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第123話  魔将の影

 西へ。 ただ、ひたすらに西へ――。

 ガタ、ゴト。ガタ、ゴト。


 車輪が荒野を噛む音。頭蓋の裏で、何度も何度も反響する。単調なリズム。すり減っていく命の、時計が刻む音みたいだ。

 窓の外。流れる景色はとっくに緑を失って、赤茶けた土と枯れた低木だけ。風に混じる砂が、歯の間でジャリリと鳴った。


 王都を出てから、何日経っただろう。 数えるのをやめた。数えたところで何になる?

 私が率いる「西部国境守備隊」――そう呼ばれている部隊は、無言のまま死地へ向かっている。捨て駒として。

 揺れる馬車の中、私は一人だ。 従卒もいない。副官も乗せていない。


 ……できるわけがないだろう。 これから死にに行く部隊の指揮官が、誰かと談笑なんて。部下の顔を見るのが怖い? 

 違う、そうじゃない。彼らに「死にに行こう」と命じている自分の顔を、鏡で直視するのが怖いんだ。

 息を吐く。 膝の上の手を見た。


 ……震えては、いない。


 よし。まだ私は「完璧な副団長」でいられる。誰も見ていなくても、仮面は被り続けなきゃいけない。そうしないと――中身が空っぽなのが自分にバレて、砕け散ってしまいそうだから。


 空っぽか。

 胸の奥が焼けるように熱い。いや、待て。凍えるように冷たいのか? 感覚がおかしい。ずっと握りしめている右手のひらが、脈打つように痛む。


 あの森で拾った、黒い石。

 不吉なものだと分かっている。精霊たちが嫌がるのも知っている。捨てなきゃいけない。窓から放り投げればそれで終わりだ。

 なのに。 指が、どうしても離そうとしない。皮膚と癒着してしまったみたいに。


『……哀れですね』


 声が――した。


 耳じゃない。脳の皺の隙間に、直接インクを垂らされたような。粘着質で、ねっとりとした声。

 私はバッと顔を上げる。 狭い馬車の中。 誰もいないはずの向かいの座席に、影が落ちていた。

 夕陽なんて差し込んでいないのに。そこだけ濃く、深く。底なしの沼みたいに黒い影。


「……誰だ」


 喉が渇いて、擦れた音しか出ない。

 影が揺らぐ。人の形をとる。黒紫の鎧。背中には、マントのように蠢く闇。顔は見えない。けれど分かる――その奥にある瞳が、私を見ている。底なしの慈悲と、それ以上の悪意で。


『光の国は、あなたを捨てました』

「……黙れ」

『守ろうとした民も、信じた王も、愛した兄も。みんな、あなたを「いらない」と言った。便利な盾として使い潰すことを選んだ。……違いますか?』

「黙れと言っている!」


 剣に手をかける。 だが、抜けない。体が鉛のように重い。

 いや、違う。 抜きたくないんだ。この影を斬ってしまったら――私の本音に触れてくれる相手が、本当に誰もいなくなってしまう気がして。


 影――魔将アスモルの幻影は、歌うように囁き続ける。


『分かっているはずです。あなたが本当に憎んでいるものが何か』


 脳裏に浮かぶ。あの光景が。 月光泉のほとり。神々しい光に包まれた、勇者エリシアと、あの新人。

 世界が完成していた。 私が入り込む隙間なんて、一ミリもなかった。

 私の努力も、献身も、血反吐を吐くような鍛錬も――「才能」という暴力の前では、ただの道化の踊りでしかなかった。


『光が強ければ強いほど、影は濃くなる』


 影が膝元まで這い寄ってくる。冷たいはずなのに、どこか心地いい。


『あなたは光にはなれない。……知っていますね?』

「……ああ」


 乾いた唇が勝手に動く。


「知っているさ。私は……二番手だ」


 兄の次。勇者の次。そして今度は、ぽっと出の新人の次か。


『悔しいでしょう? 許せないでしょう?』

「…………」

『嫉妬は、恥ではありません。それは炎です。誇り高き、王の炎――』


 黒い石が、ドクンと跳ねた。 熱い。焼けるようだ。

 私の腹の底で燻っていた、ドロドロとした黒い感情。なんであいつなんだ、私を見ろ、認めろ、置いていくな――口に出せば反吐が出るような汚い本音が、油となって炎を燃え上がらせる。


