第121話 最後の模擬戦
夜の《蒼騎広場》は、静かだった。
妙に、静か過ぎる。
普段なら訓練生の掛け声が響いて、木剣のぶつかる音が満ちてるはずの場所。なのに今夜は、風が石畳を撫でていく音だけ。
冷たい。
世界から色が抜け落ちたみたいに、全部が灰色で、冷え冷えとしてる。
俺――ルーカス・ヴァレリオは、広場の隅に立っていた。手紙を握りしめて。
宛名は俺。差出人、オスカー・ヴァルド・ガルドリアン。
内容は一行。『最後に、手合わせを願いたい』 最後って、なんだよ。
明日には西部へ発つんだぞ、あんた。死地へ向かうってのに。
「……ルーク殿。風が、泣いております」
肩の上で小鳥姿のフィオが、緑の羽根を震わせた。
「あの方の周囲だけ、空気が澱んでいる。……嵐の前の、凪」
「あーもう、辛気臭ぇ!」
頭の上で赤毛の子狐ヴァルが、しっぽをブンブン振り回す。
「やるならやるで、ガツンとぶつかりゃいいだろ! 男なら拳で――」
「おやおや、ヴァル。相手は王族ですよ? 不敬罪で首が飛びますね」
人魚のラグが、ひらひらと宙を泳ぎながら冷ややかに突っ込む。
「……おやかた。あいつの足元、地盤が緩んでおる。いつ崩れてもおかしくない」
土ゴーレム姿のオルドが、地面を見つめて呟いた。
精霊たちも分かってんだ。
オスカーが今、ギリギリのところに立ってるってこと。
俺は息を吸い込んで――広場の中央へ歩き出した。
月明かりの下、完璧に磨き上げられた鎧が白く光ってる。ガルドリア王国第二王子にして、セカイジュ騎士団副団長。
オスカーは、俺が近づくとゆっくり振り返った。
「来たか、ルーク」
穏やかな声。
昨夜、俺を拒絶した時の冷たさとも違う。祝勝会で見せた能面のような笑顔とも。透き通ってる。憑き物が落ちたみたいに。
でも、それが怖い。中身が空っぽの器が風に鳴ってるみたいで。
「……オスカーさん。こんな時間に」
「なに、少し身体を動かしたくてね」
彼は腰の剣を、すらりと抜いた。
訓練用の木剣じゃない。真剣だ。王家ゆかりの名剣――刀身が青白く輝いて、見るからに業物。
「君も抜きなさい」
「俺は――」
「木剣でいい。いや、君ならその鞘でも構わないな」
俺の腰にある星霊剣アストラの鞘を指差して、彼は薄く笑う。
「君がそれを『ただの棒』として振るうだけで、岩さえ砕ける。……ドワーフの山脈で見せた力。あれを、私に見せてくれ」
「嫌です」
即答した。
「あんた、明日出発なんだろ。怪我でもさせたら――西部じゃ万全の状態だって生き残れるか分からないのに」
「……ハハ」
乾いた笑い声。
「優しいな、君は。だが、それは残酷な優しさだ」
彼の瞳から、温度が消える。
「私はね、知りたいんだよ。自分が何者なのか」
切っ先が、俺に向けられた。
「兄上の捨て駒なのか。勇者の引き立て役なのか。それとも……まだ、騎士としての価値が残っているのか」
殺気はない。でも、もっと重たい何かが――執念みたいなものが、ビリビリと肌を刺す。
「本気で来てくれ。手加減はいらない」
オスカーは続ける。
「もし君が手を抜いたら……私はこの場で舌を噛んで死ぬ」
「なっ……!?」
「冗談ではないぞ。今の私は、それくらい脆い」
本気だ。マジで言ってる。
俺は奥歯を噛み締めた。胃が、痛い。キリキリと胃酸が逆流しそうだ。
なんでここまで追い詰められなきゃいけないんだよ、あんた。
オスカーは努力してきた。誰よりも真面目に、誰よりも国を思って――なのに世界は、彼に「天才の踏み台」以外の役割を与えないのか。
「……旦那。やってやるしかねぇんじゃねぇか?」
金色の雷竜アルクが、バチバチと火花を散らす。
「ここで逃げたら、こいつの心は完全に折れる。まあ……やっても折れるかもしれねぇけど」
「わたくしは反対ですが。しかし、この冷え切った均衡を壊すには、衝撃が必要です」
雪ウサギのフロスが、赤い目でオスカーを見据えた。
ああ、分かってる。逃げ場なんてない。
