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第111話  オスカーの問い

 夜の森は静かだ。

 エルフの都からは、まだ宴の音が風に乗ってくる。竪琴、笑い声、精霊を称える歌。あいつらにとっちゃ歴史的な勝利の夜で、語り継ぐべき奇跡なんだろう。でも俺は、胃の底に鉛を流し込まれたみたいに息苦しかった。


 祝宴の席を、トイレに行くふりで抜けた。背中にかかる視線が痛い。「精霊王の愛し子」だの「星の子」だの、勝手な名前をつけて拝んでくるエルフたちの熱気——あれにこれ以上さらされていたら、俺の精神が持たない。  

 それに何より。あの輪の中に、一番称えられるべき男がいなかった。


 都から離れた騎士団の野営地。そっちの空気は浮かれた様子とは真逆で、重くて沈んでる。負傷した兵士の呻き声と、それを治療する衛生兵の囁き声だけが暗い森に響いていた。  

 俺は足音を殺して、野営地のさらに奥、人目を避けるような川辺の岩陰へ向かう。フェデが足元で「くぅん」と小さく鳴いて、俺の太ももに鼻先を押し付けてきた。こいつもわかってる。俺が今、誰を探しているのか。


『……ルーク』  


 肩の上で、炎のヴァルが低く唸る。いつもなら「へっ、人間風情が」とか悪態をつくくせに、今は妙に声が硬い。


『やめとけ。今は、近づかねぇほうがいい』

『おやかた、土が泣いとるわ。……こいつの心、乾ききってヒビだらけじゃ』  


 足元のオルドも、悲しそうに体を揺らしている。

 精霊たちが警戒してる。この先にいる男から漂う、炭がくすぶるような危うい匂いに。  

 わかってるよ。こんな時に、俺みたいなのが顔を出しても神経を逆撫でするだけだってことくらい。

   

 でもさ、見捨てられるかよ。昼間、あんな完璧な連携を見せたんだ。俺が風で崩して、こいつが身体を張って支えて、エリシアが決めた。あの一瞬だけは——間違いなく「仲間」だったはずだろ。


 月明かりの下、銀色の塊がぼんやり光ってる。オスカーだ。岩に腰を下ろして、手にした布で愛剣を磨いてる。シュッ、シュッ、と。規則正しい、機械みたいな音が水の流れに混じる。

 鎧は脱いでない。あの泥だらけで、あちこち凹んだ副団長の鎧のまま。兜だけを横に置いて、乱れた金茶の髪が汗で額に張り付いてる。悔しくなるくらい、絵になる男だった。  

 だけど、その瞳には光がない。磨いている剣の刀身に映る自分を見ているようで——たぶん、何も見ていない。


 俺は、落ちていた小枝を踏みしめた。パキリ、と乾いた音が鳴る。剣を磨く手が、ピタリと止まった。


「……誰だ」


 鋭い声。殺気すら混じってる。オスカーが振り返り、俺の姿を認めると、その瞬間に空気が変わった。  殺気が消えて、仮面が張り付く。王城で何度も見た、あの完璧で隙のない「第二王子」の顔。


「ああ、ルーク候補生か。どうした? 主役がこんな陰気な場所に来て」


 口調は穏やかだ。でも目が笑ってない。ガラス玉みたいに光を弾いてる。


「……宴会、苦手なんで。副団長こそ、ここで何してるんですか」

「道具の手入れだ。明日もまた、何があるかわからないからな」


 オスカーは視線を剣に戻して、また磨き始めた。もう十分にピカピカなのに、まるで汚れがこびりついているみたいに執拗に。  

 俺はどう切り出すべきか迷って、隣の岩に腰かけた。


「……今日のあれ、すごかったです」


 できるだけ素直な言葉を選んだ。


「あの守護樹の一撃、まともに受け止めるなんて。俺には絶対無理です。やっぱり、場数が違うっていうか……ガルドリアの盾って呼ばれるだけあるなって」


 お世辞じゃない。本心だ。あの一撃を受け止めきれる人間なんて、この大陸に何人もいない。霊核スコアとか、スキルの性能とか、そういう数値じゃ測れない「意地」みたいなもんがなきゃ——あそこで足を踏ん張ることなんてできない。


