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第117話  黒い石のささやき

 静けさが、耳に痛い。

 宴のあとってのは、どうしてこんなに胸がスカスカするんだ。カインたちが騒いでた声が、まだ壁のどこかに残ってる気がするのに。なのに部屋は冷え切って、聞こえるのは自分の心臓だけ。ドクン、ドクンって。やけに主張が激しい。


 ……いや、違うな。

 耳鳴りだ、これ。キーンって高い音が、脳みその奥でずっと鳴ってやがる。


 俺――ルーカス・ヴァレリオは、特務候補生寮の上等なベッドへ背中から倒れ込んだ。

 さすがの待遇。シーツの手触りは最高だし、枕だって顔が埋まるくらいふかふか。のんびりした隠居生活を夢見てた頃なら、泣いて拝んでたかもしれない。

 けど今は怖い。その柔らかさが、逆に。底なし沼みたいに俺の体をずぶずぶ飲み込んでいくような――そんな錯覚。


 天井の木目を、目で追う。

 眠れるわけがない。目が冴えて、どうしようもない。まぶたを閉じると焼き付いて離れないんだ。あの顔が。オスカー副団長の、あの精巧な人形みたいな笑顔が。


『……おいルーク。寝ねぇのかよ』


 枕元で赤い毛玉がぽふんと動いた。炎のヴァルだ。あぐらをかいて、不機嫌そうに尻尾をパタパタさせてる。


「寝たいのは山々だけどさ……なんか、ここんとこが詰まってて」


 喉の奥を指差す。


『だろうな。あんなモン見せられちゃあ、祝酒も泥水になるってもんだ』


 フン、とヴァルが鼻を鳴らす。


『あの王子の野郎、完全に薪が燃え尽きてやがったぜ。炭になる前の、一番冷たい灰だ。……あそこまで心が死んでると、逆に燃やしようがねぇ』


 やっぱり、そう見えたか。精霊の目は誤魔化せない。俺たちが「立派な振る舞い」だなんて感心してたあれは、感情を燃やし尽くしたあとの残骸。そういうことだったわけだ。


『水面は凪いで見えますが……底は腐った泥で濁りきっています』


 襟元から、ひょっこりと水色の髪のラグが顔を出した。鈴を転がすような声も、今は湿っぽく沈んでいる。


『流れることをやめた水は、腐るだけです。あの御方の心は今、ご自分自身を猛毒で満たして必死に形を保っている状態。……一滴でも衝撃が加われば、決壊しますわ』


「……助けに行くべきか?」


 反射的に半身を起こしかけた。でも、すぐに力が抜けて、またシーツに沈む。

 行ってどうする。「悩みがあるなら聞きますよ」って? Cランクに昇進して、みんなにチヤホヤされてるこの俺が?

 それはもう、暴力だろ。持てる者の傲慢。あいつが一番ヘドが出るやつだ。俺が手を差し伸べれば差し伸べるほど、彼の高いプライドは惨めに切り刻まれる。


『いけません、おやかた』


 ベッドの下から、土のオルドが岩石を擦り合わせたような声で告げる。


『今、あやつの扉を叩いてはならん。……聞こえるんじゃよ。土を通して、嫌な音が』

「音?」

『石の音じゃ。……あやつが森から持ち帰った、あの黒い石。あれが根を張ろうとしておる。心の、一番柔らかくて脆い場所に』


 背筋がぞくりとした。

 あの、エルフの森の地下で見かけた黒い石。オスカーはあれをまだ捨てずに持っているのか? なんのために?


 俺は足元のフェデの毛並みに顔を埋めた。獣の匂いと、干し草みたいな日向の匂い。この温かさだけが今の俺をかろうじて現実に繋ぎ止めてくれている。

 窓の外では王都の夜が黒々と深まっていた。星ひとつ見えない、分厚い雲に覆われた夜。


 ***


 同時刻


 副団長室の空気は、息が詰まるほど張り詰めていた。値の張りそうな調度品、鏡みたいに磨かれた床、壁にはガルドリア王家の紋章旗。そのすべてが今のオスカーには、ただの「舞台装置」にしか見えなかった。自分という道化を踊らせるための、空虚な背景。


 彼はデスクの椅子に深く――死人のように沈み込んでいた。

 明かりはつけていない。今の自分には、暗闇の方が肌に馴染む。鎧は脱いだ。肩に食い込む重たいマントも外した。けれど、のしかかる重圧だけは一ミリだって軽くならない。


「……はは」


 乾いた笑いが喉の奥から勝手にこぼれ落ちた。鏡を見るまでもない。今の自分がどんな無様なツラをしているか、手触りでわかる気がした。笑い疲れて引きつった頬の筋肉が、ピクリ、ピクリと痙攣している。


 完璧だった。今日の私は。部下を祝い、上官の冷遇を甘んじて受け入れ、誰にも不快感を与えず、理想の副団長を演じきった。

 拍手喝采だろ。誰か褒めてくれよ。


 誰もいない部屋で虚空に向かって問いかける。返ってくるのは自分の荒んだ呼吸音だけ。

 机の上には書きかけの日誌。


『特務候補生ルーカス・ヴァレリオの昇格について。彼の能力は騎士団にとって有益であり――』


 ペン先が無残に折れていた。無意識に力を込めたせいだ。インクが黒い血みたいに紙にじわじわと染み込んで、整った文字を汚していく。


 有益? ああ、有益だろうさ。私なんかよりずっと。

 私が何年もかけて指にマメを作って磨いた剣技も、目を血走らせて覚えた戦術論も、吐き気を殺して身につけた王族の処世術も――あいつの「たまたま」の前じゃ、ただの子供の遊び。


