第209話 出陣の宴
「勝とうぜ」
どんっ、と。
使い込んだ木のジョッキが、テーブルの真ん中に叩きつけられた。中身はただの果実水——干し果実を絞っただけの、すっぱい汁だ。いつものひねくれたトーンじゃない。腹の底よりもっと深いところ、魂の根っこあたりから、ぎゅうっと絞り出したみたいな声。カインの声だ。
「ええ。……みんなで、必ず帰りましょうね」
ノルンが木杯をそっとあてる。いつもとろんとしている青い瞳の奥で、今夜だけは、ちいさな火みたいな光がチロチロ揺れていた。教会のスパイだなんだって裏の顔はあっても、今この輪のなかでは、ただの野良小隊の仲間だ。
グレイウッドの宿屋《月下葡萄亭》。
テーブルに並ぶのは、石みたいに硬い黒パン、塩を吹いた干し肉、少しばかりの安酒。王都が落ちて難民があふれる今、辺境じゃこれが限界だ。死地へ向かう前夜祭にしては、あまりにも質素で、素っ気ない。
それでも、なんだろう。空気が温かかった。
「おいおい若ぇの! 明日足元がフラついたら困るからな、水でも飲みすぎんなよ!」
バルドランさんが赤茶のヒゲを撫でて、腹の底から笑う。ドワーフ特有の、ビリビリくる声だ。
「飲んでねぇっすよ! ただの果実水だっての!」
「ガハハ! 腹から声が出るのはいいことじゃ! それでこそ盾になれるってもんだ!」
その騒ぎの隣で、アウストレア総団長が静かに杯を傾けていた。右目は眼帯で塞がれ、砕けた鎧の代わりに分厚い外套をまとっている。王都脱出のとき、命を削って雷陣を敷いてくれたから、満身創痍のはずだ。それでも、あの重圧感だけは微塵も揺らいでいない。
「……カインの言う通りだ」
低い声が、すっと空気を割った。
「我々は、勝ちに行く。セカイジュ騎士団は一国の軍隊ではない。世界樹を守るための刃だ。だが今夜だけは——奪われたものを取り戻し、あの大馬鹿者の副団長を引きずり戻すために、杯を上げよう」
オスカー・ヴァルド・ガルドリアン。
俺たちの上官。剣の握り方から騎士の矜持まで、訓練生だった俺たちに不器用なくらい真剣に叩き込んでくれた男だ。七つも年上の、クソ真面目な副団長殿。王族の重圧も、勇者への執着も、全部一人で抱え込んで——誰にも頼れなくて、勝手に潰れて、闇に落ちた。
ぶん殴ってでも連れ帰る。それがこの宴の、本当の意味だ。
『だはは! 旦那ァ、景気よくいこーぜ!』
ジョッキのふちで、バチバチと火花が弾けた。金色の小さな雷竜、アルクだ。
「お前なぁ、焦げ臭くなるだろ」
『いいじゃねぇか! あの上官殿の分厚い心の壁、オレの雷で一発ぶち抜いてやる!』
『うるせぇぞアルク! あの黒炎ごと焼き尽くすのはオレの仕事だ!』
テーブルの真ん中で、赤い子狐のヴァルが干し肉をかじりながら吠える。尻尾の先が、ゆらゆら揺れて燃えていた。こいつらが目に見えるかたちでそばにいてくれるだけで、どれだけ楽になれるか。
『ヴァル、はしたないですわよ。あなた、霊素を吸えば十分でしょうに』
『まあまあフロス、今夜くらいは』
雪ウサギのフロスが長い耳をだらんと垂れ、水滴サイズの人魚のラグがくすくす笑う。オルドの重たい声と、フィオの羽ばたきが重なる。光のセラと闇のエムは今夜ここにはいないが、この六柱がいれば十分すぎるほど心強い。
「はいはい、お肉追加ですよー! フェデちゃん、喉に詰まらせないでね!」
ミリアが大皿を抱えてやってくると、足元でまるまっていたフェデが尻尾を床にバタバタ叩きつけて立ち上がった。霊導銀の装甲がチャカチャカ鳴る。戦車みたいなごつい姿になっても、食いしん坊の中身はそのままだ。
「霊獣の胃袋は、空間拡張の術式に似た構造を持っているのか……実に興味深い」
部屋の隅で、ギルベルト先生がブツブツ言いながら手帳にペンを走らせている。
「先生。そこまで観察してんのか」
「明日の過酷な旅を考えれば、この無尽蔵の栄養補給も理にかなっている。……測定器を壊されたあの日から、まさかこんなことになるとは思わなかったよ」
白髪交じりの頭を掻いて、苦笑する。
「君の背負っているものは、私の想像を遥かに超えていた。だが忘れないでほしい——君は君だ。ちょっとばかり常識外れな、ただの冒険者だ」
「……ええ。平穏を愛する、ただの冒険者ですよ。スローライフは、ちょっと遠のきましたけどね」
