第260話 反転する世界
これより【第5部】 精霊王覚醒編(再生と未来)です。
ズバァァァンッ。
鼓膜が、びりびりっと悲鳴をあげた。
背中を、重たい何かがぶん殴る。あの巨大な紫の渦——深淵の門が、完全に消えた音だ。
「……ふう。これで、あっちの世界に魔素の濁流が漏れることは、もうない」
じぶんで、帰り道をぶった切ってやったんだから。
気絶したオスカー元副団長と、星の民として覚醒したエリシア。ふたりのいる王都は、ひとまず安全だ。
肺の底にへばりついていた濁った空気を、細く、ゆっくりと吐く。
「さあ、ここからが本番。魔王アビスの喉元まで、一気に駆け抜けてやるぜ」
そう言って、一歩踏み出した。直後。
ひゅんっ。
「……は?」
内臓が、みぞおちのあたりでフワッと浮いた。
いや——違う。浮いたんじゃない。
「うおおおっ!?」
冷たい風を切る音が、耳元で狂ったように唸り始めた。
さっきまで、たしかに王城の中庭の石畳に立っていたはずなのに。門をくぐった瞬間、足元の感覚がすっぽり抜け落ちた。
視界をぐるんと巡らせて、背筋が冷えた。
「なんだこりゃ……でたらめにも程があるだろ」
見上げる。そこにあるのは、空じゃない。
真っ黒に干からびた大地が、天井みたいに頭上にへばりついていた。ひび割れた岩肌。どす黒い液体の滴る、捻じ曲がった枯れ木。土くれがぼろぼろこぼれてきそうなのに、重力が狂っているせいで俺たちのほうには降ってこない。
じゃあ、足元は?
どんぐり返った、空。
星ひとつない紫黒の深淵が、パックリと巨大な口を開けて、俺を飲み込もうと待ち構えている。重力が完全に反転した空間。俺は「空に向かって」真っ逆さまに、墜落していた。
冗談じゃない。のんびりスローライフどころか、ただの落ちるゴミになってたまるか。
フェデは、向こうの世界に置いてきた。気絶した元上官を護らせるために。だから今、俺の背中を受け止めてくれる黄金のモフモフはいない。
『おやかた! 足元をしっかりとなされよ!』
ダンッ!
俺の落ちていく先——つまり、足元の虚空に、ゴツゴツした岩の塊が突如として突き出た。頭に小さな鉢植えを乗せた土ゴーレム、オルドおじいちゃんだ。彼が空間の理を強引にねじ曲げて、空中に土の足場をドカッと造り出してくれた。
『我が王、風を!』
緑の小鳥、フィオが俺の首元をかすめる。下からものすごい上昇気流が巻き起こって、落下速度がぐんと殺された。
『熱暴走も防ぎますわ。わたくしの氷で、道を』
雪ウサギのフロスが、赤い目を細めて鼻先を揺らす。土の塊の表面が一瞬でぶ厚い氷の層に覆われて、平らな床になった。ひんやりとした冷気が、ブーツ越しに足裏から伝わってくる。
ブーツが、その空中の氷床に激突する。膝を深く曲げて衝撃を逃がして、なんとか立った。しっかりとした硬い感触。ツルツル滑るけど、落ちるよりは百万倍マシだ。
「おっと、危ねえ。さすがは魔王の引きこもり部屋ってわけか」
冷や汗を手の甲で拭いながら、強がって笑う。
「サンキューな、お前ら。ほんと、助かった」
『おいおいおい! なんだよこの悪趣味な空間は! 上も下もめちゃくちゃじゃねぇか! 燃やして上にぶっ飛んでやろうか!』
ポンッと。俺の右肩に赤い子狐が飛び乗ってきた。ヴァルだ。尻尾の炎をチロチロと苛立たしげに揺らしながら、天井の大地を睨みつけている。
『旦那ぁ! 雷のスピードがうまく乗らねぇ! 足の裏に泥でもくっついてるみたいで、すげえ気持ち悪いぜ! ビビッと走れねぇ!』
金色の雷竜アルクが、パチパチと青白い火花を散らしながら俺の周りをぐるぐる飛び回って騒ぐ。
『ルークさま。水が……流れる方向を忘れて、迷子になっているみたいです。うまく泳げません。ここ、すごく嫌な場所です』
水色の髪の小さな人魚、ラグが、宙を泳ぐ動きをひどく鈍らせて、不安そうに首元に寄り添ってくる。
『……風の理が悲鳴を上げております。我が王、ここはすべてが狂っている。乱風すら起きぬ、完全な死の空間。気をつけて進みませ』
いつも冷静なフィオが、珍しく羽を震わせていた。
『わたくしの氷で、この不快な淀みごと、すべて凍てつかせてやりたいですわ。こんな醜悪な魔素、見ているだけで腹が立ちます』
フロスが、足元の深淵を底冷えするような目で見下ろす。
六柱の上位精霊たち。全員、ここにいる。当たり前みたいな顔して、俺の肩やら頭やらにくっついてきやがった。
「お前らなぁ……。ここは魔王のど真ん中だぞ。遠足気分で来るところじゃないっての」
呆れたため息をついて、俺は精霊視を全開にした。
視界が、ぐにゃりと歪む。
紫黒い魔素が、腐った臓物みたいに空間のあちこちをドクドクと脈打って流れている。はっきりと、色として視認できる。吐き気がするほどの、純粋な悪意。息をするだけで、肺にべっとりしたヘドロが溜まっていくような——そういう感覚。
「ルッくん、気をつけて。ここは理そのものが淀んでいるわ」
ふわりと。淡い光の粒を散らしながら、小さな天使の姿をしたセラちゃんが目の前に舞い降りた。黎明の光。この絶望的な暗闇の中で、唯一あたたかくて、ホッとする道標だ。
