第262話 襲い来る虚無
「うげっ、なんだあれ。冗談もほどほどにしろっての」
ぐちゃり。ずぼぼぼっ。
耳の奥を直接かき回されるような音。砕け散った空間の縫い目から、這い出してきやがった。赤黒くて、タールみたいに粘り気のある、泥の波。ただの泥じゃない。表面がぶくぶくと泡立って、のっぺらぼうの顔がいくつも浮かび上がっては弾けてる。弾けて、また浮かんで、また弾けて。魔王アビスの悪意が、形を持って押し寄せてくる。
「ルーク! 燃やし尽くせ! あんな薄気味わるい泥、灰も残さず消し飛ばしてやる!」
俺の肩で、赤い子狐のヴァルがキャンキャンと吠えた。尻尾の先から青白い炎がちろちろ漏れて、ひどく焦燥感を煽ってくる。
「言われなくても! 数だけは一丁前だな、このっ!」
右腕の冷却グローブが、キュィィィンって嫌な駆動音を立てている。親指でアストラの鍔を弾いて、漏れ出した星の光をぎゅっと圧縮した。
「吹き飛べッ!」
大気を引き裂く轟音。極大の衝撃波を、泥の波のど真ん中にぶっ放す。《瞬閃》。居合のように放たれた光の刃が、最前列の泥人形どもをまとめて薙ぎ払って。どばぁっ、と黒い飛沫が空間に散り、大きな穴が空いた。
よし、いける。
そう思ったのは、ほんの数秒のことだった。
「……は?」
空中に飛び散った泥の飛沫が、逆再生みたいにピタリと止まった。ぐにゃり、とうねって、あっという間に元ののっぺらぼうに再結合しやがった。斬られた断面から増えてるのか? さっきよりうじゃうじゃ増えてる気がする。自己増殖、まで。
『旦那! オレの雷もすり抜けるぜ! なんだこいつら!?』
アルクが頭の上でバチバチと紫電を散らしながら叫ぶ。雷撃が泥人形の体を素通りして、うしろの壁を黒く焦がすだけ。
『燃やしてもすぐくっつきやがる! クソッ、腹が立つぜ!』
ヴァルの紅蓮の炎も、表面を少し炙るだけで届かない。
「冗談だろ、おい」
斬っても殴っても、手応えがスカスカ。腐った沼に石を投げてるみたいな、ひどく虚しい感覚。
ぐちゃっ。
這い寄ってきた泥の腕が、俺のブーツの先を掠めた。
ジューッ、と。革が溶ける匂い。触れた箇所から、霊素そのものが根本から腐り落ちていくような、最悪の感触。指先から黒い靄が立ち上って、皮膚の感覚がじわじわと奪われていく。
「ルッくん、だめ! あれに触っちゃだめ!」
小さな天使の姿をしたセラが、六枚の羽をばさばさ振って飛んでくる。彼女の焦った顔を見るのは、精神衛生上よくない。
『ルーク様! 奴らは実体のない『停滞の理』です! 物理攻撃は通じませんわ!』
足元で、雪ウサギのフロスが赤い目を吊り上げて叫んだ。
「停滞の理、だと?」
『ええ。物理的な破壊も熱も、すべては『変化』です。ですが奴らは変化を拒絶し、ただそこに在り続けるだけの空虚。だから攻撃が通りませんの!』
「変化しない泥の塊ってことかよ」
舌打ちが漏れた。スライム相手に剣を振るのとは訳が違う。切っても切っても、そもそも『切られた』という事実が抹消されてしまうような理不尽さだ。
『……まったく、不愉快な。終わりの理を、こんな下劣な停滞に悪用するとは』
足元の影から、青年の姿をしたエムが忌々しげに顔を出した。漆黒の夜翼を少しだけ広げて、押し寄せる泥の波を睨みつける。
『バカ主。奴らはただの概念だ。まともに倒そうとするな。俺とセラで道をこじ開ける。お前はただ、その隙間を駆け抜けろ』
「わかった、頼む!」
『我が王、風の抜け道を読みます。わたくしの羽ばたきから遅れなきよう』
フィオが翠緑の光を軌跡に残して、泥人形の群れのわずかな隙間へ向かって飛び立った。その小さな背中が、今の俺には唯一の道しるべだ。
『おやかた、足元はお任せを。泥濘に沈ませはしませぬぞ』
オルドの重たい声と一緒に、踏み出す先の地面がガチンと硬く安定する。足場が安定してるだけで、どれだけ助かるか。
『ルークさま。清流の祈りで、少しでも空気を澄ませますね』
ラグの優しい声。まとわりつくような腐臭が、ほんの少しだけ和らぐ。肺に入り込むタールの感触を、透き通った水滴が洗い流してくれる。
