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第208話  代償と覚悟

 ドォォォォォォンッ……!!


 遅れてくる。音が。

 鼓膜を内側から殴りつけてきた瞬間、夜の森がまるごと真昼に化けた。白い。眩しいんじゃなくて、ただ白い。そして、また闇。


 目の前から、岩山が消えている。


 崩れた、じゃない。砕けた、でもない。消えたんだ、あの岩山。跡地には焼けた土の匂いと陽炎みたいな熱気が漂っているだけで、なんにもない。さっきまでそこに何万トンもの岩があったことを、地面は覚えていないみたいだった。


「……は、はは。……やった、か……?」


 喉がひゅーひゅー鳴る。右手にある《星霊剣アストラ》の重さが、わからない。いや、重さどころか、肩から先の感覚が丸ごと抜けてしまっている。


『オイ! ルーク! 見たか今の! すげぇぞ! あの黒炎ごと吹き飛ばせる威力だ!』


 ヴァルが俺の肩の上で、興奮で尻尾をぶんぶん振る。その炎の色が、いつもの赤じゃなく、少しだけ白っぽく透き通って見えた。こいつも、全部出し切ったんだ。


『……ですが、やりすぎです』


 ふわりと冷たい風が頬を撫でた。氷のフロスだ。雪ウサギの耳をぴんと立てて、俺の右手をじっと見ている。


『アストラを見てください。……鞘に戻りませんわ』


 言われて、ぼやける視線を右手に落とす。鞘から三分の一だけ飛び出した刀身が、溶岩みたいに赤熱していた。鞘の木目からも赤い蒸気がシューシューと吹き出して、世界樹の枝で作られたはずの鞘が、主の熱に悲鳴を上げているみたいだった。戻そうにも、熱膨張で引っかかって、ビクともしない。


「……燃費が、悪すぎるだろ……これ」


 苦笑しようとして、顔の筋肉が言うことを聞かなかった。


 その瞬間だ。


 ドクンッ。


 《精霊王核》が、嫌な音を立てて跳ねた。景色が二重、三重にブレる。極彩色のノイズが視界を走って、足元の地面が急に天井みたいに迫ってくる。膝から力が抜けたんじゃない。地面が俺を飲み込もうとしているんだ。


『ルークさま! 循環が乱れています! 逆流しています!』


 ラグの声が遠い。水の精霊が俺の額に雫を落としてくれるけど、それが「ジュッ」と音を立てて蒸発するのがわかった。


『馬鹿野郎! だから言ったろ!』

『おやかた、しっかりせい!』


 ヴァルとオルドの怒鳴り声が、水底から聞こえてくるみたいだ。ああ、これが「霊素酔い(マナ・ショック)」ってやつか。器の許容量を超えて力を回しすぎたときに起きる、魂のオーバーヒート。前世でも、脳が焼き切れる寸前みたいな感覚は、一度だけ知っている。


(……急がないと)


 泥の中に沈む意識の端で、俺はひとつのことだけ考えていた。自分の体のことじゃない。あいつのことだ。西の空の向こう、真っ暗な雲の中、誰の声も届かない冷たい玉座に、たった一人で座り込んでいる、あの不器用な男の顔。


(オスカー……)


 お前、いま、どんな顔してるんだよ。


 そこで、俺の意識はプツンと途切れた。


 ***


「……ん」


 重い瞼を持ち上げる。最初に目に入ったのは、見慣れた天井のシミだった。ああ、ここ、宿屋《月下葡萄亭》の俺の部屋だ。木の匂いと、スープの匂い。それと、鼻をくすぐる、森の中みたいな清涼な香り。


「……気がつきましたか?」


 鈴を転がしたような声がした。首を横に向けると、ベッドの脇の椅子に、ひとりの少女が座っていた。「少女」なんて言葉じゃ全然足りない。窓の朝の光を受けて、銀色の髪が静かに輝いている。碧い瞳は深い森の湖みたいで、でも今は、泣き出す一歩手前みたいに歪んでいた。


「……エリシア」


 喉がカラカラだ。エリシアは慌てて水を注いで、俺の唇に当ててくれた。冷たい水が喉を通ると、焼き付いた熱が少しだけ引いていく。


「俺、どれくらい寝てた?」

「丸一日です。……熱が、全然下がらなくて」


 絞り出すような声だった。彼女の手が、俺の額の濡れタオルを交換する。その手が、微かに震えていた。


「無茶ばっかり……」


 ポツリと彼女が呟いた。責めている言葉なのに、声が優しい。包帯でぐるぐる固定された右腕を見る。感覚は……ある。痺れてるけど、動く。


『おう、起きたか寝坊助』


 枕元からぶっきらぼうな声。ヴァルだ。子狐の姿で、心配そうに尻尾を丸めている。その隣にフロスたちがずらりと並んでいた。


『アストラは、まだ熱を持っていますわ。鞘に戻すのに私とオルドで半日かかりましたのよ』


 フロスのため息に、雪ウサギの耳がげっそり垂れている。部屋の隅に置かれたアストラの鞘は、まだ微かに湯気を上げていた。あれだけの熱量を無理やり押し込めたんだ。剣の方も相当なダメージだっただろう。


