第200話 特訓開始
つめたい。
いや、ただ寒いだけじゃない。肺の奥まで凍りつきそうな、底冷えする朝の空気だ。
「……ここなら、どれだけ派手にやらかしても、だれにも迷惑はかからないだろ」
グレイウッドの街はずれ。いつから放置されてるのかもわからない、荒れ地みたいな演習場。吐き出す息が、びっくりするくらい白くて濃い。
背中からアストラを下ろす。両手で持つと、ずしり、と。木鞘に収まった、ただの古びた棒きれ。だけどこいつのなかには、星の命そのものみたいなとんでもない質量が詰まってる。
『おいおい、ガチガチじゃねぇか。肩の力抜けよ、ルーク!』
右肩のあたり。赤い子狐の幻影が跳ねた。炎のヴァルだ。パチパチと火の粉を散らしながら、やかましく吠え立てる。
『そんなへっぴり腰じゃあ、ちょっとでも隙間開けた瞬間に腕ごと吹っ飛ぶぜ!?』
「うるせぇな、わかってるよ。……つーか、初めてやるんだぞ? 緊張くらいするだろ」
『旦那! オレは信じてるぜ! ビビッと気合入れて、ドカンと一発カマしてやろうぜ!』
アルクが金色の小竜の姿で、頭のまわりをぐるぐると飛び回る。帯電した尻尾が髪の毛を撫でて、静電気で髪が逆立った。痛いっての。
『静かに。我が王の気が散りますよ、あなたたち』
すっと、冷たい風が頬を撫でた。緑羽の小鳥、フィオ。近くの枯れ枝にとまって、理知的な黒い瞳で見下ろしてくる。
『ルーク殿。力の制御は、水面を渡る風のように。力任せに押すのではなく、流れる方向を指し示すだけで十分なのです』
『そうじゃ。慌てるでない、若造。地面をしっかり踏みしめろ。地は揺れても、心は揺らすな』
足元から、オルドの野太い声が這い上がってきた。ぽてっとした土の身体が、俺のブーツの横にくっついている。
「わふぅ……」
すこし離れた場所では、フェデが心配そうに鼻を鳴らしていた。大きな琥珀いろの瞳が、俺の右腕をじっと見つめている。尻尾は完全に下がったまま。
「だいじょうぶだって、フェデ。ただの実験だ。……死にはしないさ」
深く、もう一度息を吸い込んだ。冷たい空気を肺の奥まで満たして、ゆっくりと吐き出す。
アストラの鞘。世界樹の枝で作られた、絶対に壊れない封印の檻。
これを抜く気は、毛頭ない。抜くための条件なんてひとつも満たしちゃいないし。だが、ほんのすこし。針の穴ほどの隙間なら、作れるんじゃないか。そこから漏れ出す、純粋で暴力的な星の光。それを、一瞬だけ刃の形に押し込める。
「抜くんじゃない。……漏らすんだ」
親指を、アストラの鍔に添える。鯉口を切るように。
脳裏に焼き付いているのは、あの男の顔。オスカー・ヴァルド・ガルドリアン。第二王子にして、俺たち新人候補生を泥まみれになってしごき抜いてくれた上官殿。あんな風に、絶望に顔を歪めて、自分から闇に落ちていく姿なんて、見たくなかった。七つも上の、出来上がった大人のはずだったのに。
上官だろうがなんだろうが、知ったことか。あのバカでかい黒炎の壁をぶち抜いて、あのしかめっ面を思い切り殴り飛ばしてやる。そのためには、これが必要なんだよ。
「……いけッ!」
親指で鍔を強く弾いた。
カチリ。
音は、ひどく小さかった。硬く閉ざされた古い扉の鍵が、ほんのわずかに動いたような。だが、その直後。
世界が、白く飛んだ。
「ぐあぁっ!?」
右腕が、爆発したかと思った。手首から肩にかけて、焼け焦げるような激痛。熱じゃない。圧倒的な質量だ。鞘と鍔の間にできた、ほんの数ミリの隙間。そこから、星の光が濁流となって吹き出した。
抑え込もうとした俺の意志なんて、紙切れみたいに引き裂かれる!
ドゴォォォォォォンッ!!