「世界を救ってから、ゆっくり休むといい」
ふと、隣に気配がした。
銀色の、透き通るような髪。月明かりをそのまま溶かしたみたいな輝き。
「……騒がしいですね、ルーク」
エリシアが木杯を持って、俺の隣に座った。星空みたいな深い碧い瞳が、静かに俺を見る。
「こういうの、嫌いか?」
「いいえ。……とても、温かいです」
彼女はもう、人間の枠組みから外れちまった。俺が霊素という名の命を流し込んだせいで、まったく新しい種族になった。でも、笑顔は以前よりずっと柔らかい。守られるだけのお姫様だった頃の、あの張り詰めた感じがない。
「……明日は」
エリシアの瞳が、すっと細くなった。その奥で、鋭い光が揺れる。
「一緒に、オスカー様を殴りに行きましょう。私、もうただ守られるだけじゃありませんから。あなたの背中を、銀の弓で守ります」
「……ああ。頼りにしてるよ。あの石頭が目を覚ますまで、何度でもな」
コツン、と。木杯が小さく鳴った。
「ほーら、あんたたち! シチューができたよ!」
厨房からマルタさんが大鍋を抱えて出てくると、肉と野菜の匂いが部屋いっぱいに広がった。胃袋がきゅるっと鳴る。
「順番だよ。ルーク、あんたも食べな。しっかり食っとかなきゃ、戦になんて行けないよ」
俺の前に山盛りのシチューが置かれる。木のスプーンで、とろとろに煮えた肉をすくって口に入れる。野菜の甘みと肉の旨味がじわっと広がった。熱くて、しょっぱくて。
これだ。この味が、俺の日常だ。守りたかった平和な日々の、最後の味。
「……美味い」
「当たり前さ。誰が作ったと思ってるんだい」
マルタさんが腰に手を当てて胸を張る。でも、すぐに声が落ちた。
「ルーク。……また厄介事に首突っ込むんだろう?」
「……まあ、ちょっとした大掃除みたいなもんですよ」
ゴツゴツした手が、俺の頭をぽんっと叩いた。
「……行ってらっしゃい。一番デカい鍋に、最高のシチューを作って待ってるから。だから——腹空かせて、帰っておいで」
視界が、少しだけぼやけた。
「……行ってきます」
皿を持ち上げて、最後の一滴まで飲み干した。空っぽになった器をテーブルに置く。絶対にまた、ここで食べる。そのためにも、負けるわけにはいかない。
***
宴は夜更けと共に、静かに終わった。
誰も多くは語らない。各々が部屋へ戻っていく。静まり返った自室で、俺は一人、机に向かっていた。羊皮紙にペンを走らせる。オスカーへの言葉。「戻ってこい」。「また一緒に飯を食おう」。「あんたは、間違ってなんかいない」。
色々書いた。でも。
書いた紙を、ロウソクの火にかざした。
チリチリと音を立てて、紙が燃えていく。黒い灰になる。
「……言葉じゃ、届かないよな」
あいつは言葉を信じられなくなって落ちたんだ。完璧な王子を演じて、使い潰されて、誰にも本当の自分を見てもらえなかった。そんな奴に、薄っぺらい手紙なんて何の意味もない。届くのは、行動と痛みだけだ。
「待ってろ。全身全霊でぶつかってやるからな」
灰を窓から風に流して、俺は決意を固めた。
***
夜が、明ける。
冷たい空気が窓から流れ込んで、東の空が白み始めた。
「行くぞ、フェデ。……大馬鹿野郎の目を覚まさせに」
「わふっ!」
外に出る。向かう先は西。魔王軍が待つ、国境の平原だ。
そこに、信じられない光景が広がっていた。朝日を背に受けるソルミリアの正規軍の旗。アウストレア率いる、ボロボロでも誇り高い残存部隊。それだけじゃない。
「ルーク、見ろよあれ!」
カインが指差す先、地響きと共に北から現れたのは重厚な鋼鉄の塊——ドワーフの戦車部隊だ。先頭に立つ鍛冶王ハルドが、巨大なハンマーを肩に担いでニヤリと笑っている。
「空も、すごいですよぅ!」
東の空を覆うように現れた大鷲アルジェイルの群れ。エルフの義勇兵たちがラファエルの指揮のもと、空から降りてくる。
人間の軍。ドワーフの戦車。エルフの空軍。
オスカーがどれほど望んでも手が届かなかった、種族を超えた結束の姿がそこにあった。
皮肉なもんだ。あいつを討つために、あいつが守りたかった世界が一つになろうとしているなんて。胸の奥がじんと熱くなる。こんだけの奴らが、あいつ一人のために。
「……みんな、ありがとう」
冷たい朝の風が、頬を叩く。
決戦の幕が、上がる。