「……悪い。みんなに迷惑かけた」

「迷惑だなんて、思ってません!」


 エリシアが強い口調で言って、まっすぐに俺を見た。碧い瞳が、揺れていない。


「あなたが無茶をするのは、誰かのためだって……みんな知ってます。でも、見ていて痛いんです。あなたが傷つくのを見るのが、怖いんです」


 布団の上から、俺の手をギュッと握りしめる。その力は、以前よりずっと強かった。俺が命を削って分け与えた霊素が、彼女の中で脈打っているのがわかる。人間を超えてしまった、銀色の勇者。その責任も、俺にはある。


「……オスカーのこと、考えてたんだろ」


 図星を突かれて、息を呑んだ。エリシアが悲しげに眉を下げる。


「うわ言で、ずっと呼んでました。『待ってろ』って。『消えるな』って」


 ああ、そうか。夢の中で、俺はずっと走っていた気がする。雨の降る戦場を、泥だらけの道を。どんなに走っても、あいつの背中が遠ざかっていく夢を。


「……怖いんだ」


 天井を見上げたまま、ポツリと漏らした。隠しても仕方ない。ここには、俺の正体を知ってる仲間しかいないんだから。


「あいつは、強い。剣の腕も、指揮官としての能力も、俺なんかよりずっと上だ。……でも、心が、真面目すぎるんだよ」


 不器用で、プライドが高くて、誰よりも責任感が強くて。だから折れるときは粉々になるまで折れてしまう。それを見てた。見てたくせに、何もできなかった。「上官だから大丈夫だろ」なんて、勝手な期待を押し付けて。その結果が、これだ。国が焼かれて、総団長が死んで、あいつは魔王の副将なんてふざけた肩書きを背負って、一人で闇の中に立っている。


「急がないと、あいつの中の『オスカー・ヴァルド・ガルドリアン』が……完全に死んじまう気がするんだ。魔素に食われて、記憶も、心も、全部塗りつぶされて、ただの『敵』になっちまうんじゃないかって」


 それが、怖くてたまらない。俺がもっと早く、もっとうまくやれてれば。そんな後悔ばっかりが、熱と一緒に頭の中をぐるぐると回ってる。


「……ルーク」


 エリシアが、俺の手を両手で包み込んだ。彼女の体温が、震える俺の指先にじんわり伝わってくる。温かい。人じゃなくなっても、この温かさは変わらない。


「大丈夫です。……オスカー様は、そんなに弱くありません」


 静かだけど、確信のある声だった。


「あの人は、最後の最後まで、私たちを逃がそうとしてくれました。国を捨てたふりをしても、その根っこにある優しさまでは、捨てきれていないはずです」


 エリシアの碧い瞳が、揺らがない。


「それに、あなたがいるじゃないですか。……精霊王とか、そういうのは関係ありません。ただのルークとして、あなたは誰よりも諦めが悪い」


 ふふっ、と彼女が笑った。つられて、俺の口元も少しだけ緩む。諦めが悪い、か。確かにそうかもな。過労死して異世界に来ても、スローライフ諦めきれずにあがいて、結局こんな泥沼の最前線まで来ちまったんだから。


「そうだな。……諦めるには、まだ早すぎるよな」


 体を起こそうとした。節々が痛むけど、動けないほどじゃない。ラグが「まだ早いです!」と慌てるのを手で制して、ベッドの上に胡座をかく。


『旦那。やる気になったか?』


 アルクがニヤリと笑って、空中で一回転する。フィオも、満足げに羽を整えた。


『風向きは、変わりつつあります。西からの風は冷たいですが……止むことのない嵐はありません』


「ああ。……明日、発つぞ」


 体調なんて、気合で治す。肉なんて、食えば戻る。でも、時間は待ってくれない。


「アウストレアさんが命懸けで作ってくれた反撃のチャンスだ。これを逃したら、二度とあいつを殴りに行けない」


 アストラを、鞘ごと引き寄せた。まだ熱い。半抜刀の感覚は、もう体に刻み込まれている。代償はデカい。腕一本、もしかしたら命ごと持っていかれるかもしれない。でも、それで届くなら安いもんだ。


「……エリシア。ついてきてくれるか?」

「愚問ですね」


 即答して、彼女が立ち上がった。銀髪が朝の光を受けてなびく。かつての「守られるお姫様」じゃない。凛として、研ぎ澄まされた刃みたいに美しかった。


「私は、あなたの剣であり、盾です。……そして、野良小隊の一員ですから」


 野良小隊。国も、身分も、種族も関係ない。「友達を助けたい」ってだけで集まった、馬鹿な連中の集まり。最高じゃないか。


「よし。まずは飯だ! 女将さんのシチューを特盛で食わなきゃ、戦にならねぇ!」


 俺が叫ぶと、足元で丸まっていたフェデが「わふっ!」と元気よく吠えた。こいつも、腹ペコらしい。重苦しい空気は、もう終わりだ。


「……大丈夫。私たちがいます。あなたは一人じゃありません」


 エリシアがもう一度、念を押すように言った。その言葉を、心の深いところに刻み込む。一人じゃない。だから、あんな暗い場所に一人でいるあいつを、放っておけるわけがないんだ。


 俺はエリシアの手を、握り返した。


 窓の外では、朝日が昇り始めていた。

 決戦の朝が、近い。


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