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第115話  特別昇進の通達

 胃が、焼けてる。緊張とかプレッシャーとか、そういう生温い言葉じゃない。熱した鉛を流し込まれたような重苦しさが、身体の芯から這い上がってくる。吐きそうだ。


 ここはガルドリア王国の王都、セカイジュ騎士団総本部の大講堂。高い天井。整列した数百人の騎士たちの熱気と、張り詰めた沈黙。息苦しいほどの圧迫感が、空気を潰してる。


 正面の演台に、総団長アウストレア・ラインハルトが立っている。巨躯から放たれる威圧感だけで、肌が粟立つ。  

 今日はエルフのルナヘルム遠征における論功行賞の場——本来なら誇らしいはずの式典だが、俺ことルーカス・ヴァレリオは、候補生列の端でひたすらに気配を殺していた。

 石になれ。空気になれ。俺はただの背景だ。


『……無駄な抵抗だぜ、ルーク』  


 髪の隙間で、炎のヴァルが呆れたように囁く。


『お前、今この場で一番"視線"を集めてる自覚ねぇのかよ』

「しっ、黙ってろ……頼むから」  


 唇を動かさずに返す。

 昨日の報告で、オスカー副団長がすべてを「自分の指揮のおかげ」として報告してくれたはずだ。ならば、俺への評価は「よく頑張った新人」程度で収まるはず——Dランクのまま、少しばかりの報奨金が出ればそれでいい。


 アウストレアの重厚な声が、講堂の空気を震わせた。 「——今回の遠征における功績を鑑み、以下の者に特例昇進を命じる!」


 誰かが、ごくりと喉を鳴らす音。静寂の中でやけに大きく響く。


「候補生、カイン・ヘルダート! その勇猛さと著しい成長を認め、Dランク上位への昇格とする!」

「は、はいッ!!」  


 隣でカインが裏返った声で返事をした。顔を真っ赤にして、けれど誇らしげに胸を張る。よかったな、カイン。お前の泥臭い努力は、ちゃんと届いていたんだ。


「候補生、ノルン・ルウェリア! 的確な支援行動を評価し、同じくDランク上位とする!」

「ふあ……はい、ありがとうございますぅ」  


 ノルンも相変わらずの調子だが、尻尾が嬉しそうに揺れている。

 順当だ。ここまでは、平和な表彰式だった——努力が報われるだけの優しい世界。


「そして——」  


 総団長の鋭い眼光が動いた。  

 その焦点が、一直線に俺を射抜く。

 心臓が、嫌な音を立てた。


「特務候補生、ルーカス・ヴァレリオ!」  


 名前を、呼ばれた。


「前へ!」


 数千人の視線が、一斉に俺に集中する。視線に質量があるとしたら、俺は今頃ミンチだろう。  

 鉛のように重い足を引きずり、演台の前へ。横に控えるフェデが、場の空気を読まずに嬉しそうに尻尾を振っている——唯一の救いであり、同時に最大の悪目立ち要因でもあった。


 アウストレアが見下ろしてくる。雷精霊を宿した瞳が、俺の底まで見透かすように細められた。


「貴様の働きは、もはや候補生の域に留まるものではない。よって——特例中の特例として、本日付けで『Cランク正規騎士』への飛び級昇格を命じる!」


 ……は?

 講堂が一瞬、真空になったかのように静まり返った。

 その直後、爆発的な動揺が広がる。


「Cランク!? いきなり正規騎士かよ!」

「入団してまだ数ヶ月だぞ!?」

「いや、だが……あの霊獣を従えているんだ、納得できなくもないが……」


 ざわめきが波紋のように広がる中、俺は呆然と立ち尽くしていた。DからC。たった一つのランク差——だがこの世界においてそれは「見習い」と「一人前のプロ」を隔てる巨大な壁だ。普通なら数年、あるいは一生かかっても越えられない者もいる。

 それを、一足飛びに?


「お、お待ちください総団長! 俺はまだ——」

「拒否権はない」  


 アウストレアは、問答無用で切り捨てた。


「力ある者が、相応の立場に就く。それが組織の理だ。……それとも貴様、いつまで"お客さん"気分でいるつもりだ?」


 反論の言葉が喉で詰まる。フェデの食費という弱みを握られている以上、強く出られない。


『諦めな、旦那。もう年貢の納め時ってやつだ』  


 雷のアルクが楽しげに笑う。


『おやかた、出世はめでたいことじゃ。腹を括るしかないのう』  


 土のオルドまでそんなことを言う——精霊たちは、この状況を楽しんでいる節さえある。


 俺はガックリと項垂れながら、「はっ……謹んで、お受けします」と絞り出した。


 拍手。割れんばかりの拍手が巻き起こる。カインが満面の笑みで親指を立て、ノルンもパチパチと手を叩いている。

 けれど、俺の背筋は寒気で粟立っていた。


 おかしい。一番称えられるべき人間が、まだ呼ばれていない。

 俺の視線は、無意識に演台の脇に控えている人物——オスカー副団長に向いた。  

 彼は、完璧な直立姿勢を保っていた。微動だにしていない。表情は穏やかで、部下の栄達を喜ぶ理想の上官の顔。


 アウストレアが、再び口を開く。


「——以上である」


 え?  終わり?

