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第261話  無限回廊の罠

「ちぃっ、どこまで走ってもおなじ場所じゃねぇか!」


 ぼわっ、と。


 俺の肩から赤い子狐が跳び出して、吠え猛った。ヴァルだ。尻尾の先から噴き出した火炎が、どす黒い岩肌を舐め上げる——ジリジリと空気が焦げていく匂い、熱の塊がうねるように奔る。


「燃えちまえ、こんな気味のわるい迷路!」


 だけど。


 ゆらぁっ、と壁が蜃気楼みたいに揺れて、煙が晴れたらなにも残ってない。焦げ跡ひとつない。すすひとつ。燃やしたっていう事実そのものが、するりと空間に吸い込まれて消える。


「……おいおい、マジかよ」


 思わずうめいた。壊しても、燃やしても、元通り。右の扉を蹴り破っても、左に曲がっても、結局おなじ壁のシミの前に引き戻される。タチのわるい悪夢の中に放り込まれた気分。


「ウソだろ。オレの炎が、まったく通らねぇってのかよ……!」


 鼻先をしかめてヴァルが唸る。


「無駄ですわ、野蛮な狐さん。ここは物質の理そのものが捻じ曲げられていますのよ」


 雪ウサギのフロスが、赤い目をすっと細めて言い放った。冷たい声だった。


「空間の概念が、円環のように繋ぎ合わされている。炎で壁を焼こうと、空虚を焦がすのとおなじこと。……底意地のわるい作りですこと」


「なんだと!? てめぇ、もういっぺん——」


「事実を申し上げたまで。頭を冷やしなさいな」


「あーもう、喧嘩すんなって」


 バチバチと火花と冷気を散らし始める二柱の間に、慌てて手を突っ込む。フェデの、あのでっかいモフモフの背中がないと、どうにも俺の調子が狂う。


『旦那ぁ、オレも走ってみたけどよ。どんだけスピード上げても、気づいたら旦那の後ろから飛び出してるんだぜ。酔いそうだ……』


 金色のドラゴネット、アルクが目をぐるぐるさせながら俺の頭の上に不時着した。どたっ、と鈍い重さ。前に進んでも、後ろに下がっても、おなじ景色がリピート再生されるだけ。


『ルークさま……。水脈の響きが、どこにもありません。完全に、死んだ場所です……』


 俺の襟元にしがみついて、人魚のラグが小さく震えている。彼女の周りに浮かぶ水滴すら、うっすら濁って見えた。空気がねっとりと重い——肺に吸い込むたびに、どす黒いタールが喉に貼りつくような、嫌な錯覚。


「大丈夫だ、ラグ。俺がいる」


 そっと、水色の髪を指先で撫でてやる。


 でも、俺のなかにも焦りがじわじわと這い上がってきていた。急がないといけないのに。向こうの世界に残してきた連中——エリシア。カイン。ノルン。そして、気絶したままのオスカー副団長。不器用でクソ真面目だった俺の指導係が、嫉妬と王族の重圧に押しつぶされて魔王側に堕ちた。目を覚ましたら、じぶんのしでかした事に絶望して、泥だらけになって泣くかもしれない。俺が帰るまで、無事でいる保証なんてない。


 冷却グローブが、右腕でカシャカシャと低い駆動音を立てている。Zランクの、規格外の霊素の熱を、アリスが徹夜で作ってくれたこの魔導具が必死に逃がしてくれている。けど、これもいつまでもつか。


「おい、エム。お前、闇の専門家だろ。このループ、抜け道わかんないのか?」


 足元の影に向かって声をかけると、ぬるり、と青年の姿をしたエムくんが浮かび上がった。


「……バカ主。俺を道案内か何かと勘違いするな」


 チッ、と舌打ち。


「俺が司るのは、休息と終わりの理だ。悪意だけで空間をごった煮にしたようなゴミ溜めの構造など、知るか」


 忌々しげに、紫黒い魔素を睨みつける。


「ただ、言えるのは——この空間そのものが、巨大な『檻』だということだ。侵入者を迷わせ、心をすり潰すためだけに作られた悪意の迷路。歩いて出口を探すなど、最初から不可能に設定されている」


「なんだよそれ。タチがわるすぎる」


「えーっ! じゃあルッくん、ずっとここから出られないの!? そんなの絶対やだ!」


 小さな天使の姿のセラちゃんが、ぶんぶんと首を振って俺の頬にすり寄ってきた。あたたかい黎明の光の粒が、少しだけ俺の強張った胸をほぐしてくれる。


「だーっ、もう! どうすりゃいいんだ!」


 頭をガシガシとかきむしった。剣で斬り裂こうにも、空間そのものがバグってるんじゃどこを狙えばいいかもわからない。アストラをでたらめに振り回して、この氷の足場ごと全部崩壊させたら、底なしの深淵に真っ逆さまに落ちていくだけだ。


