第257話 魂の解放
パチン、と。
弾けた。
あの、世界をまるごと磨り潰すような、黒くてぬるぬるした絶望の塊が——きれいな光の雨になって、さらさらと、消えた。ただそれだけ。あっけないくらい、それだけのことだった。
分厚い漆黒の鎧の奥で、ドクン、ドクンって。ひどく嫌な音を立てて脈打つ、どす黒く濁った闇核が、痛いくらいむき出しになってる。絶対の攻撃をあっさりと無効化されて、彼の胸に——ぽっかりと、決定的な隙が。
「……ありえない」
アスモルの喉の奥から、空気が抜けるような音が漏れた。かすれて、細くて、まるで蝋燭の火みたいな声。
「私の、理が……すべてを呑み込む深淵が……こんな、光の粒子に……っ」
腕を振り下ろしたまま、石像みたいに固まってる。星の理に呑み込まれて、魔素の循環がもうめちゃくちゃになっちゃってるんだ。
『ガウッ』
うしろで、フェデが低く喉を鳴らした。気絶してるオスカーさんをかばいながら、血だらけのからだで踏ん張ってる。ルークが「こいつを頼む」って、不器用な大きな手で託していった、あの元上官。
「だいじょうぶだよ、フェデ」
星光の剣を握る手を、ゆっくりとゆるめた。
刃で斬り裂く?
ちがう。そんなこと、ルークは望まない。ただ力でねじ伏せて、相手を消し飛ばすだけの終わり方なんて——それは決着じゃない。
「えっ、エリーちゃん!? 剣、消しちゃうの!?」
頭のうえでセラちゃんがあわてて飛び回る。
「おいおい、大チャンスだぜ! あの真っ黒な急所、星の光で一気に焼き尽くせ!」
ヴァルの幻影が赤い尻尾をばんばん叩きつける。
「だっはは! ルークの旦那の分まで、ドカンとお返ししてやれ!」
アルクも金色の火花を散らしてはしゃぐ。
「おだまりなさいな」
フロスが冷たい風をまとって、静かに。
「彼女には、見えているのでしょう。あの鎧の奥で、なにが泣いているのかが」
「ええ。風が、とても悲しい歌を運んできますな」
フィオが緑の羽をたたんで目を伏せた。
「怒りではありません。疲れ果てた者の嘆き。我が王が残した命の光は、それを見捨てはしないでしょう」
「ふぉっふぉっ。大地のように、すべてを受け止める気じゃな」
オルドおじいちゃんが低い声で笑う。
「ええ……本当に。冷え切った心には、いささか温かすぎる光ですわね」
ラグが、祈るように両手を組み合わせた。
みんなの声が、そっと背中を押してくれる。
剣が、光の糸になってほどけていく。ルークが置いていってくれた、純度百パーセントの命の光。それを、両手にいっぱいに集める。わたしを星の民にしてくれた、あのあたたかい温度。
「な、なにをする気だ……っ! 近寄るな!」
アスモルが怯えたように叫んだ。
「哀れんでなんて、いません」
まっすぐ、彼の赤い瞳を見る。星空がうつったわたしの目で。
「ただ、もう終わりにしたいんです。あなたの、悲しい嘘を」
光に包まれた両手を、そっと伸ばした。そのまま、アスモルの胸の奥。どす黒く脈打つ闇核に、直接ふれる。
やさしく、言葉をかける。
その瞬間だった。
どわああっ、と。
指先から、すさまじい量の記憶が頭のなかに流れ込んできた。
『……また、死んだ』
低く、重たく、どこまでも悲しい男の人の声。視界が切り替わって、見渡す限りの荒野が広がる。空は血みたいに赤くて、地面には数え切れないほどの屍が転がってた。
『私が看取らねば。この魂たちを、静かな夜へ還さねば……』
黒いローブを着た、おだやかな青年の後ろ姿。先代の闇の大精霊、ノクターン。
『だが、多すぎる。人が人を殺し、魔が人を喰らい……終わりがない』
悲鳴。絶望。恨み言。死んでいく者たちの声が、彼の魂に泥みたいにこびりついていく。看取っても、看取っても、終わらない。
『お兄ちゃん、だいじょうぶ……? わたしが、あしたの朝の光をいっぱいいっぱい届けるから。だから、泣かないで』
『セラ……お前は優しいな。だが、お前の光が強ければ強いほど、残された影は濃く、深く沈むのだよ』