 俺は耳を疑った。講堂の空気も、一瞬だけ妙な淀み方をした気がした。

 オスカーへの言葉は?  あの絶望的な戦場で、自らの命を削って盾になり、部隊を一人の死者も出さずに帰還させた指揮官への評価は?


 アウストレアが、思い出したように付け加えた。


「あー、それと。オスカー副団長」

「はッ」  


 オスカーが一歩踏み出す。その所作の美しさといったら、芸術品の域だ。


「今回の遠征、ご苦労だった。大きな損害もなく任務を完遂した手腕、流石はガルドリアの盾である。……引き続き、副団長としての責務に励むように」

「——は。ありがたきお言葉」


 それだけ。昇進も、特別な褒賞も、新たな権限の付与も、なにもない。  

「現状維持」——それが、命を懸けた彼への報酬だった。


『……残酷ですわね』  


 風のフィオが、静かに呟く。


『言葉にされない分、余計に。まるで「お前はそこに飾っておくだけでいい」と言われているよう』 『ああ。中身なんざ見てねぇんだな』  


 ヴァルの声には、珍しく怒りが滲んでいた。

 総団長の言葉は、表向きは労いだが——その裏にある事実はあまりに残酷だ。


「王族枠の飾りだから、失敗しなけりゃそれでいい」

 

 そんな評価が、透けて見えてしまう。

 オスカーは、深く頭を下げた。その顔が見えない角度になった一瞬、彼の拳が白くなるほど強く握りしめられているのを、俺の目は捉えてしまった。


 解散の号令がかかる。どっと空気が緩み、騎士たちが三々五々、談笑しながら出口へ向かう。話題の中心はもちろん、異例の出世を果たした俺のこと。


「やっぱすげぇな、あいつ!」

「正規騎士かよ、一気に抜かれたな」


 そんな声の渦の中で、オスカーだけが、ぽつんと取り残されているように見えた——いや、彼自身が周囲との間に見えない壁を作り、その輪に入ろうとしていないのだ。


「オスカーさん!」  


 俺は人混みをかき分けて、彼の元へ走った。カインも一緒だ。「副団長! 俺、やりましたよ!」と、無邪気に報告しようとしてる。

 オスカーが足を止めて、ゆっくりと振り返る。


 その顔を見て、俺は息を呑んだ。

 笑っていた。完璧に。一点の曇りもなく。


「おめでとう、二人とも。鼻が高いよ」  


 声も、優しい。トゲなんて一つもない。嫉妬の色も、悔しさの欠片も見当たらない。

 それが、どうしようもなく恐ろしかった。


「ルーク、Cランク昇格、本当におめでとう。君の才能なら当然の結果だ」  


 その声には、負の感情が一切混じっていなかった。

 あまりにも、何もなさすぎた。透明な水のように味がしない——感情という不純物が極限まで濾過された、蒸留水のような言葉。


『……なんだぁあのツラ?』  


 雷のアルクが、戸惑ったように漏らす。


『ビリビリ来ねぇぞ。電気が通ってねぇみたいだ』

『心が死んでますね』  


 氷のフロスが容赦なく断じる。


『自分の感情を氷漬けにして、その上に笑顔の絵を描いている。……不気味ですわ』


 ああ、そうだ。不気味なんだ。人間なら、そこは怒っていい場所だ。「俺だって頑張ったのに」と、愚痴のひとつもこぼしていいはずだ。なのに彼は、完璧に祝福してみせた——俺という、自分のプライドを粉々にした相手に対して。


「副団長、あの……」  


 何か言わなきゃいけない気がして口を開くが、言葉が出てこない。

 何を言う? 「残念でしたね」? 「次はありますよ」?  どれもこれも、彼にとっては侮辱にしかならない。Cランクに飛び級した俺が何を言っても、それは「持てる者の傲慢な慰め」にしかならないのだ。


「私は執務があるから失礼するよ。……ああ、そうだ」  


 オスカーは立ち去りかけて、ふと思い出したように振り返った。


「今夜、寮で君の祝勝会をやろう。部下の手柄を祝うのも、副団長の務めだからね」


 務め。またその言葉か。


「……楽しみにしてます」  


 そう返すのが精一杯だった。

 オスカーは満足げに頷くと、カツカツと規則正しい足音を響かせて去っていった。その背中が、遠近感を狂わせるほど遠く見えた。

 物理的には数メートルしか離れていないのに、俺と彼の間には、断崖絶壁のような深い溝が横たわっている気がした。


『おやかた……』  


 土のオルドが、低く呻くように言った。


『大地が割れるときはな、音もなくヒビが入るもんじゃ。……今のあやつは、まさにそれじゃよ』

「……ああ」  


 俺は拳を握りしめた。爪が食い込んで痛い。

 祝勝会。  

 本来なら仲間と喜び合うはずのその言葉が、まるで処刑台への招待状のように響く。


 俺が欲しかったのはスローライフで、こんな風に誰かを追い詰めて手に入れた地位なんかじゃなかったはずなのに——

 窓の外では、何も知らない王都の風が、能天気に青空を吹き抜けていた。その眩しさが、今の俺にはひどく残酷に思えた。


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