俺は溜め息をひとつ吐き捨てて、腰の鞘を外した。ボロ布を巻いたまま――ただの木の棒にしか見えない。でもこれは世界樹の枝そのものだ。
「……一本だけです」
「ああ。感謝する」
オスカーが構える。
その構えは完璧だった。教科書に載せたいくらい。重心、剣の角度、視線――どれをとっても隙がない。ガルドリア王家秘伝の型。何千回、何万回と繰り返してきた血と汗の結晶。
対する俺は、棒立ち。
構えなんて知らない。剣術も習ったことない。
ただ、身体の中を巡る霊素の蛇口を――ほんの少しだけ緩める。
ドクン、と心臓が跳ねた。血管の中を、熱い光が駆け巡る。普段は「Dランク」に抑え込んでる出力を、ほんの一瞬、開放する。
俺の周りだけ、重力が歪んだみたいに空気が軋む。
「――行くぞッ!」
オスカーが踏み込んだ。
速い。雷のような踏み込み。瞬きする間に間合いを詰めて、鋭い突きが俺の喉元へ迫る。
《皇炎・閃》――彼の得意とする必殺の一撃。迷いも恐れもない。澄み切った一撃だった。
すごいな、あんたは。
ここまで追い詰められて、こんな綺麗な剣が振れるのか。
でも――俺には、止まって見えた。
精霊王の眼が、霊素の流れをスローモーションみたいに映し出す。剣の軌道、筋肉の動き、次に踏み込む足の位置。全部が手に取るように分かる。悲しいくらいに、見えてしまう。
俺は、鞘を振った。
技術なんてない。ただ上から下へ。子供のチャンバラみたいな単純な一振り。でも、そこには絶対的な「質量」が乗っていた。霊素という名の、理不尽な重り。
ガギィッ!!
嫌な音が響いた。
オスカーの剣が、俺の鞘に触れた瞬間――飴細工みたいに砕け散った。鋼鉄の名剣が。王家の宝が。ただの木の棒に負けて、粉々になった。
「あ……」
衝撃波がオスカーを襲う。彼は踏ん張ることさえできなかった。木の葉みたいに吹き飛ばされて、石畳の上を転がる。
ガシャン、ガシャンと鎧が擦れる音。仰向けに倒れたまま、動かない。
静寂
月が雲の切れ間から顔を出して、散らばった剣の破片を照らす。キラキラと光るそれは――砕け散った彼のプライド、そのものに見えた。
「……は、はは……」
乾いた笑い声が聞こえた。
オスカーが、空を見上げたまま笑ってる。
「すごいな……本当に」
彼はゆっくり体を起こした。その手には、折れた剣の柄だけ。
「私の人生は……この一振りにも、届かなかったか」
違う。そうじゃない。
俺は何か言おうとして――口を開けた。でも、言葉が出てこない。
「手加減したんです」?
「剣が脆かっただけです」?
何を言っても、全部が彼を傷つける刃にしかならない。圧倒的な事実の前じゃ、慰めなんて毒にもならないんだ。
オスカーは立ち上がり、土埃を払った。その顔には、もう何の感情も浮かんでいなかった。
絶望すら通り越した、完全な無。
能面のような完璧な笑顔を貼り付けて、彼は俺に一礼する。
「ありがとう、ルーク。よく分かったよ」
「オスカーさん……」
「おかげで、未練が断ち切れた。私は……私の分相応な場所へ行くとしよう」
彼は折れた柄を地面に捨てた。カラン、と虚しい音。そして俺にはもう目もくれず、出口へと歩き出した。
その背中は――昨日見た時よりもずっと小さく、冷たかった。
「……ルーク」
ヴァルが小さな声で呼ぶ。
「あいつの影……なんか、変だぞ」
俺はハッとして、彼の足元を見た。月明かりに伸びるオスカーの影。それが一瞬、彼自身の動きとは別に――ゆらりと蠢いた気がした。
まるで闇そのものが彼を歓迎して、手招きしているみたいに。
俺の手の中で、アストラの鞘が小さく震えている。
勝ったはずなのに。圧倒的に、完膚なきまでに勝ったはずなのに。
なんでこんなに――負けた気分なんだろう。
俺はただ、遠ざかるかつての友人の背中を、立ち尽くして見送ることしかできなかった。 広場には、折れた剣の破片だけが――冷たい墓標のように残されていた。




