大きな瞳をじっと細める。

 その顔は珍しく険しいものだった。


「うう〜ん。」


 カフカが息をつく。

 彼女は、表情で全てを物語る。

 恐らく何もわからないのだろう。

 

「これは、わかんない……。」

 

「全部が全部読めるってわけじゃないんだな。」


「そうだよ。

 子どもの頃だし……そこまで覚えてるわけじゃないみたい……。」


 カフカがぷくりと頬を膨らませた。


「……貸して。」


 ヘイルが、勢いよくフォンスの手から本を奪い取った。

 彼の視線が、本の頁に落ちる。

 いつもの飄々としている顔つきとは打って変わって、彼の青色の瞳は焦燥に満ち溢れていた。

 ヘイルは、しばらく黙ったままだった。

 その沈黙が、ただ読めない文字を追っているだけのものではないことくらい、フォンスにもわかった。


「……ヘイルさん?」


 フォンスが声をかける。

 だが、ヘイルの口は動かなかった。

 まるで何か、見てはいけないものを見たような、そんな悍ましさを感じる瞳をしていた。


 長い指先が、絵の横に書かれた黙示文字をなぞる。

 その動きは慎重で、まるで古い傷跡に触れているようだった。


「これ、そんなにまずいことが書いてあるんすか?」


「……まずい、という言葉で済めばいいけどね。」


 ヘイルの冷たい呟きが、宙に消えていく。

 カフカは、思わず息を呑んだ。

 先ほどまで自分を責めるように聞こえていた冷たさとは違う。

 

「……これは、通常の魔術式じゃない。」


「今ある常識の魔術式をどれだけ書き連ねても、意味はなさそうだ。」

 

 ヘイルが、読み上げるというより確認するようにポツリと呟いた。

 その声に、表情はなかった。


「通常の、魔術式っすか?」


「どこの本屋を当たっても、こんな式が書いた本は見つけられないってことだよ。」


 ヘイルが続ける。


「これは、肉片と肉片を縫合する魔術……?」


 フォンスの顔から、表情が消えた。


「……それって、昨日の害魔獣そのものじゃ。」


「断定はできない。」


 ヘイルは本を閉じなかった。

 ただ、その頁から目を離さない。

 図書館内の空気がどんどん重くなる。

 どんな場でも明るくできるフォンスでさえ、今の空気を変えることはできなかった。


「まさか――本当に禁忌魔術の類なのか?」


ここまで読んで頂き本当にありがとうございます!!

水曜19時/日曜11時更新予定ですので、また読みにきて頂けるととっても嬉しいです!

よろしければブックマークや評価などいただけると大変励みになります!

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