第114話 王都帰還と報告
鉄の匂いがする。 王都ヴァルドンガルドの城門をくぐった瞬間、鼻の奥を刺したのは「ああ帰ってきた」なんて安っぽい安堵じゃなかった。冷たくて、乾いた砂埃と錆。土の匂いすらしない。
本来ならここで肩の荷を下ろして「やれやれ」とか言う場面なんだろう。物語なら。 けど現実は違う。俺の体は石像みたいに強張ってた。エリシアも、カインたちも。誰も口を開かない。見えない鎖で喉を締められてるみたいに、重苦しい沈黙だけが俺たちを縛り付けてる。
原因は一つ――隊列の先頭を行く男。オスカー副団長の背中が、あまりにも「完璧」すぎた。
カツ、カツ、カツ。 石畳を叩く蹄の音が不気味なほど一定のリズムで鼓膜を揺らす。
考えてもみろよ。エルフの森からここまで強行軍だ。まともに寝てない、泥にまみれた。体力的にはとっくに限界を超えてるはずなのに。 なのに彼の背筋ときたら、どうだ。定規で引いたみたいにピンと伸びてやがる。揺れるマントの角度さえ、どこかの芸術家が計算したみたいに隙がない。人間味がなさすぎて、逆に薄ら寒いんだよ。
沿道には騎士団の帰還を聞きつけた市民や非番の兵士たちが人垣を作り始めてた。
「おい見ろ、騎士団が戻ったぞ!」
「勇者エリシア様だ! ご無事で何よりだ!」
「隣にいるのは……噂の新人か? ほら、黒髪の」
わっ、と歓声が波のように押し寄せる。俺とフェデ、それにエリシアに向けられる熱っぽい視線。英雄を称える、混じりけのない憧憬。
でも、先頭のオスカーには? 誰も彼を見ていないわけじゃない――見てる。ただし「いつもの王都の風景」として。街路樹や石壁と同じだ。王都の守り神である副団長が、今日も無事に任務を終えて帰ってきた。それだけのこととして、視線は素通りしていく。
彼が森の奥で泥水をすすって、骨がきしむ音を聞きながら絶望的な質量を受け止めたことなんて。この陽気な拍手の音のどこにも、一粒だって混じっちゃいない。
『……ルーク』
肩の上で炎のヴァルが毛を逆立てて唸った。
『気持ち悪りぃな。周りはこんなに熱気があるのに、あの王子の周りだけ空気が死んでやがる』
『……鏡ですね』
襟元から水のラグが顔を出す。
『何も映していない、虚ろな鏡です。感情の水面が凍りついて、波紋ひとつ起きない。……あんな状態で立っていられるなんて、不気味な生き物ですね』
胃の腑がずしりと重くなる。 オスカーは馬上で優雅に手を振ってた。計算され尽くした完璧な角度の笑顔。民衆が求める「頼れる副団長」の仮面。
でも俺には、それが精巧な能面に見えて仕方がない。仮面の下では心がドロドロに溶けて流れ出してるのに、表面だけを必死に糊塗して形を保ってる――そんな危うい均衡を感じてしまう。
***
セカイジュ騎士団総本部。その最奥に鎮座する総団長執務室の扉は、いつ見ても威圧感の塊だ。分厚いオーク材に無骨な鉄の補強。ここを開けるときはいつだって胃がキリキリと痛み出す。
「入れ」
短く、重い声。
覚悟を決めて中に入ると、書類の山に埋もれかけた執務机の向こうで総団長アウストレア・ラインハルトが鋭い眼光を突き刺してきた。白髪交じりの髪に深く刻まれた眉間の皺。そして雷精霊の加護を宿した瞳。座ってるだけで空気がビリビリ震える、「動かない山」みたいな男だ。
オスカーが一歩進み出て、カカッと音を立てて完璧な敬礼をする。
「エルフ領調査隊、只今帰還いたしました」
声に淀みがない。報告書を差し出す手つきも恐ろしいほど洗練されてる。
「報告を聞こう。エルフの森で何があった?」
「はッ。……森の深部にて守護樹の暴走を確認。鎮圧いたしました」
