第258話 筆頭魔将の終焉
「苦しかったでしょう。あとは、わたしが引き継ぎますから」
エムくんの声が、夜の空気に溶けた。
冷たくない。ちっとも冷たくなかった。ふかふかの毛布みたいに、あたたかくて、やわらかくて。
パキッ。
小さな、ものすごく乾いた音。
……あ。
ノクターンを縛り続けていた分厚い黒鎧が、足元から、さらさらと崩れていった。ガラス細工みたいにひびが走って、砂みたいに。あっけないくらい、静かに。
「……あぁ」
崩れた鎧の中から現れたのは、恐ろしい魔将なんかじゃなかった。透き通るような顔をした、穏やかな青年の幻影。先代の闇の大精霊、ノクターン。
「お兄ちゃん……っ!」
セラちゃんが、小さな天使の姿のまま飛びついた。光の粒が、涙と一緒にぼろぼろとこぼれてる。わんわんと声を上げて泣きじゃくる姿は、どこまでも純粋で。見ているだけで、胸がひりついた。
「……セラ」
透き通る声。ノクターンがそっと手を動かして、セラちゃんの頭を撫でるように。
「すまなかった。こんなに長い間、一人にしてしまって」
「ううん……っ! わたし、ずっと信じてたもん。お兄ちゃんは、ほんとうは優しいんだって……っ!」
彼は、ふんわりと笑った。妹を見る、ただのお兄ちゃんの顔。それからゆっくりと視線を動かして、わたしの方を見て、深く頭を下げた。
「名も知らぬ星の娘よ。……そして、ルーク」
空気に溶けているルークの霊素に向かって、静かに語りかける声。
「すまない。私の弱さが、世界をここまで歪めてしまった。だが……君たちの光が、私を救ってくれた」
「謝らないで」
わたしは、ゆっくりと首を横に振る。
「あなたが一人で、痛みを抱え込みすぎちゃったんだもの」
小さく息を吐いて、ノクターンはエムくんを見た。
「……若き夜よ。エレイム。私の投げ出した座を、よく守ってくれた」
「なんだよ」
エムくんが、わざとそっぽを向く。耳の先が、ほんのすこし赤い気がした。
「俺は、主みたいなお人好しじゃない。お前の失敗を繰り返すつもりはないからな」
「ふふっ……そうか。頼もしいな」
ノクターンのからだが、足元から少しずつ、淡い光の粒子に変わり始めた。
「……やっと、眠れる。ほんとうに、長い長い悪夢だった」
「おやすみなさい、お兄ちゃん……っ!」
セラちゃんが思いっきり手を振る。涙がぶわっとあふれてる。
「ああ。……おやすみ、セラ」
きらきらと。金色の、淡い紫色の光になって。ノクターンの幻影はふわりと浮かび上がり、世界樹が待つ高い空へ、静かに還っていく。
『へっ、やっと肩の荷が下りたって顔してやがったな。向こうに行ったら、存分に羽を伸ばしな!』
ルークの霊素をたどって、ヴァルの声が頭の中に響いた。
『ええ、長すぎる迷子でしたわね。……お疲れ様でした、先代。静かな水底のような平穏が訪れますように』
ラグの声。それからフィオ。
『美しい夜明けです。風も、安堵の歌をうたっておりますよ。あなたの残したものは、決して無駄にはなりませぬ』
『ふぉっふぉっ。まったく、世話の焼ける若造じゃったわい。大地はいつでも、お主の魂の寝床を温めておるからの』
オルドおじいちゃんの声に続いて、フロス。
『ええ。もう凍えることはありません。冷たすぎる氷は溶け、ただ清らかな水へ還るのです』
『おう! 起きたらまた、雷みたいにドカンと宴会でもやろうぜ! 迷子になったらオレが道しるべ作ってやるからよ!』
アルクがパチパチと火花を散らした。みんなの声が、光と一緒に、空へ吸い込まれていく。
「……終わったのね」
「ええ。魔将アスモルは完全に消滅しました。……いや、ノクターンは還りました。魔王軍の筆頭魔将は、終わりです」
エムくんが静かに答えた、その瞬間。
わたしの中で張り詰めていた糸が。
