第118話 捨て駒の論理
朝から、空気が妙だった。 どんよりした曇り空のせいじゃない。もっとこう――肌にへばりつくような、見えない泥が王都ヴァルドンガルド全体を覆ってる、そんな感じだ。
セカイジュ騎士団の候補生寮。その一室で、俺、ルーカス・ヴァレリオは目を覚ますなり盛大にため息をついた。
「……なんか嫌な予感」
枕元で赤い毛玉が動く。炎の上位精霊ヴァルだ。
『お前の鼻も、だいぶマシになってきたな。ルーク』
あくびを噛み殺しながら、窓の外――王城の方を睨んでやがる。 『臭うぜ。生木が燻るような嫌な匂い。焦げ臭いっていうより、もっとドロっとした……腐った脂みてぇな気配が、城の方から流れてきてる』
「朝から勘弁してくれよ」
洗面器の水に手を伸ばすと、ひょっこり水色の髪の少女が顔を出した。水のラグ。
『おはようございます、ルークさま。ヴァルの言う通りですわ。今朝の水は、酷く怯えています。王都の地下を流れる水脈が、どこか一点で"冷たく"なって……まるで誰かの心を映したように』
誰かの心か。 俺の脳裏に、昨夜の祝勝会で見たオスカーの顔が浮かんだ。あの、完璧すぎて逆に不気味だった笑顔。
「……副団長、かな」
『おやかた』
床板の節穴から、土のオルドがゴゴゴと低い音を立てる。
『城の石壁が震えておる。今日、あやつの運命が決まる会議があるはず。そこでの言葉が、あやつを光に留めるか、それとも……』
オルドは言葉を濁した。
俺は何も言えず、ただ自分の手を見た。Cランクの騎士章。これが俺の手にある限り、あいつは俺を認めない。俺が手を差し伸べれば差し伸べるほど、あいつは惨めになる。 できることなんて、何もない。 ただ嵐が来るのを待つことしか。
***
同時刻。ガルドリア王城《ヴァルドン城塞宮》。 その最深部にある戦略会議室《金獅子の戦室》は、窒息しそうなほどの沈黙に包まれていた。
重厚なオーク材のテーブルに、巨大なガルドリア王国の地図。西の国境線には無数の赤い駒――魔王軍の予想侵攻ルート。それに対する青い駒、王国軍の配置。 円卓を囲むのは、この国の心臓部ともいえる面々だ。上座に国王ガルドラン八世。その右手に第一王子レオンハルト。そして左手には私――オスカー・ヴァルド・ガルドリアン。
誰も口を開かない。開けないのだ。先ほど兄上が提示した「作戦案」があまりにも冷徹で、言葉を失っている。
私はテーブルの縁を握りしめていた。指の関節が白くなるほど強く。爪が木に食い込む音が、ミシ、と。
「……兄上」
喉が張り付く。声を出すだけで肺が焼けるようだ。
「もう一度、おっしゃってください。今、なんと?」
兄――レオンハルト=ヴァルド・ガルドリアンは、眉一つ動かさない。美しい金茶の髪。感情を映さない蒼銀の瞳。長い指示棒で地図上の「西部」をトン、と叩く。
そこは私が長年心血を注いで守り抜いてきた最前線。
「聞こえなかったかい? オスカー。……私は『引く』と言ったんだ」
水のように滑らかで、氷のように冷たい声。
「西部国境の防衛ライン、すなわちラインヴァルト要塞都市を含む全域。ここを放棄する」
「……放棄?」
脳が理解を拒む。 ラインヴァルトは盾だ。この国の喉元を守る最後の砦を、捨てる? 正気か?
「戦略的撤退だよ。敵の戦力は未知数だ。特に西方の瘴気濃度は過去のどの記録よりも高い。まともにぶつかれば、我が軍はすり潰される」
兄は淡々と、まるで明日の天気を語るように続けた。
「だから招き入れるんだ。西部という広大な『空間』を敵に食わせる。敵が都市を落とし、略奪し、気が緩んで戦線が伸びきったところを、中央に温存した主力で叩く。遅滞防御と包囲殲滅の合わせ技だね」
カッ、と頭の中で何かが爆ぜた。 血が逆流する。視界が赤く染まる。 バンッ!! 気づけば私は、テーブルを両手で叩きつけて立ち上がっていた。椅子が後ろに倒れ、派手な音。将軍たちが息を呑む気配。
「ふざけるな……ッ!!」
王の御前で声を荒らげるなど、あってはならない。だが止まらない。
「西部には! ラインヴァルトには三万の民がいる! 周辺の村を合わせれば五万を超える! それを……敵に食わせるだと!?」
私の剣は彼らを守るためにある。あの土地の子供たちが私を見て手を振ってくれる。兵士たちが「副団長となら死ねる」と笑ってくれる。 その信頼を、裏切れと?
