第122話 仲間との別れ
朝の空気が重い。 湿った雑巾みたいに、べったりと肌にまとわりついてくる。
ガルドリア王都、ヴァルドンガルドの西門。 ここから先は死地だ。一本道。 石造りの巨大な門の前に、西部国境へ向かう守備隊が整列している。馬のいななき、鎧が擦れる金属音。本来なら勇ましい出陣の光景のはずが――漂ってるのは、どうしようもない「都落ち」の空気。
「副団長ぉ……! いやです、なんで、なんで行っちゃうんですかぁ……ッ!」
同期のカインが泣き叫んでる。なりふり構わず。 顔面ぐしゃぐしゃ。鼻水と涙まみれで、騎士としての体裁なんてあったもんじゃない。でも誰も笑わなかった。
分かってるから。 これが栄転なんかじゃないって。体のいい厄介払いだって。
「泣くな、カイン。……みっともないぞ」
声をかけたのは、その厄介払いされる張本人。 オスカー・ヴァルド・ガルドリアン、我らが副団長殿だ。
馬上から、静かにカインを見下ろしている。 その顔は――いつも通りだった。驚くほど。 整った眉、理知的な瞳、王族らしい洗練された微笑み。昨夜、俺の前で見せたあの虚無が嘘みたいに、完璧な副団長を演じてる。
「西部は最重要拠点だ。誰かが行かねばならん」
「でもっ……! 本隊の増援もなしに……あんなとこ……死にに行くようなもんじゃないですかッ!」 「カイン!」
たしなめるように声を上げたのはノルンだ。いつもは眠そうな彼女も、今は唇を噛んで必死に涙をこらえてる。狐耳がぺたんと頭に張り付いて、小刻みに震えてるのが痛々しい。
ノルンは一歩前に出て、深々と頭を下げた。
「……ご武運を。オスカー様なら、きっと……あんな場所でも、立派に務めを果たされると信じてます。だから……」
「ああ。ありがとう、ノルン」
オスカーは短く笑った。 ハハ、と。乾いた音が朝霧に吸い込まれていく。
「心配はいらないさ。……私は『盾』だぞ? ガルドリアの、頑丈な盾だ」
胸甲をコンコンと叩いてみせる。
「敵を食い止めて、ボロボロになるまで立ち続ける。それが盾の役目であり、本望だろう? 華々しい剣の役目は、他の誰かがやってくれるさ」
その言葉が胸に突き刺さる。 自虐じゃない。皮肉でもない。もっとタチの悪い――「諦め」の肯定。 自分を消耗品だと認めちまった人間の、最期の笑顔。
「……うそつき」
肩の上で、水の精霊ラグがぽつりと呟いた。普段はすました顔の人魚なのに、今は悲しげに尾びれを垂らしてる。
「心が、泣いてます。……いえ、もう涙も枯れて、乾いた泥みたいになってる」
「あーもう、見てらんねぇ! なんで誰も止めねぇんだよ! ルーク、お前なんか言えよ!」
炎のヴァルが髪を引っ張って喚くけど、何を言えってんだ。
「行くな」って? 王命に逆らって? そんなことしたら、オスカーの立場はもっと悪くなる。彼はそれを一番恐れてるんだ――自分のせいで王家の名に泥を塗ることを。
その時。
「――オスカー殿!」
凛とした声が、重苦しい空気を切り裂いた。 人垣が割れて、白い影が駆け寄ってくる。
輝くようなプラチナブロンド。朝の光を一身に浴びて、その場にいるだけで空気が浄化されるような圧倒的な存在感。
勇者、エリシアだ。
息を切らせて、オスカーの馬の前に立つ。 その瞳は真っ直ぐで、純粋で、一点の曇りもない。
「間に合ってよかった……! あの、これ……お守りです。ルナヘルムの森で、私が編んだもので……」
差し出したのは、エルフの伝統的な組み紐のお守り。 昨夜、きっと寝ないで作ったんだろう。指先に小さな絆創膏が見える。
エリシアは、本当にいい子だ。 心の底からオスカーを心配して、無事を祈って駆けつけてきたんだと思う。
