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第119話  左遷の辞令

 扉が閉まった。 ずうん、と。 腹の底に、鉛が落ちたみたいに。


 ガルドリア王城、戦略会議室《金獅子の戦室》。あの扉の向こうには、まだ父王や兄上たちがいるはずだ。宰相に、将軍たち。この国の「脳みそ」が。 今ごろ、地図の上で駒を弾いているんだろう。 邪魔な王子が消えて、ああ清々した、とでも? 西部の五万を、どうやって魔王軍の餌にするか――そんな計算でもしてるのか。


 廊下が、寒い。 石畳の冷気がブーツの底を突き抜けてくる。コツ、コツ。自分の足音だけが、耳に突き刺さる。

 すれ違う貴族たちの視線。 痛い。いや、聞こえる気がする。肌に貼りついてくる、あざけりの気配。 『終わったな、あの王子』 『感情論で喚くだけの――』 聞こえてないのに、聞こえる。幻聴? 事実だろう、どうせ。


 私は背筋を伸ばした。顎を引いた。完璧な歩調で、リズムを刻む。 ガルドリア第二王子オスカー・ヴァルド・ガルドリアンとして。 ……中身が空っぽの鎧が、勝手に歩いてるみたいだ。


「――オスカー」


 背後から。 綺麗な声だ。水みたいに澄んでる。 振り返りたくなかった。でも体は条件反射で動いて、王族としての「礼」が、私の意思なんか無視して膝を折らせる。


 そこにいたのは第一王子レオンハルト。 私の兄上。 ああ、美しい人だ。金茶の髪も、蒼銀の瞳も。感情のゴミが混じってない、研ぎ澄まされた氷の刃物。 その手には羊皮紙が一枚。


「……兄上。会議は」

「あらかた決まった。あとは兵站の調整だけだ。……これを、お前に」


 差し出された羊皮紙。王家の紋章が入った封蝋。まだ温かい。 受け取る手が震えないよう、全身の筋肉を硬直させて――受け取った。


「辞令だ」


 兄の声は、事務的で。軽かった。 今日の夕飯のメニューを伝えるくらいの軽さで、私の人生を終わらせる言葉を吐く。


「お前を『西部国境守備隊・隊長』に任命する」


 西部。 さっき、放棄が決まったばかりの。


「……それは」

「名誉なことだよ。我が国の最重要防衛ライン、ラインヴァルト要塞都市。そこの指揮権を、お前に一任する」

「一任」

「ああ。現地の守備隊と、お前の直属部隊を統合して指揮を執れ。ただし――」


 兄は、その綺麗な唇を薄く歪めた。 笑ってる? 能面みたいで読めない。


「セカイジュ騎士団の本隊は連れて行くなよ。あれは世界を守るための戦力だ。一国の防衛で消耗させるわけにはいかないからね」


 息が、止まるかと思った。 そういうことか。 騎士団副団長としての手足をもいで、ガルドリアの一指揮官として行け、と。 増援なし。補給なし。手持ちの精鋭もなし。 現地の寄せ集め兵だけで魔王軍の主力とぶつかれ?

 それは戦えという命令じゃない。 『死んでこい』だ。


 時間稼ぎの囮になって、民もろとも玉砕しろ。敵の進軍を数日でも遅らせろ。 そういう意味だろう。事実上の―― 兄は「名誉」という包装紙に包んで、丁寧に渡してきたのだ。


