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第264話  星の呼び声

「……なんだよ、これ」


 なにもかもが。

 白くなってく。


 俺っていう輪郭がさ、冷たい水にぽちゃんって落とした角砂糖みたいに、ボロボロと、端っこから溶けていくのがわかるんだよ。初代精霊王。前世の、俺。あいつの座ってた玉座の冷たさが、神経のいっぽんいっぽんを、じわじわと根元から凍らせていく。


『すべては、あるべき場所へ。無意味な抵抗は——』


 うるせえって、言ってんだろ。


 そう思い返す力すら、もう、風前の灯火だった。指先からポタポタと落ちる泥。足首にべったりと絡みつく泥人形の不快感も、もう、ずっと遠くにある。深海の底から水面を見上げてるみたいに。


『ルッくん! だめぇ! いかないで!』

『馬鹿主、目をあけろ! そっちに行くな!』


 セラが泣き叫んでる。エムが、俺の胸ぐらをガクガク掴んでる。わかる。わかるんだけど、届かないんだよ。声が。手が。全部、水面の向こうの話みたいで。


 息をするのも忘れて、ただ世界を上から俯瞰するだけの、無機質なものになっていく。感情なんていうちっぽけなノイズを捨てて、均衡を保つための歯車に成り下がる。それが正しいんだって、頭のなかの神様が囁き続けている。正しいんだって。正しいんだって。


 その断絶の、いちばん底。


 キンッ、と。


 星が弾けるような、澄み切った音が。深淵をぶち抜いた。


『——ルーク! 戻ってきて! あなたは絶対に一人じゃない!』

「……え?」


 かすれた俺の喉から、間の抜けた音が漏れた。


 耳から聞こえたんじゃない。魂のど真ん中、いちばん柔らかくて無防備なとこを、直接ガンッと殴りつけられたみたいな衝撃。透き通るような、それでいて芯に途方もない熱を持った声。間違えるわけがない。


「えり、しあ……?」

『るっきー! 今の、えりちゃんの声……!』

『馬鹿主、お前まで響いているのか……!? 次元を、理の壁を越えてきているとでもいうのか!』


 セラとエムが信じられないって顔で俺を見下ろしてる。無理もない。ここは深淵の門の向こう、無限回廊だ。空間そのものが反転して、魔王アビスの悪意がぎっしり詰まった異界で。門は、もう閉じた。王都ヴァルドンガルドの中央広場にいるはずのエリシアの声が届くなんて、あるわけがない。


 なのに。


 俺の霊核の、いちばん奥底にある精霊王の核が、ドクンドクンと、やけに熱く脈打ってる。俺が渡した命の光で限界突破を果たして、星の民として覚醒した、あいつ。その魂の共鳴が俺の霊素を道しるべにして、この真っ暗な次元の壁をドリルみたいにぶち抜いてきやがったんだ。


『過去のあなたが!』


 また、声が響く。今度はもっとはっきりと。


『どれほど孤独な神様だったとしても! 今のあなたは、私の、私たちの、大切な仲間です!』


 頭のなかを支配していた、冷え切った神様の思考に。銀色の眩しい光が、バリバリとひびを入れていく。


「あ……」

『戦いが終わったら、一緒にシチューを食べるって約束したじゃないですか!』


 どくっ、と。止まりかけていた心臓が、大きく跳ねた。


 シチュー。


 なんだそれ。こんな深淵の底で。四方八方から泥人形が押し寄せてくるこの状況で。マルタさんの作った、あの、とろっとろの肉と野菜の。グレイウッドに帰ったら食いたいって、俺が言った。約束した。


「……ははっ」


 乾いた笑いが、泥だらけの唇からこぼれた。


 神様のスケール? 知ったこっちゃねえ。世界を俯瞰するシステム? 永遠の均衡? 感情はノイズ? クソ食らえだ。


 脳裏に、ぶわっと色が戻ってくる。カインの、馬鹿みたいにでかい笑い声。「おいルーク、お前また手ぇ抜いただろ!」って、汗だくで剣を振ってたあいつ。ノルンの、「ふぁあ……もう無理ですよぉ」って、やる気のないあくび。それからオスカー副団長——不器用で、クソ真面目で、王族の重圧を一人で背負い込んで、劣等感でぐちゃぐちゃになりながらも、俺たち訓練生を厳しく導こうとしてくれた、あの上官。泥にまみれて、血反吐吐いて、必死こいて生き抜いてる連中がいる。


