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第124話  黄昏の国境へ

 ガタ、ゴト。ガタ、ゴト。


 車輪が地面を噛む音が、やけに乾いて鼓膜を叩く。 それはまるで、古びた骨と骨が擦れ合うような、救いのないリズムだった。


 窓の隙間から吹き込んでくる風の匂いが、変わった気がする。 王都の、あの洗練された石畳と花の香りはもうない。代わりに鼻腔を突くのは、鉄錆と、古い血と、腐った泥を煮詰めたような……《黄昏たそがれ》の悪臭だ。


 ガルドリア王国西端。国境守備隊駐屯地。 そこが私に――いや、私が率いることになる「捨て駒部隊」に与えられた、正真正銘の死に場所ってわけだ。

 ガタリ、と大きく揺れて、車輪の音が止まる。 御者の「と、到着しました……」という震えた声が聞こえた。


 私は深く息を吸い込み、肺の中によどんだ空気を満たす。不思議だ。以前なら眉をひそめていたはずのこの瘴気しょうきが、今の私には妙に馴染む。 まるで、空っぽになった心の内側を、この汚れた空気が埋めてくれるみたいだ。

 扉を開ける。錆びついた蝶番ちょうつがいが、断末魔のような悲鳴を上げた。 革靴が地面を踏む。ジャリッ。 土じゃない。草も生えない、死に絶えて崩れた「灰」の上を歩いている感触だ。


「……ひどいな」


 思わず独り言が漏れた。 目の前にそびえるとりでを見て、笑いそうになったからだ。

「要塞」なんて呼べる代物じゃない。あちこちの壁が崩れ、応急処置の木材が墓標みたいに打ち付けられている。 監視塔は傾き、旗はボロボロに破れて、どこの国のものかも判別できないありさまだ。


 ここが、王国の盾? 笑わせる。 ここはゴミ捨て場だ。兄上も、父上も、あの眩しい光の国も、見たくない「汚れ」を全部ここに押し付けて、蓋をしたんだ。


「お、お待ちしておりました……オスカー殿下……」


 出迎えに来たのは、骸骨みたいに痩せこけた小隊長だった。 鎧は泥と脂で黒ずみ、剣の柄には手垢がこびりついている。

 なにより、目が死んでいる。 希望なんてとっくに捨てて、「どうせ明日は来ない」「ここで死ぬのを待つだけだ」っていう、諦めが凝固したゼリーみたいな目。


 彼だけじゃない。 砦の入り口から、わらわらと出てきた兵士たち全員がそうだ。

 老兵、怪我人、あるいは素行が悪くて飛ばされたならず者。 生気がない。覇気がない。ただの肉の塊が、惰性で立っているだけ。


(ああ、そうか)


 私は理解した。 彼らは私だ。 王都から切り捨てられ、誰にも期待されず、ただ「盾」として擦り切れるまで使われる道具。 私と同じ、無価値なガラクタたち。


「……殿下? あの、本隊は……」


 小隊長がおずおずと尋ねてくる。 その後ろで、兵士たちがすがるような視線を向けてくるのがわかった。

 王族が来た。副団長が来た。 なら、きっと強力な増援も連れてきてくれたはずだ。食料も、武器も、希望も、持ってきてくれたはずだ――と。

 滑稽こっけいだ。 そんなもの、あるわけがないのに。


 私は、彼らを見下ろして微笑んだ。 王族として教育された、一ミリの狂いもない完璧な笑顔で。 そして、その希望を粉々に砕く言葉を、歌うように告げた。


「来ないよ」


 小隊長の顔が凍りつく。


「え……?」

「誰も来ない。私だけだ」


 一瞬の静寂。 その直後、砦全体を覆っていた空気が、ガラガラと音を立てて崩れた。


 絶望。嘆き。恐怖。怨嗟えんさ。 「見捨てられた」「やっぱり嘘だった」「死ぬんだ」――負の感情がどす黒い渦になって巻き起こり、私の肌にべっとりとまとわりついてくる。


 ……ああ、いいな。 ぞくり、と背筋が震えた。


 王都の、あの澄み切った空気よりずっと吸いやすい。 あそこには光が溢れすぎていた。勇者エリシアという太陽。規格外ルーカスという星。 眩しすぎて、影の中にいる私は息をするだけで肺が焼けそうだった。