オスカーの声は、感情を排した自動人形のように正確だった。そして一番言いにくいであろう最悪の報告を、眉一つ動かさずに続ける。
「原因は地下霊脈への人為的な干渉です。現地には魔獣の骨と魔素結晶で組み上げられた大規模な『魔素供給パイプ』が敷設されておりました」
アウストレアの手が、ピクリと止まった。
「……パイプ、だと?」
「はい。構造的特徴は、かつて騎士団を壊滅させた『第七区』の痕跡と極めて酷似しています。我々はこれを破壊し供給を断ちましたが、敵対勢力の規模は等級Ⅳ相当。……魔王軍による組織的な侵略準備と推測されます」
第七区。 その単語が出た瞬間、部屋の空気が凍りついた。総団長にとっての古傷であり、騎士団最大の禁忌。唯一の生還者であるアウストレアの目が雷光のように鋭く細められる。
「……そうか。奴らが、また」
数秒の、窒息しそうな沈黙。 やがてアウストレアは大きく息を吐き、瞬時に冷徹な指揮官の顔に戻る。
「守護樹の鎮圧はどうした? 魔素漬けになった巨木だ、生半可な戦力では落とせまい」
「はッ。……勇者エリシア殿の聖剣による一撃が決定的でした。また、候補生ルーカス・ヴァレリオの規格外の霊素による支援が功を奏しました」
そこで一瞬、言葉が切れた。 オスカーは俺の方を見なかった。視線をアウストレアに固定したまま、さも事務的なことのように続ける。
「……私の部隊は、彼らが攻撃に専念できるよう前線の維持と盾役に徹しました。特筆すべき戦果はありません」
は? 俺は思わず顔を上げちまった。カインもノルンも驚いて目を見開いてる。
徹しました、じゃねーだろ。あいつが死ぬ気で止めたから勝てたんだぞ? なんで自分をただの背景扱いしてんだよ。
俺は口を開きかけた。
「違います、オスカーさんが支えてくれたから」と叫ぼうとした。 でも、オスカーの横顔が、それを拒絶していた。
余計なことを言うな。
その無言の圧力が凄まじい。完璧に整った表情筋の裏側で「私は道具でいい」って叫んでるのが聞こえる気がした。
アウストレア総団長が、じろりと俺たちを見た。
「……副団長。貴官の消耗が激しいようだが?」
「部下を守る盾としての責務を果たしたまでです。損耗は想定内、任務に支障はありません」
即答だ。迷いも、誇りも、感情の色が一切ない。
アウストレアは数秒の沈黙の後、ふぅ、と短く息を吐いた。
「……そうか。オスカー、貴様の『盾』としての技量は理解している。だが今回の評価点はそこではない」
総団長の言葉は、残酷なほど「指揮官」としてのそれだった。
「第七区級の異常事態を前に冷静な撤退判断を下したこと。そして何より――規格外の劇薬を現場で暴発させずに使いこなした。……その手腕を評価する」
え。そこ? そこなのかよ。
オスカーの顔から、さらに血の気が引いていくのが見えた。「盾としての技量」はスルーされて「猛獣使い」としての管理能力だけを褒められた。彼が命を削って守ったあの瞬間は、上層部から見れば「ルークをうまく使った結果」でしかないってことかよ。
「……はっ。光栄です」
オスカーは、綺麗に笑った。 その笑顔が、俺には能面がヒビ割れる寸前の、音のない悲鳴に見えた。
***
廊下に出た瞬間、冷たい風が吹き抜けた気がした。 カインとノルンは報告のために別の部署へ向かった。長い石造りの廊下に、俺とオスカー、二人きりだ。
「……あの、副団長」
耐えきれず、声をかける。
「あんな報告でよかったんですか? あれじゃあなたがただ突っ立ってただけみたいじゃないですか」
オスカーは歩みを止めず、前を向いたまま答える。
「事実だろ」
声が、乾いている。砂漠の砂みたいに、何もかも吸い込んでしまう乾き方だ。
