第198話 新生『野良小隊』
宿屋のテーブルには地図が広げられていた。くしゃくしゃで、ところどころ赤いインクのバツ印だらけの、ひどい代物が。
ガルドリア王都。ラインヴァルト要塞。西部国境。 俺たちが血を流して守ろうとした、守れなかった場所。
「……ひでぇ負け戦、だったな」
声に出したとたん、空気がさらに落ちた。沈むというより、押しつぶされる感じ。 カインは拳を白くなるまで握っている。エリシアは銀色に変わった髪をいじる指を止めようとして、また動かす。バルドランは天井の染みに喧嘩でも売るような目をして、アリスはうつむいたまま動かない。
無理もない。
国は焼かれた。アウストレアさんはもういない。俺たちを逃がす囮として、あの人は雷になって空へ消えた。喉の奥に魚の骨がじりじりと刺さって、吐き出そうとするたびにぐっと深くめり込んでくる。血の味。ずっとそれだ。
だからって。 「おしまい」の幕を下ろしていい理由が、どこにある。
「国はなくなった。騎士団もバラバラ……ただの敗残兵だよ」
仲間の顔をぐるりと見回す。泥と血の臭いが染みついた、満身創痍のお手本みたいな顔が並んでいた。でも。 死んでない。 胸に手を当てるまでもない、うるさいくらいに心臓が鳴っている。
「まだ終わっちゃいないだろ」
地図の上、真っ黒に塗りつぶされた王都を人差し指でトンと叩く。乾いた音が静まり返った部屋に妙に響いた。
「オスカーがいる」
カインの肩がビクリと跳ね上がった。 副団長にして第二王子。誰よりも誇り高くて、不器用で——そいつが今、魔王軍の副将なんて虫唾の走る肩書きを提げて、あっち側の玉座のそばに立っている。
「あの大馬鹿野郎……! 俺たちに『行け』って凄んで、一人で泥水すすって、あげく闇堕ちかよ。冗談じゃねぇ」
腹の底からぐつぐつとあふれてくる。怒りなのか、情けなさなのか、もうよくわからない。あんな寂しそうなツラで背を向けたオスカーへの、八つ当たりみたいな怒り。
あいつが望んで寝返ったなんて、欠片も思ってない。 瞼の裏に焼きついてる。燃え盛る玉座。狂ったような笑い声。でも目だけは——迷子になったガキみたいに泣きながら、『俺を見ろ』って叫んでいたんだ。絶対的な光の隣じゃなく、俺を見てくれって。
「だから……これは戦争じゃない。ただの喧嘩だ」
両手をテーブルについて、身を乗り出す。
「国を取り戻すとかはおまけでいい。目的は一つ。あのすかした上官殿の顔面をぶん殴って、首根っこ掴んで引きずり戻す」
『おーおー、言ってくれるじゃねぇか!』
胸元から赤い子狐が顔を突き出した。炎の精霊ヴァルだ。尻尾の火の粉がパチパチとはぜる。
『俺たちの前で散々かっこつけやがって、最後があれかよ! 精霊としても、あんな不完全燃焼な幕引きは御免だぜ!』
「だろ? 文句があるなら直接叩きつけなきゃ気が済まねぇよな」
全員の顔を見た。順番に、まっすぐ。
「俺は行く。たとえ一人でも。……お前らは?」
息を吸って吐くくらいの、一瞬の間。 それをぶった切ったのは、ガタァッ!という乱暴な音だった。椅子が倒れた。
「やるに決まってんだろッ!!」
カインだ。涙と鼻水でぐしゃぐしゃのツラを上げて、獣みたいな声で吠える。
「俺はっ、副団長に何も返せてねぇ! 剣の振り方も立ち回りも、全部あの人に教わったのに……あんな背中見せられて、逃げっ放しで終われるかよ!」
バン。拳がテーブルを叩く。震える手。ギラギラと燃える目。
「殴る……俺も殴ります! 一発じゃ足りない。百発殴って、絶対に目を覚まさせてやる!」
「……ふっ。威勢だけは一人前じゃのう」
