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第112話  第七区の予兆

 森の空気って、もっとこう――小鳥がさえずって、吸い込んだら寿命が延びそうなもんだろう。 なのに今は、湿った雑巾を顔に押し付けられてるみたいだ。重い。息苦しい。 理由はわかってる。目の前を歩く男の背中が、恐ろしく冷たいからだ。


「……候補生。隊列が乱れている」


 オスカー副団長の声。感情というノイズが、一切ない。 ガラスの表面を指でなぞったときみたいな、つるっとした無機質な響き。昨晩、あの川辺で俺に向けられた絶望とか怒りとか――そういう生々しいものは全部どこかへ消えて、そこには完璧に塗装された「理想の上官」だけが立っている。

 それが逆に、痛々しいんだよな。 心が壊れたからこそ、余計な感情が抜け落ちて「機能」だけが残った。そんな感じがして。


『……臭ぇな』


 肩の上で、赤い子狐姿のヴァルが鼻にしわを寄せた。


『焦げ臭いってんじゃねぇ。もっとこう、腐った泥を煮詰めたみてぇな……あーもう、気に食わねぇ匂いだ!』

『静かに。響きますよ』


 水色の髪を揺らす人魚姿のラグが、冷静にたしなめる。でも、彼女の表情も硬い。


『ですが……ルークさま。この水の気配、異常です。流れが淀んでいるのではありません。流れそのものが"逆流"させられています』

「逆流?」


 俺が小声で聞き返すと、今度は頭の上に乗っかっていた緑の小鳥、フィオが翼を広げた。


『風も死んでおります、我が王。ここには自然な空気の循環がありません。まるで、何者かが無理やり呼吸を止めて、別の管を繋いだかのような……』


 背筋が粟立つ。 俺たちは今、エルフの案内で《ルナヘルム》のさらに奥、地下深くに広がる古い洞窟エリアへ向かっている。昨日の守護樹暴走事件――あれは単なる自然現象なんかじゃなかった。倒した守護樹の根元から見つかったのは、地中深くへと続く不自然な空洞。そこから漏れ出す瘴気が、明らかに「意図的な流れ」を持っていたから。


 さらに奥へ進むと、エルフたちが足を止めた。


「ここから先は……我々も立ち入ったことのない禁域です」


 案内役の長老の声が震えている。 無理もない。壁面には血管みたいに脈打つ黒紫色の筋がびっしりと走っていて、そこから微かに「ドクン、ドクン」という低い音が聞こえてくるんだから。


 オスカーが片手を上げて部隊を止めた。


「総員、防御態勢。照明弾用意」


 指示と同時に、カインたち同期生が素早く動く。オスカーの指揮は的確だ。無駄がない。でも、そこには仲間を鼓舞するような熱量が一欠片もない。ただ、タスクを処理しているだけ。 照明弾が放たれ、闇が弾ける。 照らし出された光景を見て――俺は息を呑んだ。


 パイプだった。 いや、金属とかプラスチックとか、そういう文明的な素材じゃない。魔物の骨や、硬化した植物の根、そして黒く結晶化した魔素を無理やり繋ぎ合わせて作られた、おぞましい「管」だ。

 直径はゆうに数メートル。それが、地底湖の底から這い上がる大蛇みたいに、何本も、何本も、暗闇の奥へと伸びている。管の表面はヌメヌメと光り、中を何かが流れていくのが透けて見えた。 ドロリとした、濃密な闇。 それが地下から吸い上げられ、あるいは逆に森へと送り込まれている。


『おやかた……こりゃあ、いかんわ』


 土精霊のオルドが、いつになく真剣な低い声で唸った。


『これは地脈じゃねぇ。寄生虫じゃ。大地の血管に針を刺して、毒を流し込んどる。……自然にできたもんじゃねぇぞ。明らかに"設計"されとる』


 設計。 その単語が、一番恐ろしかった。 魔素ってのは、感情の澱が溜まってできるヘドロみたいなもんだと思ってた。でも、これは違う。誰かが、明確な意思を持って、このシステムを作り上げたんだ。