「期待しているよ、オスカー。お前は『盾』としては優秀だ。きっと、素晴らしい働きをしてくれるだろう」


 盾。 そう、私は盾だ。守るためのじゃない。使い潰して、捨てられるための。


 怒りが湧くと思った。ふざけるなと、その顔を殴り飛ばしたくなると。 でも、違った。 私の心は、驚くほど静かだった。深い井戸の底みたいに冷たくて暗い。


 右手のポケットの中で、黒い石がドクリと脈打った。


『ほら見ろ。やっぱりお前は捨てられた』


  甘い毒みたいな声が、脳髄に染み渡る。 ……ああ、そうだね。私は要らない子だったんだ。


「謹んで、お受けいたします」


 顔を上げた時、完璧に笑えていたと思う。 兄上が一瞬、眉をひそめた気がしたから。負け犬が泣き叫ぶと思っていたのに、期待外れだったかな? 残念だね兄上。私は優秀な王族だから、絶望さえも仮面の下に隠せる。


「ガルドリアの盾として、命尽きるまで務めを果たしましょう」


 兄に背を向けて、歩き出す。 羊皮紙を握りしめた手が、じわりと熱い。処刑命令書か。あるいは冥府への招待状か。 どちらでもいい。もう、どうでもいい。


 ***


 セカイジュ騎士団本部、特務候補生寮。 俺、ルークは談話室のソファで死んだように伸びていた。腹の上にはフェデ。でかい。重い。あったかい。 本来ならスローライフの極みみたいな時間のはずなんだけど、どうにも落ち着かない。


『ルーク』


 赤い毛玉――ヴァルが俺の肩に乗って鼻をヒクつかせた。


『なんか来るぞ。すっげぇ嫌なにおい。腐った脂と、冷たい鉄と……あと、死人のにおいがする』

「死人? 縁起でもない」

『マジだもん』


 フィオが窓辺で羽を休めたまま、静かに答える。


『風が澱んでおります。王城の方角より……重く、粘り気のある気配が』

『おやかた、足音がするわい』


 オルドの低い声。 直後、寮の玄関扉が開いた。

 入ってきたのは、オスカーだった。 いつもの完璧な制服姿。マントに皺ひとつない。 でも――精霊視で見えた姿に、俺は息を呑んだ。


 色が、ない。 いつもなら彼の周りに見えている、誇り高い炎の赤や、堅実な土の茶色。そういうオーラみたいな霊素の輝きが、ごっそり抜け落ちている。 代わりに胸のあたりに黒い穴が開いているように見えた。虚無のように底が見えない。


「副団長! お帰りなさい!」


 カインが駆け寄る。ノルンもソファから身を起こして、尻尾をパタパタ振った。 みんな待ってたんだ。彼が帰ってくるのを。


「どうでした? 会議。やっぱり兄上殿下にガツンと言ってやったんですよね?」

「ええ。きっと副団長の意見が通ったに決まって――」


 純粋な期待。 オスカーは彼らに向かって微笑んだ。ガラス細工みたいに繊細で、触れたら血が出そうな笑顔。


「……ああ、ただいま。良い知らせがある」


 オスカーは手にしていた羊皮紙を、ひらりと掲げた。


「昇進だ。私が、西部国境守備隊の隊長に任じられた」


「えっ! 隊長!?」


 カインが目を丸くする。


「すげぇ! 国境の全権を任されたってことですか!?」

「まあ、そういうことだね」


 オスカーの声は滑らかだ。でも俺には聞こえた。言葉の裏にある、乾いた何かが擦れる音が。 ヴァルが俺の耳元で唸る。


『嘘だ。あいつ、泣いてるぞ。いや、泣くことすら忘れてる』

「ラインヴァルト要塞都市。我が国の最重要拠点だ。そこを私に任せると父上と兄上が。……王家の盾としての信頼の証だよ」


 嘘だ。 俺は咄嗟に身を起こした。フェデが「くぅん」と悲しげに鳴いて、俺の膝に頭を擦り付けてくる。こいつも分かってるんだ。 オスカーの霊核から、悲鳴が聞こえる。


 信頼? 違う。 その羊皮紙から漂ってくるのは、もっと冷酷で実利的な匂い。切り捨て。使い潰し。 騎士団の副団長としてじゃなく、ガルドリアの軍人として行け。それじゃ俺たちも、騎士団の本隊も連れて行けない。


