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第263話  前世の残響

「——世界は、愚かだ」


 声じゃなかった。

 鼓膜なんか、最初から関係ない。ただ、氷の杭が脳天から脊髄まで一気に打ち抜いていくような「意志」が、ドカッと俺の魂の芯に居座りやがった。


「がっ——!?」


 無限回廊。アストラの鞘で泥人形をかろうじて防いだ、ほんの数秒前のこと。あの接触が、スイッチだったらしい。最悪の。

 俺の意思なんてお構いなしに、頭の中を濁流が荒れ狂う。見知らぬビジョンが、波濤みたいに押し寄せてくる。


 燃え落ちる、途方もなくでかい樹。

 空を塗り潰す、どす黒い殺意の嵐。

 太古の戦場。そのど真ん中に、ぽつんと置かれた冷え切った玉座。


 そこに座っているのは。


 感情がすっぽり抜け落ちた、透き通った眼の「俺じゃない俺」だった。初代精霊王。


『循環など、無意味』


 やめろ。


『器を持たぬ者たちが、ただ感情のままに霊素を浪費し、魔素へと変える。その結果がこれだ。どれほど慈悲を注ごうと、命は勝手に濁り、争い、腐りゆく』


 入ってくるな。俺の頭ん中で、勝手に喋るな。


『いっそ私が、すべてを統制すればいい。悲しみも、喜びも、すべてを均せば、世界は永遠に保たれるのだから』


 圧倒的な、孤独。それから、神様特有の傲慢さ。どす黒いインクみたいに、それが「ルーカス・ヴァレリオ」という輪郭を内側から侵して、塗り潰していく。


「くそっ……なんだこれ……あたまが、割れ——」


 右手が、ガクガクと痙攣する。ずっしり重いアストラの鞘を、泥だらけの地面に取り落としそうになる。膝の力が、根こそぎ消えた。


 ぐちゃり。


 両手が冷たい泥をついていた。いつの間に、俺は蹲っていたんだ。


 右腕の冷却グローブが鼓膜を裂くようなエラー音を喚いてる。Zランクの異常な出力。腕の骨が中から煮え滾るみたいに熱い。だけど、そんな物理的な痛みなんか、今の俺にはチリ芥くらいにどうでもよかった。


『旦那!? おい、どうした!』


 頭上で、アルクが紫電を散らす。


『我が王! 意識を強く持たれませ!』


 フィオの翡翠色の翼が、激しく耳元で鳴る。


 うるさい。

 ——いや、ちがう。俺がそう思ってるんじゃない。俺の中の「神様」が、精霊たちの必死の声を、ただの耳障りなノイズとして切り捨てようとしている。


「あ……がっ……」


 視界が、ぐにゃぐにゃに歪む。無限回廊の壁も、這い寄る泥人形ののっぺらぼうも、もう見えない。あるのはただ、あの冷たい玉座と、俺を見下ろしてくる空っぽの瞳だけ。


『ルークさま! だめ、のみこまれないで!』


 ラグの悲鳴。冷たい水滴が頬に当たって、一瞬で蒸発した。内側から、俺が壊れていく。グレイウッドでの飯の味。マルタさんが作ってくれた、湯気の立つシチュー。カインのあの馬鹿みたいな笑い声。ノルンの気の抜けた相槌。オスカー副団長の、不器用でクソ真面目で、全部背負い込んで泣きそうな顔。アウストレア総団長の厳しい隻眼。王都においてきたフェデの、もふもふな背中。


 それから、エリシア。


 透き通った銀色の髪。いつも誰かのために無理をして、ひとりで重いものを抱え込もうとする、危なっかしい勇者。星の民として覚醒して神々しいまでの光を放ちながらも、俺にだけは、困ったような笑顔を見せてくれた。


 俺が冒険者として、仲間と積み上げてきた日常のぜんぶ。それを、真っ白な消しゴムで、ゴリゴリと削り取られていく。


『チリ芥にも等しき、些末な事象。世界を救うためには、不要なものだ』


「ふざける、な……っ」


 奥歯を噛み砕く勢いで食いしばる。口の中に、鉄みたいな血の味が広がった。


「俺は……俺だ。お前じゃねえ……! 俺は神様になりてえわけじゃない。冒険者ギルドでちまちま依頼受けて、たまにうまいもん食って、あったかいベッドで寝られりゃそれでよかったんだよ……!」


