第116話 祝勝会という名の地獄
胃が雑巾みたいに絞られてる。 マジで吐きそう。いや、もう心は吐いてるかもしれない。
目の前には琥珀色のエール。湯気を立てる肉の山。そして満面の笑みで掲げられたグラスと、同期たちの顔。
「かんぱーい! ルーク、マジですげぇよお前!」
「Cランク正規騎士とか、ほんと意味わかんないですよね〜。おめでとーございますぅ」
カインの野太い声とノルンの気の抜けた祝福。ここはセカイジュ騎士団総本部の特務候補生寮談話室。普段は殺風景なこの場所が、今夜だけは飾り付けられて、ちょっとした宴会場になってる。
俺――ルーカス・ヴァレリオの特例昇進祝い。
名目は最高だ。同期の出世を祝う、暖かくて騒がしい夜。本来なら「よせよ照れるだろ」なんて言いながら酒をあおって笑ってりゃいい。
なのに。 背筋を這い上がってくるこの寒気は、なんだ。
「ほら、主役が飲まないでどうするんだい? これは私の蔵から持ってきた特級品だよ。遠慮はいらない」
すぐ目の前――テーブルの向かいで、優雅にボトルを傾けている男。
ガルドリア王国第二王子にして騎士団副団長。今回の遠征で一番体を張って、一番割を食ったはずの。
オスカー・ヴァルド・ガルドリアン。 彼が完璧な表情で笑っている。
「あ、ありがとうございます……副団長」
『……おいルーク。気味悪ぃぞ、あいつ』
肩の上で炎のヴァルが身震いした。あぐらをかいた子狐の姿だけど、尻尾の毛が逆立ってる。
『熱がねぇんだよ。怒りも、悔しさも、なんにも燃えてねぇ。炭になる前の、冷え切った灰の匂いがしやがる』
『旦那、こりゃあ重症だぜ。回路が焼き切れてショートしてらぁ』
雷のアルクが耳元でパチパチと火花を散らす。精霊たちには見えているんだ――オスカーの心が、正常な反応をしていないことが。
カインが半分空のジョッキを片手に、オスカーに絡みに行く。
「いやー! でも今回の遠征、副団長のあの盾! マジで痺れましたよ! あんなデカい亀の攻撃、普通止めらんないっす!」
「はは、よしてくれ。私はただ、頑丈さが取り柄なだけだからね」
オスカーはさらりと返した。謙遜じゃない。事務報告みたいなトーンで。
「えー? そんなことないですよぉ。あたし、オスカーさんが一番頑張ってたと思いますけどねぇ」
ノルンがソーセージを揺らしながら言う。気を使っているのか、天然なのか。
オスカーは美しい所作でグラスを回した。液体が渦を巻くのを、愛おしそうに見つめる。
「頑張った、か。……そうだね。頑張ることは誰にでもできる。兵士だって、農夫だって、誰だって汗は流せる」
ふ、と視線を上げて俺を見た。
「だが、結果を出せるのは選ばれた者だけだ。世界は過程なんて見ていない。誰が敵を倒したか、誰が奇跡を起こしたか――それだけが真実だよ」
その瞳。蒼銀色の瞳が、ガラス玉みたいに光を反射してるだけで、何も映していない気がした。
「そ、そんなことありません! 俺は……俺があの時動けたのは、オスカーさんが支えてくれたからです。あれがなきゃ、俺なんて……」
必死に言葉を継いだ。お世辞じゃない。あの連携があったから、俺は正体を隠したまま力を振るえたんだ。
でも、オスカーは困ったように眉を下げて笑った。
「買いかぶりすぎだ、ルーク。君は私がいなくても、きっと何とかしていただろう? ……そう、例えばフェデリオの力を使えばね」
足元でフェデがピクリと耳を動かした。「わふ?」と間の抜けた声。
オスカーの視線が、一瞬だけフェデに落ちる。
その瞬間――部屋の温度がごっそり数度下がった気がした。
『……おやかた。今の目、見たか?』
『ああ。……虚無ですね。憎しみすら通り越して、関心を失くしています。』
『ルーク様。……あれは、心を凍らせた者の目です。自分自身を殺して、役割という氷像になり果てた者の……』
土のオルド、風のフィオ、氷のフロス。精霊たちが次々と警鐘を鳴らす。
