第199話 力の壁
誓った。
再起を、誓ったんだ。
……言葉にするのは、ほんとうに、どこまでも簡単だ。口さえ動かせれば誰だって英雄になれる。だが現実というやつは、そういう薄っぺらい決意を正面から鼻で笑い飛ばすくらいには容赦がない。
泥沼だ。底のない、じっとり湿った泥沼。足元から体温を吸い上げて、足首にべったり絡みついてくる。
薄暗い宿屋の会議室。
円卓の中央に広げたままになっている、端の擦り切れた周辺地図。それを囲んで、誰も口を開かない。正確に言えば、開けなかった。部屋の隅に転がるカビ臭いランプが、ジリジリと油を焦がす音だけが、妙にうるさく耳に刺さっていた。
目を閉じれば、昨日の光景が胃のあたりからこみ上げてくる。酸っぱくて、苦くて。
魔人に成り果てたオスカー副団長。俺たちを血反吐が出るまで鍛え上げてくれた、あの不器用で真っ直ぐすぎた男の、成れの果て。吹き荒れる黒炎。すべてを飲み込む暗い熱。その圧倒的な暴力の前では、勇者として覚醒したエリシアでさえ、羽虫みたいにあしらわれた。ただの、理不尽な絶望だった。
あれに正面からぶつかれば、揃って消し炭だ。笑えない。ただの犬死にだ。
「喧嘩を売る」と息巻いてみせたのはいい。だが手札が足りない。圧倒的に。絶望的に。
『……火力が、たりねぇ』
右肩のあたりで、くぐもった唸り声。
赤い子狐の姿をした炎の上位精霊、ヴァルだ。苛立ちを隠す気もなく、細い毛を逆立てて、ふさふさの尻尾の先からパチパチと火の粉を散らす。そのひとつが頬を掠めて、チリッとした熱の痛みを残した。
『いまのルークの出力じゃ、あいつの黒炎は突破できねぇ。鞘のまま殴るだけじゃ、いくら頑丈だって限界があるってもんだ』
「……ああ。わかってる」
机の上に転がしたままのアストラを、じっと睨みつける。世界樹の枝を丸ごと削り出して打たれた、俺の、いわくつきの相棒。異常なまでに硬く重い鞘。これまでその頑丈さだけを頼りに、ひたすら鈍器として振り回してきた。だがオスカー副団長が纏うあの黒炎の壁は、物理的な打撃でどうにかなるような代物じゃない。かすり傷ひとつ、つけられないだろう。
かといって、鞘から抜くという選択肢は、俺の中にははじめからない。抜刀のための条件なんてぜんぜん満たしていない。仮に力任せに引っこ抜けたとして、世界樹の封印が吹き飛び、深淵で爆睡している魔王が目を覚ます。俺が「精霊王」だなんていう正体が全世界に露見して、夢に見た平穏なスローライフが宇宙の彼方に消える。世界を守るために世界をぶっ壊す。本末転倒にもほどがある。
「私の光でさえ……あの、暗く冷たい執着には、届きませんでした」
沈黙を破ったのは、エリシアだった。かつて黄金色だったのに今は冷たい銀色へ変質してしまった髪の毛先を、指が白くなるほど握りしめ、深くうつむいている。華奢な肩が、かすかに震えていた。
「オスカー様を止めるには、もっと純粋で圧倒的な力が……」
「儂の張る防壁とて、あの大火力の前じゃあ紙切れ一枚の時間稼ぎにしかならん。防ぐこともできん。攻めることもできん。これじゃあ喧嘩にもならんぞい」
バルドランのおっさんが自嘲気味に鼻を鳴らして、剛毛な顎髭を引っぱった。アリスも、ノルンも、視線を膝に落としたまま動かない。カインに至っては、両拳を握りしめ、唇を噛んで肩を震わせていた。
救い出したい。オスカー副団長を。あの馬鹿みたいに責任感が強くて、いつだって真っ直ぐすぎた男を。だが壁が高すぎる。高すぎて、見上げようとするだけで首がきしむ。
『……隙間を、使うんじゃ』
ふいに。
足元の、もっと奥の大地から這い上がってくるような、どっしりとした声が空気を揺らした。部屋の隅に置かれた観葉植物の鉢植えが、もごもごと不自然に盛り上がる。ころんと丸っこい土のゴーレムが転がり出てきた。オルドだ。頭頂部の双葉をひょいひょいと揺らしながら、短い腕で俺のブーツのつま先を、ぽんぽんと叩く。
「……隙間?」
『完全に抜くのではない。鞘のロックをほんの少しだけ緩め、封じられた星の光……その漏れ出る分だけを、刃に変えるんじゃ』
言葉が落ちた瞬間。
部屋の空気が、ぴたりと止まった。
『おいおい爺さん、正気か!? そりゃちょっとばかり器用な真似で済む話じゃねぇぞ!』
ヴァルが全身の毛を逆立てて牙を剥いた。