ぷつん。
……あ。
手の中にあった星光の剣が、すうっと消える。星空を映していたわたしの髪が、元の白金色に。翠の瞳も、いつもの色に。限界突破していた力が、急速に引っ込んでいく感覚がして。
どっ、と。
信じられないくらいの疲労感が、全身に。
……だめ、倒れる。
膝から一気に力が抜けた。地面が、急に迫ってくる。
「わふっ!」
ドンッ。ふかふかの毛皮が、わたしの背中を受け止めてくれた。
「フェデ……」
わたしの覚醒の光で癒えたフェデが、大きなからだを丸めてクッションになってくれていた。
「ありがとう、フェデ。……重いでしょ」
『クゥン……』
大きな舌でほっぺをぺろっと舐められた。温かくて、くすぐったい。
「こらこら、無理するな」
エムくんがため息をつく。呆れてる声だけど、怒ってない。
「ルークのバカみたいな霊素を丸ごと受け止めて……からだがもったのが奇跡だぞ」
「えへへ……。だって、みんなを守りたかったから」
「まったく、主に似て無茶苦茶なヤツだ。……でも、よくやった」
小さく笑った声。それだけで、なんか泣けてきそうになった。
「エリーちゃん、だいじょうぶ? 痛いとこない?」
「うん、平気。ただ、すっごく眠いだけ」
「だめだよー! もうちょっとだけ起きてて!」
フェデの背中に寄りかかったまま、深呼吸した。空気が、すきとおってる。さっきまで肺が焼け焦げそうだった魔素の気配が、嘘みたいに消えていた。
「勝ったんだね。わたしたち」
「ああ。この場の制圧は、俺たちの完全勝利だ」
エムくんが力強くうなずく。遠くで倒れているオスカーさんも、気絶してるけど、呼吸はちゃんとしてる。彼を蝕んでいた魔霊の核はルークが斬ってくれたから。あとは、目を覚ました彼に、じっくり反省してもらうだけだ。訓練生だったルークに押し付けた、あのクソ真面目で厳しい指導の何倍もの量で。劣等感とか嫉妬とか、王族のプレッシャーとか。そんなくだらないもの、ぜんぶ吐き出させてやる。カインくんも、アウストレア総団長も、みんな彼が戻ってくるのを待ってるんだから。誰も、理不尽に命を奪われなかった。
よかった。
……でも。
胸の奥が、ぎゅっと締まった。達成感と安心感。それと同じくらい、ぐらぐらとした不安が波みたいに押し寄せてくる。
「……ルーク」
無意識に、名前を呼んでいた。
視線が、自然と西の空へ向く。どんよりと紫に渦巻いていたはずの空は、今、不気味なくらい静まり返っている。深淵の門の向こう側。魔王アビス・マルグリウスがいる、ほんとうの地獄。そこに、ルークは飛び込んでいった。わたしの制止を振り切って。
『誰かが犠牲になる理不尽な結末は、俺が壊す』って。
あんな規格外のバカげた力を背負ったまま。いつもスローライフがいいって愚痴ってたくせに。絶対にわたしたちを見捨てない、あの人が。
「……あいつなら、大丈夫だ」
エムくんが、西の空を見つめる。
「俺たちのバカな主だぞ。あんな魔王ごとき、軽くひねり潰して、文句言いながら帰ってくるさ」
「うん……そうだよね。ルークだもんね」
「そうだよ! ルッくんは、ぜったいに約束まもるもん!」
「わふっ!」
セラちゃんとフェデも、心底信じきった声で。みんな、信じてる。わたしも、信じてる。あの大きな背中。あたたかくて、ちょっと猫背で。わたしに、本当の勇気の意味を教えてくれた背中。
「……うん。わかってる」
フェデのあたたかい毛皮に包まれながら、じっと西の空を見つめ続けた。
遠く、遠く。目には見えないけれど、そこに彼がいるって、わかる。
だから。
どうか、迷わないで。あなたの帰る場所は、ちゃんとここにあるから。
早く帰ってきて。また、マルタさんのシチュー、みんなで食べようよ。あなたが困ったように笑う、あの日常に。