終わらない痛みの処理。絶え間なく流れ込んでくる死の記憶。優しすぎたから。その痛みをぜんぶ、じぶんのものみたいに感じちゃったんだ。やがて、その心はぽきりと音を立てて折れてしまった。
『もう、終わりにしたい。なにもかも』
そこに、甘い、ドス黒いささやきが忍び込んだ。魔王の呪い。
【ならば、私と共に来い。永遠の夜で、世界を眠らせてやろう】
『ああ……そうだ。それがいい。すべてを静止させれば、もう誰も傷つかない。誰も、苦しまない……』
悲痛な魂が、真っ逆さまに深淵へと落ちていく。安らぎを求めただけだったのに。ただ、痛みを止めたかっただけなのに。
「……う、ああああああっ!」
現実の世界で、アスモルが頭を抱えて絶叫した。
「ちがう! 私は、そんな弱々しい存在ではない! 魔王様の右腕たる……っ!」
「無理しないで。もう、わかってるから」
わたしは、彼を包み込むように、もっと光を流し込んだ。
「やめろ……私のなかに入るな! その光を、よせえええっ!」
アスモルが暴れようとする。でも、もう彼には、わたしを突き飛ばす力すら残っていなかった。ぽろぽろと。漆黒の鎧の隙間から、黒い魔素がこぼれ落ちていく。
「……まったく。不器用すぎるだろう、あなたは」
静かな声が、響いた。
エムくんだ。血と泥にまみれた黒いローブを翻して、ゆっくりと前に出てくる。
「主もそうだが、お前もだ。どうしてこう、背負い込みすぎるんだ」
エムくんの足元から、夜の影がすーっと広がっていく。それは冷たい深淵じゃなくて——あたたかくて、静かな、ほんとうの『休息の夜』。
「お前が絶望した世界は、たしかに残酷で、愚かだ。だがな——すべてを無に帰すことと、眠りにつかせることは、違う」
「きさま……何者だ……。その、気配は……」
アスモルの奥のノクターンの魂が、うわごとのようにつぶやく。
「私は、エレイム。お前が投げ出した座を、世界樹から押し付けられた新米の闇の大精霊だ」
エムくんは、自嘲気味に笑った。
「お前が残したツケのせいで、こっちは毎日大変だよ。バカな主の世話まで焼かされて、休む暇もない」
「……」
「だがな。お前がどれだけ絶望しようと、世界はまだ、終わるのを望んじゃいないんだよ。光も、風も、命も——あきらめちゃいない」
エムくんが、すっと右手を伸ばした。わたしの光と、エムくんの闇が、アスモルの胸のところで静かに交ざり合う。
「エリー。あとは私がやる。お前は少し下がってろ」
「うん。お願いね、エムくん」
手を離すと、アスモルのからだがくりと崩れ落ちそうになった。それをエムくんがしっかりと抱きとめる。
「……なぜだ。なぜ、私を……」
ノクターンの声が漏れる。
「私がお前たちを苦しめたのだぞ。世界の理を歪め、多くの命を奪った。許されるはずが……」
「誰も許すとは言ってない。罪は罪だ。お前がやったことは、取り返しがつかない」
エムくんの声は、冷たかった。でも、その腕は、どこまでもやさしく彼を抱きしめていた。
「だが、お前が一人で背負う必要もない。お前が抱えきれなかった世界の痛みは、私が引き受ける」
「……あ……」
アスモルの目から、黒い濁りがすーっと消えていく。狂気と絶望で塗り固められていた瞳の奥に——澄んだ、おだやかな光が戻ってきた。
「セラも、ずっと泣いてたぜ。バカな兄貴だってな」
「……セラ……。そうか……あの子は、まだ……」
「ああ。いまも、お前の代わりに、元気に朝を呼んでるよ」
ノクターンの頬を、ひとすじの涙が伝い落ちた。黒い魔素じゃない。ほんとうの、すきとおった涙。
「……すまなかった。私は……ただ……みんなに、おだやかに眠ってほしかっただけなんだ……」
「わかってる」
エムくんは、ゆっくりと、彼を夜の影で包み込んでいく。
「……もう、終わりにしよう」
耳元で、やさしく。
「よく頑張ったな。もう、無理しなくていい」
「……あ、あぁ……」
アスモルのからだから、どろどろとした魔素が剥がれ落ちていく。長い長い悪夢から、解放されていくみたいに。
「苦しかったでしょう。あとは、私が引き継ぎます」
エムくんの声が、闇の中に静かに溶けていった。




