42.眠れない夜に
エレーシャが押し黙る。
先ほどの害魔獣、アーノルドの傷、結界の仮封鎖について。
そのどれから話せばいいかを考えあぐねているようだった。
「……害魔獣が、月脈の湯を襲撃した。」
エレーシャのか細い声が、いつもよりも低かった。
先ほどの柔らかな軽口とは打って変わって、その表情には焦燥が滲んでいた。
「それはつまり、害魔獣が結界を突き破った、ってことでいいのかい。」
エレーシャがこくりと頷いた。
目線は下向いたままで、長いまつ毛が瞬きのたびに揺れている。
ヘイルは、落ち着かない仕草で、眼鏡を人差し指で押し上げる。
「この数百年は、ここの結界は破られていなかったはずだろう。」
「そうだね、ボクだって結界の破損に関してはしっかり対策してきたはずだよ。
でも、東門近くの結界が大きく開いていた……。」
「真面目な君がそんな杜撰な仕事をするはずないことくらい、僕も知っている。」
ヘイルが眼鏡の奥の目を細めた。
「それより、通信の魔術網が完全に機能していないみたいだよ。」
「それって……。」
ベルンハルトが、思わず口を開いた。
「ああ、ベルンハルトだっけ。
君のそのエーテルコンパスの信号の位置が特定できないと、上層部が躍起になっていたよ。」
「そうなんですね……。」
「じゃあ、どうやって馬車は月脈の湯に向かったんすか?
通信が駄目だったなら、場所も分からなかったんじゃ……。」
フォンスが、二つ目のパンに手を付けながら問いかけた。
「確かに、僕が乗り込んだのは信号が特定できてからですからね……。
あの時、医務室に残っていたのが僕だけだったので、同行して欲しいと内勤の方に声をかけられたんですよ。」
「……てことは、お前が医務室に残っていなかったらオレたちはぺちゃんこだったってことかよ……!
危ねぇ……、来てくれたのがクルトで良かったぜ。
ありがとな。」
フォンスが嬉しそうにクルトの肩に手を回す。
「本当、あの時クルトがいなかったら、害魔獣は解き放たれていただろうし……。
その支援魔術の精度が恐ろしいことが十分に理解できたよ……。」
エレーシャが息をついた。
ヘイルが当然のように五つ目のパンを掴みながらフォンスに視線を移す。
「月脈の湯に信号があると言ったのは、僕だよ。」
パンの屑が、パラパラと敷いていた布に落ちていく。
まるで、不気味な黒い灰のようだった。
「ふーん、やっぱりそうなんだ。
正直そうだと思ってた。」
「今日はやけにお腹が減る日でね。
いつも通り、食堂に夜食を拝借しようとして廊下を歩いていたんだよ。」
「それじゃあ、夜勤職員が総出で慌ただしくしていたからね。
ついでに、強いエーテル反応が示す場所を教えておいたんだ。」
「……ボクたちは、アンタの食欲に助けられたってことか……。」
エレーシャが深いため息をついた。
「いいじゃないか。
助かっただけマシだろう。」
「そ、それはそうなんだけどさ。
なんか腑に落ちないよねぇ〜。」
「で、その害魔獣はどんな感じ?
