第201話 瞬閃(ブリンク)
感覚、ない。
指先から肩まで、痺れどころじゃない。もう自分の腕じゃない気がしてる。泥水吸ったボロ雑巾のほうがまだマシな動きをするんじゃないか、ってくらいに。
息するたびに、肺の奥から鉄の味が上がってくる。鉄というか、錆びた刃みたいな。
三日。いや、もう四日目の朝か。空が白んでるのか、俺の目が霞んでるのか、それすらよくわからない。
ただ、立ってる。今はそれだけで精一杯だ。
「……はぁ、っ、はぁ……」
アストラの鞘を、死に物狂いで握りしめてる。世界樹の枝から削り出したっていう、無駄に頑丈な木の棒。こいつが今、鉛の塊みたいに重い。親指の付け根、皮がめくれて、肉が透けて見えてる。柄に血が張り付いてねっとりする感触が気持ち悪い。でもその痛みがなかったら、俺の意識なんてとっくに霞みの向こうに溶けてたと思う。
『おやかた、足元が浮いとるぞ。根を張れ。地を掴め』
地面から響くような声。オルドだ。こいつの低い声を聞くたびに、ちょっとだけ重心が戻る気がする。俺のブーツの横、小さな土のゴーレムが、心配そうに……いや、厳しく俺を見上げてた。
「わかっ……てる」
喉が焼けてて、声を出すのも億劫だ。
目の前には、手ごろな大きさの岩。演習場の隅っこに転がってたやつを、オルドに運んでもらった標的だ。
こいつを、壊しちゃいけない。
粉々にするだけなら簡単だ。力任せに霊素をぶち込んで、アストラの封印を無理やりこじ開けて、中のデタラメなエネルギーを暴発させれば、岩どころかこの演習場ごと更地にできる。でもそれじゃダメなんだ。俺がやりたいのは破壊じゃないから。
『……焦げ臭いですね、ルークさまの霊素。雑念が混じると、水は濁りますよ』
ふわりと浮かぶ水球の中から、ラグが冷ややかな目を向けてくる。人魚の尾ひれをピチッと弾いて、俺の頬に冷たい水滴を飛ばしてきた。
つめてぇ。目が覚める。
『ルークさま。あなたが求めているのは「奔流」ではなく「水圧」でしょう? 押し流すのではなく、弾く。そのイメージが、まだあなたの身体という器に馴染んでいません』
「厳しいねぇ……ラグ先生は」
軽口を叩く余裕なんてないけど、でも言ってることは正しい。
頭ん中にあるのは、あの黒い炎だ。
オスカー・ヴァルド・ガルドリアン。
ガルドリア王国の第二王子で、俺たちを泥まみれにしごいた鬼上司で、今は魔王軍の副将になっちまった、あの馬鹿野郎。あいつが纏ってる黒炎は、すべてを焼き尽くす拒絶の壁だ。中途半端な攻撃じゃ届かない。かといって全力でぶち抜けば、中身のオスカーごと消し飛ばしちまう。
殺したいわけじゃない。
ぶん殴って、目を覚まさせて、こっち側に引きずり戻したいだけだ。
だから必要なのは殺傷力じゃない。圧倒的な「拒絶力」だ。あいつの拒絶を、さらに強い拒絶で弾き飛ばす。俺のアストラで、あいつの魔剣を叩き折るんじゃない。弾くんだ。
『気合だぜ、旦那! ビビッときてんだろ!? あと一歩、いや半歩だ!』
アルクが火花を散らして、俺の髪の毛の中で暴れ回る。静電気でバチバチ痛い。
あと一歩。感覚的には、もう掴みかけてる。
アストラの鞘と刀身。その隙間を、ほんの数ミリだけ開ける。そこから漏れ出す星の光を、拡散させる前に、無理やり刃の形に固定する。抜くんじゃない。漏らすんだ。ダムを決壊させるんじゃなくて、高圧放水のノズルみたいに絞り出す。
『風を読むのです、我が王。力は外へ向かおうとします。それを内へ、内へと巻き込むのです。竜巻の目のように』
フィオが肩にとまって、さえずるみたいに言った。
内へ、巻き込む。
そうか。外へ放つんじゃない。鞘の入り口で、爆発を「飼いならす」んだ。
「……ふぅ」
息を吐き切る。肺の空気を全部入れ替えるみたいに。
イメージしろ。
オスカーの顔。完璧であろうとして、誰よりも強くあろうとして、結局全部ひとりで背負い込んで、そのまま潰れちまった、あの不器用な男の顔。王都の玉座で、虚ろに笑ってたあいつ。
ふざけんなよ。なにが「幸せだ」だよ。あんな顔して、幸せなわけあるか。
全部、弾き飛ばしてやる。お前のその分厚い鎧も、黒い炎も、くだらない劣等感も。全部まとめて、俺が弾く。
「……いけッ!」
親指に、渾身の力を込めた。
鍔を弾く。
カチリ、と。小さな音。
その瞬間、世界がスローモーションになった。鞘の鯉口が、ほんのわずかに浮く。そこから目が眩むような純白の光が溢れ出そうとする。星の命。世界樹の奔流。普段なら、こいつに押し負けて腕ごと吹っ飛ばされる。
でも今は違う。
逃がさない。
溢れようとする光を、俺自身の霊素で包み込む。フィオが言ったみたいに内側へ巻き込んで、形を作る。拡散するな。固まれ。鋭く、重く、硬質な「衝撃」になれ。
『今だ! ルーク!』
ヴァルが叫んだ。
俺は右腕を振り抜く。アストラを、鞘のまま。刀身は抜いてない。ただ、鞘の隙間から漏れた光が、一瞬だけ、カミソリみたいに薄く鋭い閃光になった。
――《瞬閃》
音は遅れてやってきた。
ズンッ!!