兄は私の剣幕にも動じない。むしろ駄々をこねる子供を見るような目で、静かに溜息をついた。
「座りなさい、オスカー。感情論で戦争はできない」
「感情論ではありません! 騎士の道義の話だ! 民を守らずして何が王家ですか! 何が盾ですか!」
私は地図上の西部を指差した。指が震えている。
「ラインヴァルトは堅牢です! 私の部隊と現地の兵がいれば持ちこたえられる! わざわざ国を開けて敵を入れる必要などない!」
持ちこたえて、どうする?」
兄の冷たい問いが私の言葉を遮った。
「お前が死守したとして、消耗するのは誰だ? ガルドリアの正規軍だ。敵は魔族だぞ。数は無限、疲労もしない。そんな相手と正面から消耗戦をして、勝てる保証がどこにある?」
「それは……ッ」
「万が一前線が崩壊すればどうなる? 勢いに乗った魔王軍はそのまま王都まで雪崩れ込むだろう。そうなれば死ぬのは五万では済まない。この国の全てが終わる」
兄は地図の王都を指し示した。
「五万を捨てて百万人を救う。それが王の算術だ。オスカー、お前は騎士ごっこがしたいのか? それとも国を守りたいのか?」
言葉に詰まる。 論理だ。反吐が出るほど完璧で、冷酷な論理。 正しい。頭では分かっている。兄の言うことは戦略的には正解なのだろう。 だが――納得していいのか? あそこで暮らす人々を見殺しにして、私たちが生き残ることに何の意味がある?
私は父王に視線を向けた。 この国を「盾」として鍛え上げた、尊敬する父。武人であり、現場の痛みを誰よりも知るはずの父なら。
「父上……! どうか、ご再考を! 我らセカイジュ騎士団は退くことを恥とします! 戦わせてください! 私が……私の命に代えても西部を守り抜いてみせます!」
懇願した。額を床に擦り付けてもいいと思った。 父は重厚な髭を撫でながら、沈黙を守っていた。その瞳は岩のように硬く、私を見据えている。 長い、長い沈黙の後。王の口が開いた。
「……オスカーよ」
低い、地響きのような声。
「お前の言い分は立派だ。騎士としてはな」
一瞬、希望が見えた気がした。だが次の言葉が、それを粉々に砕いた。
「だが国を守るには幼すぎる」
「……え?」
「レオンハルトの案を採用する」
王は短く、断言した。 目の前が真っ暗になった。
「ち、父上……!? しかしそれでは民が!」
「民など、また増やせばよい」
耳を疑った。今、父はなんと言った?
「土地も、家も、民も、国があってこそだ。国体さえ残れば再建はできる。だが王都が落ちれば全て終わりだ。……分からぬか、オスカー」
王は失望したように首を振った。
「お前には期待していたのだがな。やはり前線に長く置きすぎたか。兵士の情に毒されおって。大局が見えておらん」
失望。 毒された。 大局が見えない。 父の言葉の一つ一つが、鋭利な刃物となって私の心臓を突き刺していく。
私は間違っているのか? 民を守りたいと思うことが。目の前の命を救いたいと願うことが。それが「幼い」ことなのか?
周囲を見る。宰相も将軍たちも、誰一人として私を見ていない。彼らは皆、兄の案に頷き、次の配置の議論を始めている。 私だけが、異物だった。 この完璧な論理で組み上げられたテーブルの中で、私一人が「感情」というノイズを撒き散らす不純物。
「……理想論では国は守れぬよ」
兄が、トドメを刺すように呟いた。その目には勝利の優越感すらなかった。ただ、出来の悪い弟を哀れむような、無関心な光。 それが、一番効いた。
怒りすら湧かない。ただ冷たい水の中に沈んでいくような感覚。 ああ、そうか。私は、ここでは不要なんだ。 私の努力も、私の信念も、私の剣も。この国の中枢においては、計算の邪魔になるだけの「誤差」でしかない。
右手のポケットの中で。黒い石が、ドクン、と脈打った気がした。 冷たい。ひどく冷たいのに、それが妙に心地いい。
『……聞こえるか? オスカー』
脳内に、あの甘い声が響く。
『誰もお前の言葉なんか聞いちゃいない。お前の「正義」なんて、彼らにとってはゴミ同然だ』
否定したかった。でもできなかった。現に、父も兄も、もう私のことなど見ていない。彼らの視線は地図上の「駒」に向けられている。 私の大切な部下たちも、民も、ただの数字だ。
『お前は正しいよ。守りたいんだろ?』
石が囁く。
『なら力を持て。誰の言葉もねじ伏せる、絶対的な力を』
力が欲しい。この場の全員を黙らせる力が。父を、兄を、見返してやる力が。 そして――ルークのように、理不尽なまでに全てを救ってしまう、あのデタラメな力が。
私は無意識に石を握りしめていた。爪が掌に食い込む痛みだけが、私がまだここに立っている唯一の証拠だった。 「……御意」 私は乾いた唇でそう答えた。自分の声じゃないみたいだった。
父が満足そうに頷き、兄が次の議題へと移る。 私はゆっくりと椅子に座り直した。心の中の大切な何かが、音を立てて崩れ落ちていくのを感じながら。
もういい。 お前たちが民を捨てるというなら。光が、正義が、彼らを見殺しにするというなら。 私が守る。たとえそれが、どんな色をした力であろうとも。
ポケットの中の黒い石が、主人の決意に応えるように、熱く、赤黒く脈動し始めた。 この部屋の誰も、気づいてはいなかった。