「……第七区」


 不意に、エリシアが震える声で呟いた。


「これ、記録で読んだことがあるわ。アウストレア様が生き残った、あの『第七区崩壊事件』の現場に残されていた痕跡と……似てる」


 俺はハッとしてパイプを見上げる。 十数年前、騎士団の精鋭を壊滅させ、総団長ただ一人を生還させたトラウマ級の事件。その元凶と同じものが、今ここで動いている? このパイプは、単に森を汚染するためのものじゃない。もっと巨大な、大陸規模の「何か」を動かすための、血管の一部なんじゃないか。 その先にあるのは――西。ガルドリア王国のさらに西。魔王領の方角だ。


『……氷が溶けるほどの悪意ですね』


 氷のフロスが、俺の襟元で身を縮める。


『これは侵略です、ルーク様。土地を奪うのではありません。この土地の"命の仕組み"そのものを、書き換えようとしています』


 ――これは、戦争だ。 剣を持って兵隊がぶつかり合う前の、もっと陰湿で、致命的な侵略行為。俺たちがのんきに「森の異変を解決しました!」なんて喜んでる裏で、敵は地面の下にこんな巨大な毒のラインを敷設していたんだ。 背筋に冷たい汗が伝う。 スローライフなんて夢のまた夢。これを見ちまった以上、もう後戻りはできない。


 俺が呆然としていると、カツ、カツ、と硬い足音が近づいてきた。 オスカーだ。 彼はその異様な光景を前にしても、眉一つ動かしていなかった。まるで、書類上の不備を見つけた役人みたいに淡々としている。


「……状況は把握した」


 彼は手帳を取り出し、サラサラとペンを走らせる。


「自然災害ではない。人為的、あるいは魔王軍による戦略的な魔素供給ラインの敷設。規模は等級Ⅳ相当。我々の手には負えん」


 パタン、と手帳を閉じる音。


「撤収だ。この事実は、直ちに王都へ報告する必要がある」

「えっ、でも……!」


 カインが声を上げる。

「副団長! これを放置して帰るんですか!? 今すぐ壊さないと、森が……!」

「壊してどうする?」


 オスカーは冷たく言い放った。視線すらカインに向けない。


「この規模だ。下手に刺激すれば、溜まっている魔素が爆発して森ごと吹き飛ぶぞ。それに、これだけの物資を運び込み、設置した『施工主』が近くにいない保証はない」


 正論だ。ぐうの音も出ないほど、正しい。 でも、あまりにも冷たい。かつての彼なら、もっと悔しそうにしたはずだ。「くそっ、今すぐ叩き壊したいが……!」って、感情を滲ませながら撤退を選んだはずだ。

 今の彼には、その葛藤がない。 ただ、最適解を出力するだけの機械。


「……総員、撤退準備。痕跡を残すな。気取られずに離脱する」


 オスカーは踵を返した。 俺はその背中を見つめる。 ねえ、あんた今、何を考えてるんだ? 王都へ戻るってことは、この功績もまた俺たちのものになるってことだぞ。あんたはまた、「正しい判断をした指揮官」として、報告書にサインするだけの役回りになる。

 それでいいのかよ。 言いたかった言葉は、喉の奥でつかえて出てこない。俺が何を言っても、きっと今の彼には「持てる者の戯言」にしか聞こえないから。


 帰りの足取りは重かった。 行きよりもずっと、空気が悪くなっている気がした。地下の瘴気のせいだけじゃない。 エルフたちが俺とエリシアを英雄扱いして見送る中、オスカーは誰とも目を合わせず、さっさと馬車の手配を進めていた。


 俺たちは急がなきゃいけない。 この森の下を流れる毒が、やがて世界樹そのものへ届く前に。王都ヴァルドンガルドへ戻り、アウストレア総団長へこの戦慄すべき事実を伝えなきゃならない。


 だけど。 俺の胸にある不安は、それだけじゃなかった。 王都への道中、この狭い馬車の中、俺たちはあの「完璧な副団長」と向き合い続けなきゃならない。 壊れてしまった友情の破片を、拾うこともできないまま。


 嵐が来る。 地下のパイプの中を流れるドロドロした闇よりも、もっと深くて暗い嵐が、俺たちのすぐ側まで迫っている気がした。


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