空気が破裂するような重低音。俺の目の前で、空間そのものが歪んだように見えた。光の刃が、標的の大岩に激突する。
砕けるか?
いや。
大岩は、巨人にデコピンされたみたいに、一瞬で視界から消えた。
ドォォォォォ……ン!
はるか後方、演習場の端にある森の木々が何本かなぎ倒される音がする。
俺は呆然と、目の前の空間を見つめた。岩があった場所には何も残っていない。粉塵すら舞っていない。地面には扇状に抉られた跡がついてるけど、爆発の跡じゃない。何かが、とてつもない速度で滑っていった跡だ。
『……やりやがったな』
ヴァルが、俺の足元でニヤリと笑った。
俺はよろよろと、岩が飛んでいった方向へ歩いた。五十メートルくらい先。なぎ倒された木々の奥に、その岩はあった。半分土に埋まってるけど、形はほぼ原形のままだ。表面に細かいヒビは入ってるが、粉砕はされてない。ただ、そこにあったはずのものが、理不尽な力でどかされた。それだけだ。
「……できた」
膝から力が抜けて、そのまま崩れ落ちた。泥水が冷たい。でも今は、それが心地いい。
右腕の感覚は相変わらずない。肩から先が痺れて、自分の腕じゃないみたいにぶら下がってる。血管が何本か切れたかもしれない。
でも、手応えはあった。
「わふぅ……」
フェデが鼻を寄せてきた。俺の顔を舐めて、泥を落としてくれようとしてる。くすぐったい。俺は動かない左手で、フェデのもふもふの毛並みを撫でた。
「ありがとな、フェデ。……心配かけた」
『見事です、ルーク様。氷のように澄んだ、迷いのない一撃でした』
フロスが雪ウサギの姿で、ちょこんと俺の膝に乗ってくる。冷たくて気持ちいい。アイシング代わりになりそうだ。
『まあ、合格点じゃな。ちっとばかし地面を抉りすぎじゃが、そこは愛嬌じゃ』
オルドが地面を均しながら笑う。
『あーあ! オレも混ざりたかったぜ! 次はオレの雷も乗せてくれよな!』
アルクが飛び回る。元気だな、こいつは。
俺は泥だらけのまま、空を見上げた。雲が流れていく。三日三晩、長かったような、一瞬だったような。でもこれでようやく、スタートラインに立てた気がする。
待ってろよ、オスカー。お前がどれだけ頑丈な殻に閉じこもろうが、何度でも叩いて、こじ開けてやるからな。上官命令だか王族の誇りだか知らないが、そんなもん、この《瞬閃》で全部ひっくり返してやる。
ふと、視界の端で何かが光った気がした。
西の空だ。
夕暮れじゃない。まだ朝だ。なのに西の空が暗く淀んでいる。魔王軍が支配する領域、ウェストフォールからの瘴気。いつものことだ。でも、光ったのはその暗闇の中だった。
チカッ、と。
青白い閃光。
雷?
いや、ただの雷じゃない。もっと鋭くて、意思があるみたいな光だ。距離にして数百キロは離れてるはずで、ここから見えるはずがない。なのに、俺の胸の奥、精霊王の核がドクンと跳ねた。
「……なんだ?」
目を凝らす。フェデも低く唸り声を上げて、西を睨んでいる。尻尾がピンと立ってる。警戒してるのか? いや、違う。これは……興奮?
精霊たちもざわめき出した。
『……風が、騒いでおります』
フィオが低い声で呟く。
『ただの雷雨ではありません。この波動……知っている気がします』
ラグが水球の中で身を乗り出す。
また、光った。今度はもっと強く。空を引き裂くような、青い一閃。
遠い遠い、国境の向こう側。死地と化したはずの場所から、何かが近づいてくる。
まさか。
ありえない。
あそこにはもう誰もいないはずだ。生き残った者はみんな、俺たちが連れて逃げた。残ったのは魔王軍と……死者だけだ。なのに、なんだ、あの光は。死人があんな、目を焼くような眩しい光を放つわけがない。
俺は痛む体を無理やり起こした。
何かが来る。
絶望か。
それとも――。