龍種?ウルフ系?それともスライム?」
「うーん、なんて言ったらいいかわかんない。
ボクも初めて見た感じなの。
なんか黒くて、気色悪くて、ベタベタしてて……。」
「なんだい、それは。
ちっともわからないな。
もう少し君は語彙力をつけるといいんじゃないか?」
「ムカつくな〜……。
ボクはアンタと違って、フィーリングで生きてるからいいの!!」
エレーシャが不機嫌に眉を顰めた。
「オレ、近くで見ましたよ。」
フォンスが手を挙げる。
「そうっすね……。
まず黒い粘液で体表が覆われていて、よく見たら複数の肉片がツギハギになっている感じでした。」
「複数の肉片……?聞いたことがないな。」
「対象が沈黙した時に観察したんすけど、エーテルウルフの肉片が混じっていました。」
「混じる……合成獣……いや、自然界でそのような事例は見たことがない。
その黒い粘液についても詳しく教えて欲しい。」
ヘイルが、内ポケットから厚い手帳を取り出した。
スラスラとペンが走らされていく。
「肉片の隙間から、唸るたびに粘液を吹き出していました。
粘液の影響かはわかりませんが、充満している状態だと、思うようにエーテルを操れなかったっす。」
「魔術が、使えないってことかな。」
ヘイルがペンを止めずに尋ねる。
パンを食べ終えたベルンハルトが、口を開いた。
「端的に言えばそうです。
呼吸がしづらく、腐乱臭がひどかったです。
……まるで、死体が動いているような。」
「死体……、ツギハギ……。
本当によくわからない化け物と対峙したんだね。」
「そうだよ。
結界をどうやってこじ開けたか、魔術網にどう影響しているかはわからないけどね。」
「ここまで僕もさっぱりだ。
まあ、とにかく古い文献を当たってみようかと思う。」
ヘイルがペンを机に転がした。
「……ああ、そうだ。
聞きたかったんだけどさ、東門が崩れた時、助けてくれたのって――。」
エレーシャがふと顔を上げた。
その瞬間、寮の扉が遠慮なく叩かれた。
「はァい。
眠れない夜にお邪魔するわよォ。」
扉を開ける前から、聞き覚えのない柔らかな声が響く。
入ってきたのは、薄緑の髪を綺麗に撫でつけた守護部隊の男だった。
目元には光を受けてきらめくラメが散っている。
騎士団指定の外套がよく似合う長身。
端正な顔立ちと艶めいた口紅の組み合わせに、初対面の四人は揃って動きを止めた。
「緊急会議の招集よ。
至急、役職者は騎士団本部に来なさい。」
イクナトーンは、エレーシャへ視線を向けた。
「それから、エレーシャちゃん。
アナタも来てちょうだい。
東門の結界を仮封鎖した当事者でしょう?」
「えぇ……ボクも?」
「当然よォ。
今夜の主役の一人じゃない?」
イクナトーンは、長いまつ毛をはためかせウインクした。
艶っぽい口紅が、蝋燭の火に照らされている。
「ベルンハルト・エチルエーテル……ちゃんって呼んだらいいのかな?
第二十師団隊長。
アナタも来て欲しいの。」
「……はい。」
ベルンハルトは、食べかけの黒パンを置き、立ち上がった。
「ヘイルちゃんは?」
エレーシャが眉を寄せる。
「アタシとしては来てほしいけど、上層部はとにかく役職者をって感じだったわ。
……今は報告より、現場の整理が優先みたい。」
「なら、僕は図書館に行くよ。」
ヘイルが視線を合わせずにポツリと呟いた。
目線の先には先ほど殴り書きしていた手帳が握られている。
「この害魔獣について、わからないことが多すぎる。
……特に僕は、大勢の会議は好きじゃない。」
「アラ、珍しく外に出てきたのに?
ちょっとはゆっくりしたらどうかしら。」
「腹拵えは済んだからね。
イクナトーン、整理よろしく。
後で図書館に報告書を届けてもらってもいいかい?」
「はいはい……にしても、いつ終わるかわかんないわよォ?それでもいいかしら?」
「ああ、どうせ一晩中起きているからね、ありがとう。」
ヘイルがフォンスを一瞥する。
「フォンス、君も来るといい」
「オレっすか?」
「君は近くで見ているだろう。
肉片の状態も、粘液の匂いも、エーテル阻害も、心当たりがあるなら教えて欲しいことだらけだ。」
「了解っす!」
「僕は医務室に戻ります。
……万が一負傷者が出ていたら、恐らく僕が診ることになるでしょうし。」
「……そうか。
さっき結構エーテルを使ってるだろうし、無理すんなよ?」
フォンスがクルトの肩を叩く。
「はい。
皆さんも無理しないようにしてくださいね。」
「私も、図書館に行ってもいいですか?」
カフカが小さく手を挙げた。
ヘイルが、少しだけ眉を寄せる。
「本を読むだけなら、私にもできるかなって……。」
カフカは、まっすぐに言った。
「君は、確か魔術が使えない子だったよね。」
辛辣な言葉が、カフカの心に刺さる。
「は、はい。
……待ってるだけじゃ、嫌なんです。」
「……まあ、好きにしたらいいよ。
図書館で本を読むだけなら、魔術は必要ないから。」
ヘイルの冷たい声が響く。
手帳とペンを素早くポケットに直し、既に寮を出る準備を済ませていた。
その言葉に、カフカは小さく頷いた。
ここまで読んで頂き本当にありがとうございます!!
それぞれが動き出す夜でしたね、そろそろ第十九師団編も終盤に差し掛かろうとしています!
水曜19時/日曜11時更新予定ですので、また読みにきて頂けるととっても嬉しいです!
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