 オスカーの手が、また止まった。

 しばらくの沈黙。川の流れる音だけが、やけに大きく聞こえる。


「……皮肉に聞こえるな」


 ポツリと、オスカーが言った。


「え?」

「私が命を削って、プライドも捨てて、泥水をすすってようやく耐えた一撃を……君の『犬』は、前足ひとつで無効化したじゃないか」


 ハッとして、俺はフェデを見た。前回の鉱山でのこと。フェデが本気を出して、溶岩も魔獣も一瞬で鎮めた、あの光景。オスカーは、それと今日の自分の無力さを比べてるんだ。  

 オスカーは剣を鞘に納めて、ゆっくりと顔を上げた。その瞳は暗い。月明かりすら吸い込んでしまいそうな、底のない井戸みたいだ。


「なぁ、ルーク」


 名前を呼ばれただけなのに、心臓が冷たい手で掴まれたみたいに縮み上がった。


「教えてくれ。……君は、何なんだ?」


 問いかけは、静かだった。怒鳴るわけでも、泣くわけでもない。ただ、純粋な疑問。理解できない現象を前にした子供みたいな、残酷なほどの「なぜ」。


「私は、王族として生まれた。人の三倍努力した。剣を振り、盾を構え、戦術書を読み漁った。兄上に追いつきたくて、エリシアの隣に立ちたくて……すべてを犠牲にしてきたつもりだ」


 オスカーの声が、少しだけ震える。彼の手が伸びてきて、俺の肩を掴んだ。革手袋越しでもわかる——力が入りすぎて、指が震えてる。


「なのに、なぜだ? なぜ、君なんだ?」

「……オスカー、さん」

「君は、新人の冒険者だったはずだ。騎士の訓練も受けていない。魔法の理論も知らない。……なのに、なぜ精霊は君に集まる? なぜ霊獣は君にひざまずく? なぜ、石碑は君にだけ反応した?」


 じり、と。見えない圧力が俺を押し潰そうとしてくる。 彼の後ろに、薄い靄が見える気がした。黒くて、粘り気のある靄。それがオスカーの背中から這い上がって、耳元で何かを囁いているような——


『ルーク、答えちゃならねぇ』  


 雷のアルクが、俺の髪を引っ張って警告してくる。


『こいつは今、ギリギリだ。変なこと言ったら、糸が切れるぞ』


 わかってる。でも、なんて言えばいい?  


「実は俺、精霊王の生まれ変わりなんです」。  


 言えるわけない。言ったら、こいつの努力をさらに踏みにじることになる。「生まれつきの格が違う」なんて、一番言っちゃいけない言葉だ。  

 じゃあ、なんて言う? 「隠れて死ぬほど努力しました」?  嘘だ。こいつの目は誤魔化せない。俺の筋肉の付き方、手のマメの少なさ、そういうのを全部見てる。俺が「死ぬほどの努力」なんてしてないことくらい——こいつにはバレてる。  

 なら。俺に言える「真実」は、ひとつしかない。


「……たまたま、ですよ」


 視線を逸らしながら言った。自分でも驚くくらい、情けない声が出た。


「運が、よかっただけです。たまたま、霊素の器が大きかっただけで……。俺自身には、誇れるもんなんて何もない。全部、ただの偶然なんです」


 それが、俺なりの精一杯の謙遜だった。俺自身はすごくない。周りがすごいだけだ。だから、あんたが劣っているわけじゃない——そう言いたかった。

 でも。オスカーの顔から、表情が消えた。さっきまでの苦悩も、嫉妬も、焦燥も。全部がフッと消えて、真っ白な紙みたいな顔になった。


「……そうか」


 乾いた笑い声が、喉の奥から漏れる。


「運か」


 カチャン、と音がした。オスカーが剣を地面に置いた音だ。彼は立ち上がった。その動作は、糸で吊られた人形みたいに不自然で——でも恐ろしいほど優雅だった。


「はは……そうだな。運なら、仕方ない」


 違う。そうじゃない。俺は、そんなつもりで——  

 何か言おうとした俺の言葉を、オスカーの手が遮った。拒絶の手。彼は俺を見下ろしていた。その瞳はもう俺を見ていない。俺の後ろにある「理不尽な世界」そのものを睨んでいるみたいだった。


「私が人生をかけて積み上げた血と汗は……君の『たまたま』にすら、届かないということか」


 言葉の最後が、震えていた。それは怒りじゃなかった。絶望だ。底が見えないほどの、深い絶望。


「……もういい。休んでくれ、候補生」


 オスカーは背を向けた。その背中は、昼間に見た頼もしい盾の背中じゃなかった。冷たくて、硬くて、誰も寄せ付けない——氷の城壁みたいな背中。


 俺は動けなかった。追いかけて、肩を掴んで、「違う」って言えばよかったのか?  

 でも、何を否定する?  俺が特別じゃないってこと? それとも、彼の努力が報われるってこと? どっちも嘘になる。俺には、彼にかける言葉が何もなかった。持てる者が持たざる者に何を言っても、それは全部「あざけり」にしかならないって——痛いほどわかっちまったから。


 遠ざかる銀色の背中が、森の闇に溶けていく。その影が、一瞬だけ。人の形じゃない、もっとおぞましい何かに見えたのは——きっと、月明かりのせいだ。そう思いたかった。


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