『ですが……理にかなってはいますね、ルークさま』
卓上のコップから、透き通る青い髪を揺らしてラグが顔を出す。コップの縁から水滴がこぼれ落ちて、テーブルに小さな染みを作った。凪いだ水面みたいな声音で、冷徹な事実を並べてくる。
『鞘の口をわずかに開け、星霊の光を意図的に漏出させる。本来なら星すら砕く霊素の奔流を、針の穴に糸を通すような精度で制御するのです。……少しでも計算が狂えば、暴発した衝撃波でルークさまの右腕は、根元から綺麗に消し飛びますが』
「我が王よ。それはまさに、吹き荒れる嵐を小さなガラス小瓶に詰め込み、開いたコルクの隙間からそよ風だけを吹かせようとするようなもの」
翠の小鳥、風のフィオが羽音もなく左肩へ舞い降りた。微風が首筋を撫でる。
「極めて危険で、狂気の沙汰とも言える業。ですが……あなたのその、底の知れないデタラメな器ならば、不可能とは言い切りません」
『おっ! 面白そうじゃねぇか旦那! ガツンとやっちまえば一発だぜ!』
空中でバチィッと青白い火花が弾けて、金色の小竜アルクがぐるぐると飛び回る。焦げた雷雲の匂い。こいつだけは相変わらず、一人で勝手に舞い上がっている。
『……ルーク様。その判断、氷よりも澄んでおります。迷いは、ありませんね』
足元から、ひんやりとした冷気。靴の周りに薄っすらと霜が降りていく。白い雪ウサギのフロスが、赤い瞳で静かに俺を見上げていた。
精霊たちの声が、頭の中で反響する。
完全に、抜かない。けれど、鞘の内で暴れ狂う星の光を、ほんの一瞬だけ、刃の形に成らせる。世界を壊さないギリギリのラインで、俺の奥底に眠る理不尽な力を、ほんの少しだけ現世に引きずり出す——力業の極致。
《部分開放》
「……器のデカいお前さんなら、きっとできるはずじゃ」
オルドの穏やかな声が、見えない大きな手になって、俺の背中をドンと押し出してくれた気がした。
これしかない。
失敗すれば右腕の肉が弾け飛び、骨が砕け散る。そんな生々しい想像が脳裏をよぎった。奥歯を強く噛んで、振り払う。腕の一本くらい吹き飛ぶ覚悟がなきゃ、底なしの闇に沈んでいる上官殿の首根っこを掴んで、明るい場所へ引きずり上げることなんてできない。
あの男の顔面を思い切り殴り飛ばして、目を覚まさせる。そのための、ただひとつの鍵。
「……ルーク」
エリシアが、すがるような、不安に揺れる碧い瞳で俺の顔を覗き込んでくる。透き通るような、その瞳。俺が身勝手なわがままで、人の理から外れた存在にしてしまった彼女。
ああ、もう。
これ以上こいつに心配をかけたくない。心の底から、そう思う。だから俺は、意識していつも通りの、ちょっとだらけた笑みを浮かべてみせた。
「心配すんなって。……ちょっとばかし、新しい手札を作ってくるだけだ」
「ルーク!? まさかその『隙間を使う』って無茶を、本当にやるつもりか……?」
カインが弾かれたようにガタッと立ち上がり、目を丸くして俺を指さす。
「ああ。火力が足りないってんなら、無理やり絞り出すまでだ」
椅子から立ち上がり、卓上のアストラを無造作に掴んで、背中に背負い直した。ずしり、と。ただの重さじゃない。命の重みそのものが、肩の肉に深く食い込む感覚。
「カイン、みんな。悪いが、特訓してくる。少しだけ時間をくれ」
「……わかった。俺たちは武器の手入れをして、いつでも出撃できるようにしておく。だから……絶対に戻ってこいよ!」
「背中の守りは任せておけい。無茶だけはするなよ、若造が」
カインが力強く頷いて、バルドランがわざと豪快に笑ってみせた。
「わふっ!」
足元のもふもふの毛玉、フェデが短く吠える。励ますように。
俺はみんなに頷き返して、宿屋の重いオーク材の扉に手をかけた。押し開けると、朝の冷たい空気が容赦なく流れ込んでくる。
一歩、外へ。
肺の奥まで吸い込んだ空気は、ひどく冷たくて、無数の針を飲み込んだように痛かった。白み始めた空。朝霧が低く立ち込める石畳の道。吐き出す息が、濃く白く染まる。
だが、その痛みが。皮膚を刺す冷たさが、ぐちゃぐちゃだった頭をクリアにしてくれる。
目指すは街外れ。誰の目にも触れない、荒れ果てた演習場。
あの分厚い黒炎ごと。俺の中に燻る、理不尽な劣等感も、ためらいも——ぜんぶまとめて、ぶち抜いてやるために。
無謀な挑戦が、いま、始まる。