 焦るな。考えろ。なにか——必ずほころびがある。


『おやかた。焦りは、地盤を脆くいたしますぞ』


 どっしりとした、腹に響く声。


 オルドおじいちゃんが、ぽふっと土の塊を揺らして俺の足もとに鎮座した。


『見えぬものを見るには、目を閉じること。……風の声に、耳を澄ませなされ』

「……風の声?」


 ハッとして、顔を上げた。


『お見事です、土の翁よ。我が王、少しだけわたくしの言葉に耳を』


 すっと。


 俺の肩から、緑の小鳥が飛び立った。フィオだ。翠嵐の賢者。無風のはずのこの回廊の中央で、ふわりふわりと羽ばたきながら滞空している。


『ルーク殿。この空間は、たしかに物理的な法則を無視して円環に繋がれております。しかし……』


 フィオの瞳が、恐ろしいほどの知性を帯びてきらりと光った。


『どれほど強固な幻や歪みであろうと、そこに「魔素」というエネルギーが流れている以上、必ず「風」は生まれるのです』


「魔素の、流れ……」


『左様。完璧に見えるこのループ空間にも、魔素を供給し循環させるための「隙間」が、ほんのわずかながら存在している。……風の理は、その歪な矛盾を、決して見逃しはしません』


 すうっと、フィオが高く舞い上がった。


 壁でも、天井でもなく、俺たちのすぐ横のただの空間。そこにピタリと静止して、鋭く鳴く。


『ここです、我が王! この座標のみ、霊素と魔素の風が、不自然な断層を描いております! 空間の縫い目——幻の接合点とでも呼ぶべき場所!』


「そこか!」


 迷わず、左腰のアストラに手をかける。


 抜刀は、しない。まだそのときじゃない。親指で、ほんの少しだけ鍔を弾いた。


 カチッ。


 漏れ出したのは、神域の星の光。鯉口が数ミリ開いた瞬間、暴発しそうな圧力で一気に溢れ出す。


「キュイィィィンッ!」


 冷却グローブが、悲鳴みたいなすさまじい排熱音を上げた。右腕の骨が、熱で溶けそうに痛む。指先からバチバチと霊素の火花が散る。Zランクの規格外の命の力が、鞘の出口を求めて暴れ狂う。グローブの革が、ついに焦げ臭い煙を上げ始めた。


 構うもんか。


「吹き飛べっ!」


 光を鋭い衝撃波に圧縮して、フィオが示した虚空の一点へ、渾身の力を込めて叩き込んだ。


 《瞬閃ブリンク》!


 バキィィィィィンッ!


 ガラスが——いや、世界そのものがひび割れるような甲高い音が鼓膜を打った。空中に走った亀裂から、紫色の魔素の景色がパラパラと剥がれ落ちていく。ステンドグラスが砕けるみたいに、きらきらと、虚空の底へ。


 ループしていた空間の壁が、悲鳴を上げて粉々に砕け散った。


「おおっ……!」

『やったぜ旦那! さすがだ!』

『ルッくん! すごい!』


 アルクが飛び跳ね、セラちゃんがはしゃいで俺の周りをぐるぐると回る。


 砕け散った幻の向こう側。深淵の闇の奥へと続く、ひどく歪で赤黒い光を放つ真の通路が、ぽっかりと口を開けていた。冷たくて、湿った、本物の空気が流れてくる。


「助かったぜ、フィオ。お前がいなきゃ、永遠にあの迷路でハムスターやってるところだった」

『もったいないお言葉。我が王の歩む道に、淀んだ風は吹かせません』


 誇らしげに、フィオが俺の肩へと舞い戻ってくる。


「よし。このまま一気に、魔王の寝首まで突っ走るぞ!」


 ニカッと笑って、アストラの鞘を叩いた。焦りが、どこかへ消えていた。八柱の精霊たちが、頼もしく俺の周りに陣取っている。いける。どんな罠が来ようが、絶対にぶち破れる。


 そう確信して、真の通路へと踏み出した——


 その、時だった。


 ずずずずずっ。


 鼓膜の奥を直接撫で回されるような、おぞましい音。


「……え?」


 真の通路の奥。赤黒い光の向こう側から。


 何かが、来る。


「な、なんだあれ……っ」


 泥だ。真っ黒で、ドロドロの。いや、ただの泥じゃない——魔王アビスの純粋な悪意が形を成したような、吐き気がするほど濃密な、死と停滞の気配。それがぐちゃり、ぐちゃりと音を立てながら、波のように押し寄せてくる。


 表面に、のっぺらぼうの顔みたいなものが浮かび上がっては消え、また浮かび上がる。声はない。ただ底知れない憎悪だけが、その泥の波からひしひしと伝わってきた。


「……ルーク。あれ、ただの魔物じゃない。悪意の塊だ」


 ヴァルが毛を逆立てて低く唸る。


 一つ、二つじゃない。十、二十——いや、百。千。トンネルの奥から無数の影の泥人形が、津波のように押し寄せてくる。顔はないのに、俺たちへ向けている感情だけは、痛いほどはっきりとわかる。


 憎悪。怨念。純粋な、底知れない悪意。


「おいおい……マジかよ。これ全部、相手にするのか?」


 冷却グローブが、ジリジリと嫌な熱を持つのを感じながら。


 俺は、押し寄せる泥の波を前に、アストラを構え直した。


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