 必死に叫んで、自分を繋ぎ止める。だけど、重さが違いすぎる。あいつは理そのもの。世界を俯瞰する、途方もないスケールのシステムだ。俺は、ただの人間。抗おうとするたびに魂がミシミシ音を立てて、神経のいっぽんいっぽんを無理やり引き剥がされていくような激痛が走る。


「はぁっ、はぁっ……」


 頭を抱えて、泥の上に蹲る。息ができない。肺の中に、魔王アビスの濃密な魔素が無理やり入り込んでくる。吸い込むたびに、絶望と悪意が内側から俺を侵食していく。視界の端で、泥が蠢くのが見えた。


 ぐちゃ。ずぼぼ。


 俺が動けなくなった隙を、泥人形どもが見逃すわけがない。這い寄る音。無数の泥の腕が、俺の首や足に絡みつこうと伸びてくる。触れれば、霊素ごと腐り落ちる。あ、やばい。このままじゃ、自我が消滅して、ただの空っぽの容れ物になっちまう。誰かのための駒として、永遠に玉座に縛り付けられる。


「ルッくん!!」

「主よ!!」


 頭上から、ふたつの鋭い声が降ってきた。


 カッ、と。網膜を焼き尽くすような純白の閃光。それと同時に、すべてを飲み込む漆黒の夜の帳。セラとエレイム。光の大精霊と、闇の大精霊。


 ズガァァァンッ!!


 極大の光と闇が交差して、俺に群がろうとしていた泥の波を一瞬で消し飛ばした。飛沫すら残らない、完全な消滅。でも、俺の意識の崩壊は止まらない。泥人形が消えたあとも、頭の中に居座る「神様」の思考はびくともしない。


『馬鹿主! しっかりしろ! お前は誰だ!』


 足元の影から飛び出したエムが、俺の胸ぐらを思いきり掴んで揺さぶる。深い瞳が、珍しく焦燥で大きく揺れていた。


「え……む……」

『ルッくん、だめぇ! 目をあけて! あっちにいっちゃだめ!』


 セラが俺の顔をぺちぺち叩く。小さな手が、ひどく震えていた。


 エムの掴んだ手が熱い。セラの叩く手が、痛い。だけどその感覚すら、ものすごいスピードで遠ざかっていく。


『おいルーク! 燃やせ! その頭ん中のクソッタレな考えごと、俺の炎で全部燃やしちまえ!』


 ヴァルが肩でキャンキャン吠える。でもその声も、膜を隔てたみたいにぼやけてる。


『おやかた! 地に足をつけるのです! 己の重さを忘れてはなりませぬ!』


 オルドのずっしりした声が足元から響く。土の精霊の力が俺の膝を無理やり立たせようとするけど、力が入らない。


『ルーク様。あなたの芯は、氷よりも固いはずです。惑わされないで!』


 フロスが額に冷気を当ててくれる。その冷たさが、一瞬だけ俺の意識を繋ぎ止めた。


 みんなの声が、聞こえる。必死に俺をこっち側へ引き留めようとしてくれてる。六柱の精霊たちも、セラもエムも。俺の、大事な家族みたいなやつらが。


 なのに。


 指先の感覚が消えていく。怒りも、焦りも、恐怖も。仲間への想いすら、漂白されていく。


『すべては、あるべき場所へ』


 初代精霊王の声が、俺の最後の防波堤をあっさりと乗り越えた。頭の中にあったごちゃごちゃした感情が、ピタッと静止する。怒りもしない。悲しみもしない。そこにあるだけの、空虚。


 あぁ、もう、いいか。楽になれそうだ。俺が俺じゃなくなれば、世界は勝手に回っていく。全部投げ出してあの冷たい玉座に座ってしまえば、痛みも悲しみも何も感じなくなる。仲間を失う恐怖だって、味わわずに済む。


 泥だらけの手から、完全に力が抜けた。握りしめていたアストラの鞘が、指の間からすり抜けていく。


 ガラン、と。


 地面に転がる鈍い音が、妙に耳について離れない。俺の意識が、暗くて冷たい深海に完全に沈みきろうとした。その刹那。


 次元の壁を越えて、澄み切った鈴のような声が深淵に響き渡った。


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