「……くだらないな」


 何もかもが。努力が報われる? 正しければ道は開ける? そんなの寝物語のおとぎ話だ。現実はもっと残酷で、理不尽で、才能という暴力が全てを蹂躙していく。

 ふと、手が動いた。まるで自分の意思じゃないみたいに、机の引き出しへと指が伸びる。


 そこに、転がっていた。黒い、歪な石。

 エルフの森の地下で拾った、あの石だ。捨てようと思った。何度も。こんな気味の悪いもの、王族が持つべきじゃないと理性は叫んでいた。なのに気づけば持ち帰っていた。捨てようとすると指が強張って、どうしても離せなかった。


 オスカーは震える手でそれを掴んだ。

 冷たい。氷のような冷たさが、指先から血管を伝って心臓に直接流れ込んでくる。


『……辛いか?』


 声が聞こえた。耳じゃない。脳髄に直接、ねっとりとした泥を流し込まれたような声。

 オスカーはびくりと肩を震わせた。部屋を見回しても誰もいない。


「……誰だ」

『お前だよ。オスカー』


 石がドクンと脈打った気がした。その鼓動は自分の心拍と不気味なほど同期している。


『見ただろう。今日のあいつらの目を。……お前は便利だったよな。都合のいい盾だったよな。壊れなくて、文句も言わなくて、使い勝手のいい道具』

「黙れ……」

『悔しくないのか? あんな、ぽっと出のガキに全部持ってかれて。お前の席だったはずだろ? あの称賛も、あの光も、あの勇者の隣も』


 甘い声だった。腐った蜂蜜みたいにとろりとして、拒絶できない甘さ。筆頭魔将アスモル。名前すら知らないはずの存在の気配が、なぜかひどく懐かしく感じる。


『認められたいか?』


 石が囁く。


『誰よりも強く。誰よりも輝いて。……兄を見返したいか? あの勇者を、お前のものにしたいか?』


 オスカーの呼吸が荒くなる。ヒュー、ヒューと喉が鳴る。否定しなきゃいけない。これは幻聴だ。疲れてるんだ。こんな悪魔の誘いに耳を貸すなんて、騎士の恥だ。


 右手が痙攣する。石を机に叩きつけようとする。捨てろ。今すぐ。窓から投げ捨てろ。

 そう命じる理性とは裏腹に、指は石に食い込むほど強く――愛おしそうに握りしめていた。


「……私は、ガルドリアの第二王子だ。騎士団の、副団長だぞ……!」


 絞り出すような声。それは抵抗というより、自分自身への哀れな言い訳に近かった。


『だから、なんだ?』


 声が嗤う。


『その肩書きが、お前を救ってくれたか? 兄はお前を愛してくれたか? 勇者はお前を選んでくれたか?』


 脳裏に映像がフラッシュバックする。月光泉で抱き合うルークとエリシア。アウストレアの冷淡な視線。兄からの、嘲るような手紙。


 ――お前は二番手だ。永遠に。


「……う、あ……」


 喉から獣のような呻き声が漏れる。涙が出た。悔し涙じゃない。心が決壊して中身が全部流れ出ていくような、喪失の涙だ。


『王になりたいんだろう?』


 核心を深々と刺された。


『ただ一人。誰にも見下されない、絶対的な王に。……光の影に隠れるんじゃなく、お前自身が闇を統べる王になればいい』


 闇を統べる王。その言葉の響きが、空っぽになったオスカーの心に恐ろしいほどピタリと嵌った。

 光にはなれない。なら、影になればいい。一番濃くて、深くて、誰も無視できないほどの巨大な影に。


「……力が」


 オスカーの唇が震えながら動く。


「力が……欲しいか?」


 石が問う。

 オスカーはゆっくりと顔を上げた。月光に照らされたその瞳からは、もう理性の光が消えかけていた。あるのは飢えた獣のような渇望と、迷子の子供のような無防備な依存心。


 彼は黒い石を愛おしそうに頬に押し当てた。冷たさが、心地いい。熱を持っていた嫉妬も、痛みも、全部この冷たさが麻痺させてくれる。


「……ああ。欲しい」


 恋人に囁くように答えた。


「私を……見てほしい。誰でもない、私を……」

『いい子だ』


 石がじわりと溶けた気がした。黒い滲みがオスカーの指先から皮膚の下へ、血管を伝って侵入してくる。痛みはない。むしろ空洞だった胸の穴が、何か温かくて重いもので満たされていくような充足感。


『待っているぞ。……西の果てで』


 声が遠ざかる。

 オスカーははぁ、はぁと荒い息をつきながら自分の手を見つめた。黒い石はもうない。代わりに右手の掌に、薄っすらと黒い痣のようなものが浮かんでいた。


 それは呪いであり――契約の証。

 オスカーはふらりと立ち上がった。窓に映る自分の顔を見る。やつれている。酷い顔だ。でも目は笑っていた。もう迷わなくていいんだという、壊れた安らぎを浮かべて。


「……西へ」


 彼は呟く。最前線の死地。そこが自分の新しい居場所になるのだと、直感していた。



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