「全くだ。あのバカ大精霊の成れの果てを還したと思ったら、今度はこれか。空気の悪さで言えば、最底辺の掃き溜めだな」
漆黒のローブをひるがえし、青年の姿のエムくんがため息混じりに横へ並んだ。足元から伸びる彼の影が、周囲のチカチカする魔素を静かに中和してくれている。
光と闇の大精霊。門が閉まる直前に、エリシアたちを置いてこっちに飛び込んできた一番の規格外コンビ。
「お前ら……なんで、ついてきたんだよ。世界樹の留守番はどうすんだ」
「だめだよ、ルッくん! ひとりで全部背負って、かっこつけるなんて許さないんだから! わたしたち、ずっと一緒にいるって決めたでしょ!」
セラちゃんが、ぷんすかと頬を膨らませて怒る。
「勘違いするなよ、バカ主。お前が勝手に死んだら、俺の寝床がなくなるだろうが。それに、先代の尻拭いは俺の仕事だ」
エムくんが、ふいっと顔を背ける。素直じゃないやつだ。
でも。こいつらの顔を見てると、肩の余計な力が、不思議と抜けた。
「……悪かったよ。ありがとな」
八柱の精霊。俺の前世、初代精霊王が造り出した、もうひとつの家族。こいつらがいてくれるなら——どんな理不尽だってぶん殴れる気がする。
「ああ、わかってる。ここから先は俺の"庭"の裏側だ。勝手はさせないぜ」
左腰に提げた星霊剣アストラの鞘を、ぎゅっと握り直す。右腕には、アリスが徹夜で造ってくれた冷却グローブ。カシャカシャと微かな駆動音を立てて、俺のZランクの霊素が放つ異常な熱を必死に逃がしてくれている。俺の出力過多を見抜いて、文句ひとつ言わずにこいつを渡してくれた。
「アリスのやつ、ほんと無茶しやがって。……後で、いくらでも美味いケーキ奢ってやるからな」
ぽつりと、独り言がこぼれた。
門の向こう側に残してきた仲間たち。カイン、ノルン。アウストレア総団長たち。そして、オスカー副団長。
ただの訓練生だった俺にとって、あのひとはどこまでも不器用で、クソ真面目で。王族の重圧に押しつぶされて、魔将アスモルの甘言に乗せられちまった、哀れな元上官殿。でも、俺の渾身の一撃で、あの憎き魔霊の核だけを焼き斬ったから。今はただの、気絶したおっさんに戻っているはずだ。
フェデは向こうの世界に置いてきた。俺の一番の相棒。でっかいモフモフ。あいつがいれば、目を覚ましたオスカー副団長がどんなに泣き喚こうが暴れようが、エリシアに指一本触れさせることはないだろう。
「あーあ。フェデの背中がないと、どうにも寂しいな」
目を覚ましたら、じぶんのしでかしたことに絶望して、泥だらけになって泣くんだろうな、オスカー副団長は。でも、アウストレア総団長がきっちりケツを叩いてくれるはずだ。セカイジュ騎士団は、国家の後ろ盾こそあれ、あくまで世界樹を護る超国家機関。だれも見捨てない。あいつは、また立ち上がれる。仲間として。
そして。エリシア。
最後に見た、血の気を失った彼女の顔。限界を突破して、星の民として覚醒した、俺の大切な勇者。
『絶対に——生きて帰ってくるって、約束して!』
あの悲痛な叫びが、まだ耳の奥にこびりついている。星空みたいなきれいな髪を揺らして、俺の腕をぎゅっと掴んだ、あのつめたい手の感触。
「……悪い、エリー。じぶんで帰り道、消しちゃったんだよな」
でも、死ぬつもりなんて一ミリもない。魔王の核を完全にぶっ壊して、この狂った異界を浄化して。絶対に、あいつの隣に帰る。みんなで、マルタさんのとろとろシチューを食うんだ。
「行くぞ、お前ら」
精霊たちが、それぞれの光を明滅させて応える。オルドおじいちゃんが次々と空中に岩の足場を生成して、俺たちはその無骨な階段を一歩ずつ歩み始めた。
周囲は、ねじ曲がった空間の壁。紫色の魔素が、血管みたいに壁の表面を這い回っている。コツン、コツンと、ブーツの音が奇妙に反響する。セラちゃんの光が前を照らし、エムくんの影が背後を守る。六精霊たちが、俺の肩やら頭やらで、それぞれ周囲を警戒していた。
「……にしても、悪趣味な廊下だな。目がチカチカする。それに——なんか、ひどく焦げ臭い」
しばらく歩いて、俺は足を止めた。
おかしい。
さっきから、景色がまったく変わらない。上に黒い根っこ、下に深淵。同じ模様の黒い岩肌が、ずっと続いている。
『ルーク、におい、おかしいですわ』
フロスが、冷たい息を吐きながら呟く。
「ルーク、ここ、さっきも通らなかったか? あの壁のシミ、見覚えがあるぞ」
ヴァルが、尻尾の炎を揺らして壁を指差す。たしかに、黒い亀裂の形が、さっき通り過ぎたものと完全に一致していた。
「空間がループしてるのか? 物理的な距離を無視して、同じ場所を繋ぎ合わせてるみたいだな」
エムくんが、忌々しそうに影を這わせる。影が伸びた先で、空間がぐにゃりと歪んで、もとの場所に戻ってくるのが見えた。
歩いても歩いても、同じ場所。扉を開けても、また元の景色。物理的な移動では絶対に最深部へ辿り着けない——空間がループする罠。
魔王アビス・マルグリウス。そう簡単に親玉の寝首をかかせてくれるわけがないか。その先には、方向感覚を狂わせる無限の回廊が待ち受けていた。