「……副団長」


 俺は声をかけた。喉が渇いて、うまく言葉が出ない。


「それ、援軍は……騎士団の本隊は、動くんですか?」


 部屋の空気が凍った。 カインたちの笑顔が引きつる。 オスカーは俺を見た。その碧眼は深海の底みたいに光が届いていない。


「……動かないよ」


 あっさりと、彼は言った。


「これはガルドリアの問題だ。騎士団は世界を守るために温存しなければならない。私は手持ちの部隊と現地の兵だけで西部を守り抜く。……そういう『王命』だ」

「は? ちょっと待って――」


 カインが声を荒らげる。


「それって無理じゃないですか? 西から魔王軍の主力が来るんでしょ? それを俺たち抜きで?」

「お前たちは来なくていい」


 オスカーは子供を諭すように優しく言った。


「現地の守備兵もいる。民もいる。……彼らを盾にしてでも、時間を稼げということだ」

「盾に……して?」


 ノルンが耳を伏せた。 オスカーの口から出た言葉とは信じられなかった。あれほど民を守ることに拘っていた彼が。 違う。 言わされているんだ。その絶望的な状況を無理やり納得するために。自分自身を殺して、王族としての役割になろうとしている。


「光栄なことじゃないか」


 オスカーは笑った。頬の筋肉だけで。


「ガルドリアの盾として一番槍を務められるんだ。……これ以上の死に場所はない」


 死に場所。 その言葉が出た瞬間、俺の中で何かが弾けた。

 ふざけるな。 死に場所だと? あんたはそんな風に消費されていい人間じゃないだろう。

 俺の精霊王核がドクンと脈打つ。霊素が漏れ出しそうになるのを、必死で《阻害の指輪》で抑え込む。


「……オスカー」


 呼び捨てにしてしまった。 彼は少しだけ眉を動かしたが、すぐに無表情に戻った。


「準備があるから失礼するよ。出発は明後日だ。……君たちも覚悟を。いや、君たちは残るんだったな」


 彼は背を向けた。 その背中は以前見た時よりずっと小さく、そして歪に見えた。 何か黒い影が――彼の影の中に、別の何かが蠢いているような。

 オスカーは自室へと消えた。 残された談話室には重苦しい沈黙と、羊皮紙から落ちた封蝋の欠片だけが転がっていた。


 カインが「……マジかよ」と呟く。

 俺は拳を握りしめた。爪が食い込んで痛い。でもオスカーの心が感じている痛みに比べれば。


 あいつを見殺しにする気か。 王家も。騎士団も。そしてあいつ自身も。

 ふざけるな。 スローライフ? 知ったことか。 俺の友人が、目の前で壊されようとしているんだぞ。

 フェデが俺を見上げる。その琥珀色の瞳が「どうする?」と問いかけていた。 決まっている。 俺は立ち上がった。


 ***


 自室に戻ったオスカーは、灯りもつけずにベッドに腰掛けた。 手の中には黒い石。

 冷たくて重い。でも今の彼にはその重さだけが唯一の現実だった。


『よかったな、オスカー』


 石が笑う。


『お望み通り、誰にも邪魔されない舞台が手に入ったぞ。そこならお前は王になれる』

「……ああ」


 オスカーは呟いた。暗闇の中で、彼の瞳だけが赤黒く光る。


「誰も助けに来ない。……最高じゃないか」


 光の勇者も。天才の精霊使いも。 誰もいない、絶望だけの場所。 そこなら私は誰と比較されることもない。ただ燃え尽きるまで戦える。


「力が要るな」


 彼は石を握りしめた。 石が皮膚に食い込み、同化していく。


「あいつら全員を見返すための……絶対的な力が」


 部屋の隅で、影が揺らいだ気がした。 左遷の辞令は、彼にとって絶望の宣告であり――そして魔王への招待状でもあった。


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