オスカーはすぐに視線を戻し、また完璧な笑顔を貼り付けた。
「さあ、湿っぽい話はなしだ。今日はめでたい日なんだから。……そうだ、ルーク。正規騎士になったということは、これからは単独任務も増えるだろう。君のその才能を、存分に発揮してくれ」
まるで他人事だ。昨日まで背中を預け合っていた仲間の言葉じゃない。遠い場所から、見知らぬ誰かの成功を眺めているような――決定的な断絶。
「……オスカーさんは、悔しくないんですか」
口が滑った。
カインがギョッとする。ノルンが口を開けたまま固まる。言っちゃいけないことだったかもしれない。でも、この完璧な仮面を剥がさないと、俺たちは二度と元に戻れない気がした。
オスカーの手が止まる。数秒の沈黙が永遠みたいに長く感じられた。
やがて、彼はゆっくりと首を横に振った。
「悔しい? ……なぜだい?」
心底、不思議そうに。
「月を見て、悔しがる人間がいるかい? 太陽の眩しさに、嫉妬する蝋燭がいるかい? ……次元が違うんだよ、ルーク。君と私は」
乾いた音がした気がした。何かが決定的に、パキンと割れる音。
「私は理解したんだ。私は、君という英雄が生まれる舞台の、頑丈な床板であればいいと。……それが、私の運命だったんだとね」
そう言って、彼はグラスを空にした。
違う。そんなことを言わせたいんじゃない。「ふざけんな」って怒ってほしかった。「次は負けない」って睨んでほしかった。床板? あんたはそんな、踏まれるだけの存在なんかじゃ――
『……ルーク殿。言葉は無力です』
風のフィオが俺の耳元でささやいた。いつもよりずっと沈んでいる。
『今の彼には、光の言葉はすべて毒になります。……風が告げております。彼の心の扉は、もう内側から鍵が掛けられていると』
『光が強すぎると、影は濃くなる。……わたしたちが傍にいること自体が、彼を壊しちゃってるのかもね』
俺のせいか。俺が半端に力を隠したり出したりしたせいで、彼が積み上げてきたものを全部意味のないガラクタに見せてしまったのか。
オスカーが立ち上がった。
「さて、私は少し夜風に当たってくるよ。酔いが回ったようだ」
「あっ、オスカーさん! 俺も……」
「いいや、主役はここにいなさい。カイン、ノルン、彼を頼んだよ」
制止する手つきすら優雅で、拒絶的だった。彼は一度も振り返らず扉へと向かう。
その背中には、もう昨日のような熱さはなかった。ただ冷たく、硬く、そして今にも崩れ落ちそうなほど脆い――硝子細工の背中。
「……おめでとう、ルーク」
去り際に残された言葉。それは祝福なんかじゃなかった。
お前は光の側へ行け。私は闇の側へ行く。
そんな決別宣言にしか聞こえなかった。
バタン、と扉が閉まる。残されたのは冷めかけた料理と、やり場のない空気。
カインが「……副団長、大丈夫かな」と不安げに呟く。ノルンも耳を伏せている。フェデがクゥンと小さく鳴いて、俺の膝に顎を乗せてきた。その温かさだけが、今の俺を現実に繋ぎ止めてくれている。
俺は自分の手を見つめた。Cランクの銀色のギルド証。
これが欲しかったのか? こんな、仲間を踏み台にして心を殺させてまで手に入れた評価が?
違う。絶対に違う。
でも、どうすればよかったんだ。
『……ルークさま』
水のラグがそっと頬に触れたような感覚をよこす。
『流れは、変わってしまいました。……もう、元の形には戻らないかもしれません』
わかってる。でも、戻れないなら進むしかないのか。たとえその先が、あんな顔をした友と剣を交える未来だとしても。
俺は残ったエールを一気に飲み干した。
苦い。
勝利の美酒なんて嘘だ。これは、ただの泥水みたいな味がした。
窓の外では王都の夜景が輝いている。その光の届かない場所で、今まさに何かが始まろうとしていることを――この時の俺はまだ、予感することしかできなかった。
祝勝会という名の地獄は、こうして静かに幕を下ろした。