みんながいる。
フェデはいない。王都に置いてきちゃったからな。相棒のでっかい背中がないのは心細い。星の民として覚醒したエリシアのことも気がかりだし、やっと目を覚まして自分のしでかしたことに絶望してるかもしれないオスカー副団長のことも。あの人は俺の元上官で、不器用なくらい真面目だった。王族としての重圧に苦しんでたあの人が、目を覚まして一人で泥かぶって泣いてるかもしれない。指導係として俺を鍛えてくれた恩だってある。早く帰って、みんなで美味いシチューを食うんだ。そのために、こんなところで立ち止まってる暇はない。
セラとエムが、光と闇の魔法で泥人形の波を左右に割る。その真ん中を、俺は全力で駆け抜ける。
だけど。
「……くっ」
走るだけで、霊素がごりごりと削り取られていく。物理攻撃が通じない概念の敵を強引に押し退けて道を維持するには、俺自身が膨大なエネルギーをダダ漏れにさせ続けなきゃならない。
右腕の冷却グローブが、限界を知らせるみたいにカンカンと甲高い警告音を鳴らしている。熱い。腕の骨の髄まで、煮え滾るような熱。Zランクの異常な出力。アストラの鞘から漏れる光をコントロールするだけでも、肉体に尋常じゃない負荷がかかってる。
『旦那、顔色がやべぇぞ! 無理すんな!』
アルクが心配そうに叫ぶ。紫電を散らす小さな雷竜の顔が、視界の端で揺れていた。
「無理しねぇと……進めないだろ、がっ!」
横合いから飛びかかってきた泥人形を、アストラの鞘で払い除ける。ぐちゃっ、という嫌な感触。弾き飛ばした瞬間、鞘に触れた泥から紫色の魔素がじゅわっと立ち上った。
息が、詰まる。
周りは見渡す限りの泥。魔王アビスの、煮詰まった悪意。高濃度の魔素が真綿みたいに俺の喉へ巻き付いて、精神をすり減らしていく。ただの疲労じゃない。魔素の圧力が、肺から血管に染み込んで、俺という存在の輪郭をぼやけさせていくような気味のわるさだ。
俺の意思とは関係ないところで、魂の奥底が軋む。
胸の奥。霊核のさらに深い場所。硬く閉じられていた古い箱の蓋が、魔素の圧力で無理やりこじ開けられようとしているみたいだった。
ドクン。
心臓が、妙なリズムで跳ねた。
息苦しい。いや、違う。俺が苦しいんじゃない。俺の中の「誰か」が、この極限の魔素の気配に反応している。
『我が王! 足元がふらついております!』
フィオの鋭い声が、水の底にいるみたいにくぐもって聞こえた。
視界が、ぐにゃりと歪む。目の前に迫る、のっぺらぼうの顔。避けないと。頭ではわかってるのに、体が鉛みたいに重くて、動かない。
『るっきー!』
『ルーク!』
精霊たちの悲鳴が交差した。俺は反射的に、アストラの鞘を盾のように構える。
ガツンッ!!!
泥人形の重たい一撃が、鞘に激突した。腕の骨がミシミシと鳴る。
その、瞬間だった。
衝撃とともに、俺の視界が真っ白に白飛びした。光じゃない。記憶だ。俺の記憶じゃない。俺が知るはずのない、遠い、遠い昔の風景。
パチパチと、火の粉が舞っている。
燃えている。見上げるほど巨大な大樹。いや、大樹なんてもんじゃない。天を覆い尽くすほどの途方もない大きさの樹が、紅蓮の炎に包まれて焼け落ちようとしていた。太古の戦場。世界中から集められた憎悪と絶望が、空を真っ黒に染め上げている。
そして。
その中心に、ポツンと置かれた玉座。誰もいない、静寂に包まれた戦場の真ん中で、ただひとり。冷え切った玉座に深々と腰掛ける、影のような人影。
誰だ。お前は、誰なんだ。
問いかけに答えるように、その人影がゆっくりと顔を上げた。目が、合う。感情の抜け落ちた、冷たくて、どこまでも透き通った瞳。
ああ、そうか。
理屈じゃない。魂が、理解した。
こいつは。初代、精霊王。
俺の、前世。
ドクン。
再び、心臓が大きく跳ねた。頭の中を、俺じゃない誰かの思考が濁流のように流れ込んでくる。
冷たい。ひどく、冷たい。そして、圧倒的なまでの、孤独。
泥人形の一撃を受け止めたまま。俺の意識は、太古の戦場のビジョンへと、真っ逆さまに引きずり込まれていった。