『こちらへ来なさい、オスカー=ヴァルド・ガルドリアン』


 影が手を差し伸べてくる。その手は、かつて私が求めても得られなかった「承認」そのものに見えた。


『光の国があなたを拒むなら、闇があなたを歓迎しましょう。我々は知っていますよ、あなたの価値を』

「私の……価値」

『ええ。その嫉妬も、憎悪も、すべて力に変えてしまいなさい。そうすれば……もう二度と、誰にも背中を見送られることはない』


 影の手が、私の手に触れようとする。 あと数センチ。

 そこに触れれば、楽になれる。この窒息しそうな孤独から、解放される――。


「……っ」


 ギリッ、と奥歯が鳴った。

 私の手は、影の手を握らなかった。代わりに自分の右手を――あの黒い石ごと、血が滲むほど強く握りしめた。


「……断る」


 絞り出すような声。


『……ほう?』

「私は、ガルドリアの騎士だ」


 震える体を押さえつけるように、影を睨みつける。

 まだだ。まだ負けていない。まだ、私の剣は折れていない。 この西部の地で、自分の力だけで証明してやる。兄上が間違っていたと。エリシアが選ぶべきは私だったと。


 魔王の力なんぞ借りなくても、私は――!


「失せろ、亡霊。私の国に、貴様の席はない」


 虚勢だ。自分でも分かる、ギリギリの。でも、それだけが今の私を支える最後の杭だった。

 影――アスモルの幻影は、ふっと笑った気がした。拒絶されたのに、怒るどころか楽しむように。


『いいでしょう。……その意地、いつまで持ちますかね』


 影が霧のように揺らぎ、薄れていく。


『ですが、忘れないでください。闇は常に、あなたの影の中にいる。あなたが一度でも膝をついた時、我々はそこにいますよ』


 気配が消える。 馬車の中、私一人が残される。


 ハァ、ハァ、と荒い息だけが響く。全身が冷や汗でぐっしょりと濡れていた。

 怖かった。 魔王の影が?

 ……いや、違う。 あわよくばその手を取りそうになった、自分自身の弱さが。


 私は右手の石を見る。捨てられなかった。拒絶したはずなのに、まだ握っている。これが私の弱さの形だ。

 でも、今はこれが必要だ。この冷たさが、燃え尽きそうな私の心を、辛うじて繋ぎ止めている気がするから。


「……まだだ」


 窓の外、荒涼とした大地を睨む。


「ここからが、私の戦場だ」


 闇に落ちるのは、まだ早い。 まだ、あがけるはずだ。


 ***


 一方その頃。 遥か後方、王都の城壁の上。


「……ッ!」


 俺、ルーカス・ヴァレリオは西の空を見上げて眉を顰めた。

 ざわり、と肌が粟立つ。何かが切れたわけじゃない。でも、ギリギリまで引き絞られた糸が、今にも弾け飛びそうな――そんな危うい気配。


「おい、ルーク……」


 肩の上で、炎の精霊ヴァルが呻くように声を漏らす。尻尾の毛を逆立てて、西の空を威嚇している。


「今の……感じたか?」

「ああ。嫌な風が吹いたな」

「あいつの気配が――オスカーの奴の火が、揺らいでやがる」


 ヴァルは鼻を鳴らす。それは火事が起きる前の、焦げ臭い予兆を嗅ぎつけた時の仕草だ。


「消えそうなくせに、妙に熱い。変な薪をくべられちまったみてぇだ。油断すると、一気に変な方向に燃え広がりそうだぜ」

「……旦那」


 雷のアルクも、俺の腕にしがみついてくる。


「あいつの足元、崩れかけてるぞ。まだ落ちてねぇけど……片足、崖の外だ」


 崖っぷち。まさにそんな感じだ。

 あいつは今、一人で綱渡りをしている。命綱なしで、下には真っ暗な深淵が口を開けている場所で。


 土の精霊オルドが、重々しく唸った。


「大地の震えが伝わってくるわい。西の地が、口を開けて待っておる。魔素の濃度が尋常じゃあない。あやつの精神が、耐えられるかどうか……」


 俺は拳を握りしめた。爪が食い込んで痛い。

 王命だの、組織の規律だの。そんなもんであいつを縛って、孤立させたのは誰だ。

 俺たちだ。 俺たちが、あいつを一人にしたんだ。


「まだ、間に合うか?」


 風に乗って、フィオが舞い戻ってくる。その表情は硬いが、絶望の色ではない。


「……まだ、風は止んでおりませぬ。彼方の獅子も、主を信じて吠えております。ですが、猶予はそう長くはありますまい」

「そうか」


 なら、急がなきゃいけない。あいつが完全に手を離してしまう前に。闇に飲み込まれて、二度と戻れなくなる前に。


「待ってろ、オスカー」


 助けに行く。絶対にだ。

 たとえお前が望んで闇を選んだんだとしても――俺は、お前を殴ってでも連れ戻す。それがお前の「たまたま」才能があっただけの部下の役目だろ。


「フェデ、行くぞ」

「わふっ!」


 足元で相棒が力強く吠えた。その声だけが、今の俺には唯一の救いだった。



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