 でも、ここは違う。ここには闇しかない。絶望しかない。 つまり――ここには、オレの席しかないってことだ。


 右手のポケットの中で、黒い石がドクンと脈打つ。 熱い。焼けるようだ。 でもその熱さが、凍りついた私の芯を溶かしてくれる。


『そうです』と、石が脳に直接囁く。

『ここなら、誰とも比べられなくて済む。誰の背中も追わなくていい』


 私は小隊長を無視して、ゆっくりと砦の中へ歩き出した。 兵士たちが、波が割れるように道を開ける。

 怯えているのだ。 彼らは本能で悟ったのだろう。私がもう、彼らを守る「慈悲深い盾」ではなく、もっと別の、冷酷なナニカに変質してしまっていることに。


 腐った木の階段を上る。 ミシミシと悲鳴を上げる床板を踏みつけ、砦の屋上へ出た。

 風が強い。 遮るもののない西の風が、マントを激しく叩く。 見渡せば、地平線の彼方まで続く荒野。その先には、世界を飲み込もうとする深い闇が、巨大な口を開けて待っていた。

 魔王領。 ここから先は、人のことわりが通じない場所。


「ここが、私の墓場か……」


 兄上はそう思って送り出したんだろう。 厄介者の弟が、辺境で魔獣に喰われて野垂れ死ぬのを、ワイングラス片手に待っている。


 エリシアも、ルークも、きっとすぐに私のことなんて忘れる。 光の中を歩く彼らにとって、影のことなんて記憶の端っこにも残らないノイズだ。 「残念だったね」「いい人だったのに」なんて、綺麗な言葉で蓋をして、すぐに笑い合うんだ。


「……いや」


 私は首を横に振った。 右手の黒い石を、強く握りしめる。 ギリリ、と音がするほど強く。石の角が皮膚にめり込み、肉を裂き、私の血と混じり合う。

 血管を黒いインクが逆流していくような感覚。 心臓が早鐘を打つ。 痛い。苦しい。 でも、力がみなぎってくる。 今まで必死に積み上げてきた「正しさ」や「努力」が、子供のお遊戯に思えるほどの、圧倒的で、不純な力が。


『受け入れなさい』


影が囁く。


『ここで果てて、全てを呪えばいい』

「断る」


 私は牙を剥くように、誰もいない虚空を睨みつけた。 呪う? ここで終わる? ふざけるな。そんな惨めな最期、誰が選んでやるものか。

 墓場なんかじゃない。 ここは――最前線だ。


「ここからが、私の国だ」


 口に出すと、言葉が言霊ことだまになって世界に染み込んだ気がした。

 そう。ここは私だけの国。 兄上の顔色をうかがわなくていい。 勇者の輝きに目を焼かれなくていい。 私が、私であるだけで、王になれる場所。


 瞳の奥に、暗い炎が灯るのを感じた。 それはかつてのような、民を守るための温かい正義感の火じゃない。 もっと冷たくて、鋭くて、絶対に折れない鋼のような炎だ。


 見ていろよ、ルーク。 お前が光で世界を救うってなら、私は闇を喰らってでも、この場所を守り抜いてみせる。


 お前が「たまたま」手に入れた力で英雄になるなら、私は全てを捨てて手に入れたこの力で、お前すら守れなかったものを拾い上げてやる。 捨て駒? ガラクタ? 上等だ。 なら、そのガラクタが魔王軍を食い止めた時――兄上たちはどんな顔をするだろうな。


「もう、二番手なんて呼ばせない」


 光の隣になんて立ってやらない。 私は――光さえ届かないこの場所で、誰にも超えられない「壁」になるんだ。


 遥か西、紫色の雷が走る空に向かって、私はマントをひるがえした。 その背中に宿ったのは、かつての優等生な誇りではない。 泥をすすってでも生き残る、飢えた狼のような覚悟だった。


 風がいている。 まるで、軟弱だったかつての私をいたむように。 あるいは、泥の中から立ち上がろうとする怪物を祝福するように。


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