「オスカー殿は強い方です。……私も、王都から祈っています。どうか、生きて戻ってください。あなたは、私たちの大切な仲間なんですから!」
光だ。 まぶしすぎるほどの、善意の光。
カインやノルンなら、涙を流して喜んだだろう。 でも――
俺には見えてしまった。 その「光」を受けた瞬間、オスカーの瞳の奥で、何かがどろりと黒く濁るのを。
(……仲間、か)
聞こえるはずのない声が、聞こえた気がした。
オスカーは、エリシアの手からお守りを受け取ると、恭しく口づけをした。完璧な礼儀作法で。
「……感謝します、勇者殿」
声が低い。
「貴女のような方に気にかけていただけるとは、私は果報者だ」
「え……?」
「ですが、無用な心配です。……私は私の分相応な場所へ行くだけ。英雄である貴女が、わざわざ見送るほどの価値など、私にはありませんよ」
エリシアの表情が凍りつく。 言葉は丁寧なのに、そこに含まれた拒絶の意思があまりにも強烈だったから。
オスカーの目は、笑っていなかった。 まるで汚いものでも見るみたいに、自分自身と、そして眩しすぎるエリシアを見下ろしている。
『励まし? 憐れみの間違いだろう?』
そんな心の声が、痛いほど伝わってくる。
エリシアの純粋な善意が、今の彼には「持てる者の傲慢な施し」にしか聞こえてないんだ。一番欲しいものを全部持ってる相手から、「あなたなら大丈夫」なんて言われる屈辱。それは傷口に塩を塗り込むどころか、煮えたぎった油を注ぐようなもん。
「オスカー、殿……?」
「出発だ!」
オスカーはエリシアから視線を切り、短く号令をかけた。 有無を言わせぬ声。
馬首を西へと向ける。その動作にはもう迷いがない。
「全軍、前進!」
車輪が軋む音。兵士たちの重たい足音。 西門の巨大な扉が、ギギギ……と鈍い音を立てて開いていく。
その先に見えるのは、薄暗い曇り空と、荒涼とした荒野だけ。
カインがまた泣き崩れる。ノルンがそれを支える。 エリシアは、受け取ってもらえなかった言葉を飲み込んだまま、呆然と立ち尽くしている。
俺は―― 俺は、ただ見ていた。城壁の影から。一歩も動けずに。
『旦那……』
雷のアルクが、珍しくしんみりした声を出した。
『あいつの背中……なんか、小さくなっちまったな』
「……ああ」
昨日までの、俺たちを指導してくれていた頼れる副団長の背中じゃない。 何か黒くて重たいものに押しつぶされそうで、それでいてその重さだけをよすがにして立ってるような――危うい背中。
馬上のオスカーは、一度も振り返らなかった。 王都にも、俺たちにも。 そして、あれほど執着していたエリシアにさえも。
まるで、ここにある「光」のすべてと決別するみたいに。
「わふぅ……」
足元でフェデが小さく鳴いた。いつもなら尻尾を振って愛想を振りまく彼が、今は耳をぺたりと伏せて、じっと遠ざかる隊列を見つめてる。霊獣の本能が感じてるんだ――あれはもう、ただの旅立ちじゃないってことを。
遠ざかっていく。 俺の上官で、初めてできた「仲間」みたいな男が。
俺は拳を握りしめた。爪が食い込んで痛い。
助けに行く。絶対にだ。 精霊王の力だろうが、規則違反だろうが知ったことか。あんな顔をして出ていった男を、このまま野垂れ死になんてさせるもんか。
「待ってろよ、オスカー」
口の中で、小さく呟く。
風が吹いて、砂埃を巻き上げた。 西の空は、まるでインクを流したみたいに、不気味な紫色に染まっていた。
この時の俺は、まだ知らなかったんだ。 次に彼と会う時――それが、あんな最悪の形になるなんてこと。
隊列が、地平線の向こうへ消えていく。 後には、タイヤの轍と、置き去りにされた俺たちの無力感だけが残されていた。