岩みたいな巨体が揺れた。バルドランだ。剛毛な髭の奥でニヤリと歯を剥く。
「儂もあの坊ちゃんには貸しがある。手塩にかけた砦を更地にされちまったからな。……高くつく請求書を叩きつけに行かんと」
「私も……行きます」
凛とした声。 エリシアだ。銀色に染まった髪がランプの光を受ける。彼女は腰の聖剣——光を失い、今はただの鉄の塊になったそれを、静かにテーブルへ置いた。
「私はオスカー様に守られました。……冷たく遠ざけることでしか、彼は守れなかったのだと思います」
透き通る碧い瞳が俺を射抜く。もう、あの震えていた少女の弱さはどこにもない。
「彼が深い闇に沈んでいるなら、私が光になって照らす——いいえ、違いますね」
少しだけ寂しそうに、微笑む。
「彼が本当に望んでいたのは、光じゃなかった。あなたを見ていたんです、ルーク。あなたの隣に立ちたかった。……だから、連れ戻しに行きましょう。彼の帰る場所に、私たちがなるために」
「……ああ」
深く頷いた。 あいつの嫉妬、劣等感、どうしようもない憧れ。その矛先がずっと俺に向かっていたなら——真正面から受け止めるのが、ダチの役目だ。
「よし。……今日から俺たちは『セカイジュ騎士団』なんて大層なもんじゃない」
地図の上のバツ印をなぞる。
「国も本部も命令書もない。行き場のないはぐれものだ」
ふと、薄い壁の向こうに気配を感じた。隣の部屋——息を殺して立ち聞きしているノルンとアリス。あの子たちだって、同じ火をくすぶらせているはずだ。
「名付けて——『野良小隊』だ」
『ぶはっ! 絶望的にだっせぇ名前!』
雷の精霊アルクが火花を散らして転げ回る。
『ま、旦那らしいか。どこの鎖にも繋がれてねぇって意味だろ?』
「うるせぇ。……どうだ。いつ沈むかもわからねぇ泥船に乗る覚悟は?」
カインが乱暴に鼻をこすって笑う。エリシアが静かに頷き、バルドランが肩をすくめた。
「異存なし、だ」
澱んでいた空気が、晴れた。 絶望の代わりに、ピリッとした焦げるような熱が満ちてくる。敗北感なんてどぶ川にでも捨ててやれ。俺たちの意地を通す戦いは、ここからだ。
地図を囲んで作戦会議が始まる。
……だが。
熱が冷めるにつれ、テーブルには冷たい沈黙が戻ってきた。
「……で、どうやって勝つんだ?」
誰も答えない。 勢いで立ち上がったはいいが、現実はどこまでも冷酷だ。今のオスカーの出力は異常で、魔王の力による暴力は桁が違う。勇者エリシアの剣でさえ、歯が立たなかった相手だ。
俺の手札は一つ。背中の、世界樹の枝で打たれた『星霊剣アストラ』。 ただしこいつは鞘に入ったままじゃ、ただの「異常に硬い棒切れ」だ。オスカーが纏う黒炎の鎧をぶち抜くには、決定打があまりに足りない。
「……抜くわけには、いかねぇしな」
背中の重みを感じながら、唇を噛む。 抜けば一筋の光明は見えるかもしれない。でも——世界樹の封印が消し飛び、魔王の本体が目覚める。おまけに俺が「精霊王」だという正体まで世界中に知れ渡り、夢見ていた平穏な生活は二度と戻らない。
世界を守るために剣を抜けば、世界が壊れる。 かといって、今のままじゃ親友たった一人すら助け出せない。
「……見事に詰んでるな」
ぽつりと出た声は、ひびが入ったみたいに乾いていた。
気持ちだけじゃ、あの馬鹿げた装甲は貫けない。圧倒的すぎる火力の不足。その冷厳な事実が、夜明け前の暗闇みたいに重く冷たく、俺たちの前にそびえ立っていた。
不意に、窓の外が白く滲む。 東の空——夜明けだ。 だが、わずかな光が差したところで、俺たちの進むべき道はまだ、濃い霧の底に沈んだままだった。