制御を失った光の塊が、アストラから暴発した。刃の形になんて、全くなっていない。ただの、暴力的な衝撃波。目の前に広がっていた荒地ごと、森の木々が根本からへし折れ、土砂と一緒に吹き飛んでいく。台風のど真ん中に放り込まれたような凄まじい風圧。
「がッ……!?」
俺自身も、その反動を殺しきれず、後方へ勢いよく吹き飛ばされた。地面を何度も転がり、泥水のなかに顔から突っ込む。全身の骨が軋み、口のなかに鉄の味が広がった。
「わふっ! わんっ!」
フェデが慌てて駆け寄ってきて、泥だらけの顔をぺろぺろと舐め回す。その温かさと舌のざらつきで、どうにか意識を繋ぎ止める。
「げほっ……ごほっ……い、いってぇ……!」
右腕が、ビリビリと痺れて感覚がない。無理やり動かそうとすると、関節が悲鳴を上げた。なんとか身を起こし、暴発の跡を見る。扇状に、森の木々が薙ぎ倒され、地面が深くえぐれていた。大惨事だ。
『……下手くそですね』
ラグの声が、頭上から冷ややかに降ってきた。見上げると、宙に浮いた水球のなかから、呆れたような顔で見下ろしている。
『あんな力任せに押し開けようとするから、制御を失うのです。バカですか?』
「ば、バカって言うなよ……! こっちは命がけなんだぞ……」
『命を粗末にするのをバカと言うのです』
ラグは容赦がない。冷たい視線を向けながら、ため息をついた。
『いいですか、ルークさま。蛇口を力いっぱいにひねるのではなく、水圧で下から蓋を浮かすイメージです』
「……水圧で、蓋を浮かす?」
『そうです。自ら開けようとするから、奔流に押し負けるのです。鞘の内側に満ちている星の霊素を、あなた自身の霊素で下から支え、ほんのわずかに押し上げる。そして、漏れ出た瞬間に、すぐさま蓋を閉じる』
『なるほどな! 水のやつの言う通りだぜ、旦那!』
アルクがパチッと火花を散らす。
『ドカンと開けちまうから暴発するんだ。ピリッと、一瞬だけ! 閃光みたいにだ!』
『風の理も同じです、我が王』
フィオが静かに羽ばたく。
『突風はすべてを吹き飛ばしますが、鋭いカマイタチは細く研ぎ澄まされた風の刃。漏れ出た力を、拡散させる前に形に閉じ込めるのです』
「……一瞬だけ開けて、すぐに閉じる。漏れた光を、刃の形に固定する……」
口のなかで反芻しながら、ゆっくりと立ち上がった。右手のひらを見ると、鍔を弾いた親指の付け根が裂け、べっとりと血がにじんでいる。手の震えが止まらない。だがアストラの鞘は、泥のなかに転がっていても、何ごともなかったかのように静かにそこにあった。
『どうする、ルーク。もう限界じゃねぇか? 腕がぶっ壊れるぞ』
ヴァルが、珍しく心配そうな声を出した。
「……まだまだ」
左手でアストラの柄を握り、ゆっくりと持ち上げた。痺れる右手を、ふたたび添える。
繊細なコントロール。そして、あの黒炎をぶち破るだけの、暴力的な出力。この二つを同時に成り立たせない限り、俺はあの上官殿の前に立つことすらできない。
完璧であろうとして、だれよりも分厚い盾を構え続けた騎士。兄に認められず、俺みたいな新人に理不尽に追い抜かれ、国から見捨てられて。すべてを拒絶して、自分一人だけの絶望に引きこもるような、あの真っ黒な炎に飲まれた。あんな薄暗い玉座で、虚ろな笑いを浮かべていた。
ふざけるな。
あいつの孤独な声が、耳から離れない。エリートとして、王族として、上官として。ずっと自分を押し殺して生きてきた男の、最後の悲鳴。
それを、力づくでこじ開けてやる。
「わふぅ……」
フェデが、足にすり寄ってくる。だいじょうぶだ。心配すんな。俺はまだ、折れちゃいない。
「……まだだ」
血のにじむ手で、ふたたび柄を強く握りしめた。肺いっぱいに、冷たい空気を吸い込む。
「もう一回だ!」
静寂が戻った演習場に、声が響き渡る。泥と汗にまみれながら、ふたたび親指を鍔に添えた。水圧で蓋を浮かすイメージ。一瞬だけ。閃光のように。
カチリ。
ズガァァァァン!!
「ぐほぉっ!?」
またしても、吹き飛ばされる。泥水をすすり、全身を打ち付ける。
「げほっ……うあぁぁっ……!」
『だから、蓋を開けすぎです!』
ラグが怒っている。
『もっと薄く! 氷が張るように!』
フロスが叫ぶ。
立ち上がる。血がポタポタと地面に落ちる。右腕は、もはや千切れる寸前みたいな激痛を発信し続けている。マメが潰れ、皮膚が裂け、肉が悲鳴を上げる。
「もう……一回……!」
アストラを構える。何度も、何度も。
星の光が暴発するたびに、俺の身体は壊れていく。だけど、やめるわけにはいかない。
三日三晩続くことになる、不眠不休の特訓。夜が明け、太陽が昇り始めても。この血のにじむような特訓は、終わらない。あの黒炎を吹き飛ばし、上官の面を殴り倒すそのときまで。