「エルフたちは私を見ていなかった。民衆もそうだ。……そして実際、トドメを刺したのは君と勇者だ。私が何をしたところで結果は変わらない」
「そんなことないです! あの時あなたが――」
「ルーク」
ぴたり、と足が止まる。 振り返ったオスカーの瞳は深海みたいに暗く、光が届かない場所の色をしていた。
「慰めはよせ。……惨めになるだけだ」
拒絶。分厚い氷の壁が、ドスンと目の前に落とされたみたいだった。かける言葉が見つからない。
「君のおかげで経歴に傷がつかずに済んだよ。……感謝している」
唇の端だけで笑う、歪な感謝。
「私の部隊の損耗率はゼロだ。指揮官としては満点だろう? ……ああそうだ。君には特別昇進の話が出ているという噂だ」
「え……?」
「Cランク正規騎士への特例措置だとか。……おめでとう。異例の出世だ」
オスカーの声は、まるで他人事みたいに淡々としていた。天気の話でもするみたいに、俺たちの栄光を口にする。
「君ならすぐに私など追い越していくだろうな」
それだけ言うと、また歩き出した。 カツ、カツ、カツ。 その足音のリズムが狂った時計の針みたいに、俺の心臓を嫌な感じで叩く。
その時、廊下の窓から外の喧騒が風に乗って流れ込んできた。広場の方だ。人だかりができているのが見える。
陽気なリュートの音色。吟遊詩人だ。耳聡い連中め。
「♪聞けや歌わん、東の森の奇跡~! 黒き災厄、天を突く魔樹! されど現れしは、光の乙女~! 勇者エリシア、聖剣の一閃! そして傍らに立つは、黒髪の異端児~! 精霊に愛されし若き英雄、その名はルーク!」
わっと歓声が上がる。仕事が早すぎる。もう歌になってんのかよ。
俺は窓枠に手をかけ、耳を澄ませた。この後だろ。一番大事なパートは。あの鉄壁の盾が、炎の結界が、みんなを守り抜いたくだりはどうなってるんだよ。
「♪二人の英雄、森を救いて~ エルフの民も涙し崇める~ ああ、ガルドリアの未来は明るい~ 栄光あれ、光の勇者と精霊の愛し子に~!」
ジャンッ! とリュートがかき鳴らされて、歌は終わった。
……終わり? 嘘だろ。
オスカーの名前は? 副団長の活躍は? 一言も、ない。歌詞の端っこにも、韻を踏むための添え物としても、出てこなかった。
民衆は知る由もない。あの勝利の裏にどれだけの泥臭い犠牲があったかを。彼らにとって必要なのは、わかりやすくて華やかな「英雄」だけなんだ。地味で頑丈な盾なんて、物語の邪魔にしかならないってことかよ。
『残酷なもんですわね、人の世の噂というのは』 氷のフロスが俺の襟元に隠れながら震える声で言う。 『派手な結果だけが蜜のように広まり、地味な過程は泥と一緒に沈む。……あの王子、ただでさえプライドが高いのに、こんな仕打ちは毒になりますよ』
ふと、人混みの向こうを見慣れたマントが横切るのが見えた。 オスカーだ。
彼は立ち止まることもなく、詩人の歌声に耳を傾けることもなく、ただ影のように通り過ぎていく。その横顔にはもう感情の色すらなかった。まるで自分がその物語の登場人物ですらないことを、受け入れてしまったみたいに。
その時――風がマントをめくった一瞬、彼がポケットの中で何かを強く握りしめているのが見えた。 黒い、光沢のある石。
『……おやかた』
土のオルドが強張った声で呟く。
『今の石……嫌な振動をしておったぞ。ただの石ころじゃあない。もっとこう……底なしの穴みたいな』
ぞくり、と悪寒が走る。 まさかな。あいつが、あんな不吉なもんを持ってるはずがない。
俺は頭を振って嫌な想像を追い払おうとした。 でも、遠ざかる足音が――誰かの助けを求める声みたいに聞こえてならなかった。