 俺はあいつらと馬鹿をやりたくて、美味い飯食って、あったかい布団で寝るために、スローライフを望んだんだ。ただのDランク上がりの冒険者だ。俺は。


『我が王! 瞳の光が!』


 フィオが翠の羽をばたつかせる。


『おっ、旦那! 戻ってきたな!』


 アルクがパチパチと紫電を散らして、俺の鼻先をかすめた。


「……わりぃ。ちょっと、うたた寝してた」


 泥だらけの地面に手をついて。ぐっと膝に力を入れて、立ち上がる。右腕のアリス特製冷却グローブがギィィィンッて限界の警告音を鳴らしやがった。熱い。骨が軋む。だけどそれが、生きてる証拠だ。感覚が全部、戻ってきた。


『ルークさま!』


 ラグが涙目で水滴を飛ばしてくる。


『まったく、肝を冷やさせおって。若造が』


 オルドの重たい声が、足元の泥を固めて、俺の踏ん張りを支えた。


『燃やせ! 頭ん中のカビ生えたジジイの戯言なんか、全部燃やしちまえルーク!』


 ヴァルが肩に乗って真っ赤な炎を吹き上げる。


『……ええ。あなたの魂は、こんな停滞の泥に沈むようなものではありませんから』


 フロスが静かに呟いて、足元にまとわりついてた泥人形どもをパキパキに凍らせていった。


「ああ。わかってる」


 神様に乗っ取られかけてた琥珀色の瞳に、人間としての熱い色が、ギラッと戻ってくる。世界を統べる王の目線なんか、捨ててやる。俺は俺の足で立って、俺の目で、このふざけた迷宮を睨みつけるんだ。


『……ルッくん!』


 セラが純白の六枚羽を広げて、俺の背中にぴたりと張り付く。


『バカ主。世話の焼ける。だが——それでこそ、私の契約者だ』


 エムの漆黒の夜翼が影を落として、迫り来る泥の波を弾き返した。


 八柱の精霊。俺の、一番の家族みたいなやつら。それに、王都でお留守番してる、でっかくてあったかい相棒、フェデ。俺は、一人じゃない。


「おい、聞いてるか。頭ん中の神様よ」


 アストラの鞘を、力いっぱい握り直した。Zランクの霊素が、体内で暴れ狂う。隠さねえ。抑えねえ。


「あんたがどれだけ偉くて、どれだけ孤独だったかは知らねえ。けどな、今の俺には、帰る場所があるんだよ。シチューの約束破ったら、受付嬢にも、マルタさんにも、エリシアにも、一生文句言われるからな」


 冷却グローブの排熱が白い蒸気になって、無限回廊の暗闇にシュウウウッと溶けていく。熱さと痛みが、俺の輪郭をこれでもかってくらいに主張している。


『ルーク!』


 また、エリシアの声。今度はもっと近い。手が届きそうな距離に。


「聞こえてるぜ、エリシア! お前の声、ちゃんと届いた!」


 届くかどうかなんてわからない。だけど、魂の底から、全部を乗せて、叫び返した。


 その瞬間だった。


 ゴゴゴゴゴ……ッ!!


 絶対に壊れないはずの、無限回廊の天井が。真っ黒な深淵の空が、ミシミシと嫌な音を立てて軋み始めた。見上げると、そこにあるはずのないものが。


 純白の、光。


 ただの魔術の光じゃない。命そのものが燃え上がるような、圧倒的な星の輝き。エリシアの祈りだ。魂の共鳴が、分厚い次元の壁を、物理的な光の矢となって穿とうとしている。


『……信じられん。次元の断層を、力業でこじ開けようというのか』


 エムが呆然とつぶやいた。


『えりちゃん、すごい……! ルッくんの霊素を辿って、ここまで……!』


 セラが両手を組んで、祈るように光を見つめる。


 メリッ、メリメリッ……!!


 空間が、ガラスみたいにひび割れていく。紫黒の深淵に、クモの巣みたいな白い亀裂が走って、光の破片がポロポロとこぼれ落ちてくる。泥人形どもが光を恐れて、ジリジリと後退していった。魔王の悪意すら、この規格外の光にはビビり散らしてるみたいだ。


「……すげえな、あいつ。ほんと、無茶しやがる」


 口では文句を言いながら、俺の顔は笑っていた。


 冷たい玉座なんか、くれてやる。俺は泥にまみれて、仲間と肩組んで、美味い飯を食う。そのためにこの深淵を全部ぶっ壊してやる。誰も犠牲にならない——そう決めたんだ。Zランクの力で力任せにひっくり返してやるって。


 光の亀裂が限界まで広がっていく。純白の輝きが、反転した重力の底を眩しく照らし出す。


 エリシアの祈りは純白の光となり、分厚い次元の壁を穿ち続けていた。


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