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第110話  勝利の後の冷水

 木々の向こうから白い波が押し寄せてきた。エルフだ。森の奥から現れた連中は、きらびやかなローブを引きずった長老衆を先頭に、雪崩みたいに俺たちへ駆け寄ってくる。顔が、歓喜で歪んでいる。世界の終わりから救われた信者みたいに、なりふり構わず。


 オスカーが一歩前へ出た。泥だらけの鎧をガチャリと鳴らして、背筋を伸ばす。さっき俺たちと拳を合わせた時の、あの誇らしげな余韻が顔に残ってる。「ガルドリアの盾」として勇者を守り抜き、森を救った指揮官の顔だ。彼は一番に接触してくるであろう長老たちに向けて、報告の口を開こうとした。


「長老殿、事態は……」


 ざあぁっ、と。風が吹くみたいに、エルフの群衆がオスカーの横を通り抜けた。  

 素通り、なんて生易しいもんじゃない。まるでそこに誰もいないみたいに――あるいは、道端の石ころか枯れ木でも避けるみたいに、視線すら合わせずに。


「――おお、エリシア様ッ!」


 長老が俺の目の前で膝をついた。地面に額をこすりつける勢いでの最敬礼。後ろに続くエルフたちも、一斉に平伏する。


「ご無事で……! ああ、なんと神々しいお姿!」

「守護樹の暴走を鎮められるとは! さすがは世界樹に選ばれし光の勇者よ!」


 称賛の嵐。拍手の雨。エリシアに向けられたものだ、当然。トドメを刺したのは彼女の聖剣だし、その輝きはまだ残像みたいに森の空気に焼き付いてるからな。でも、エリシアは戸惑ったように眉を下げて一歩下がった。慌てて隣のオスカーを振り返って、必死に手を向ける。


「い、いえ、違うんです! これはオスカー様が支えてくださったからで……!」

「そして! おお……なんということだ!」


 長老の一人が芝居がかった大声で叫んで、エリシアの言葉をかき消した。その目が、ぎょろりと動く。オスカーを通り越して――俺に突き刺さる。


「見えますぞ! その背後に侍る、高貴な光たちが!」


 長老の指が、俺の周りを飛び回ってる精霊たちを指差した。


「炎、水、風、土……まさか、六属性の上位精霊が揃って顕現されているとは!」

「あなたは……もしや、あの古い石碑に刻まれた『星の子』の伝説は真実だったのか!?」

「精霊王の愛し子よ! 我らが森を救ってくださり、感謝の言葉もございませぬ!」


 は?  いや、待て。ちょっと待て。  

 

 俺は一歩後ずさる。俺じゃない。俺はただのサポートで、黒子で、目立ちたくないDランク冒険者なんですけど? なんで俺が拝まれてんの?


 でも、エルフたちの熱狂は止まらない。俺の周りを飛び回るヴァルやフィオが見えているらしく、涙を流して地面に額を擦り付けてくる奴までいる。


『わたくしたちが見えているのですね。……少々、騒がしいですが』  


 足元で氷ウサギのフロスが不快そうに長い耳をピクリと動かした。


『へへっ、人気者は辛いねぇ、旦那! サインでも書いてやるか?』  


 フードの中から、アルクが俺の髪を引っ張って茶化してくる。


『ルーク殿、あまり前に出すぎませぬよう。……風向きが、悪うございます』  


 フィオが冷静な声で警告してくるけど、もう遅い。完全に包囲されてる。


 問題は、そこじゃない。歓声と拍手の輪。その中心にいるのは、エリシアと俺。

 じゃあ、オスカーは?


 俺は視線を、おそるおそる横に向けた。そこに、オスカーがいた。泥だらけの銀鎧。ベッコベコに凹んだ盾。額から流れる血と汗。一番体を張って、一番傷だらけになって、一番格好よかった男が、そこに立ってる。

 でも、エルフたちの視線は、彼を素通りしていた。透明人間を見るみたいに。


 さっきまで浮かべていた誇らしげな表情が、行き場をなくして、空中で凍りついているのが見えた。


「……あー、ごほん」


 オスカーがわざとらしく咳払いをした。副団長としての威厳を無理やり取り戻そうとするみたいに、泥だらけの背筋をピンと伸ばす。その声は、少しだけ震えていたかもしれない。


「長老殿。ガルドリア王国騎士団副団長、オスカーだ。……事態は収束した。我が部隊の損耗も激しいゆえ、休息の許可と、負傷者の手当てを願い……」

「ああ、人間の方」


 長老が、ちらりとオスカーを見た。ゴミを見る目じゃなかった。もっと残酷な、どうでもいい「道具」を見る目だった。使い終わった雑巾を道の端に寄せるような――そんな目。


「ご苦労でしたな。さすがは人間の騎士、頑丈さだけは取り柄のようだ」

「……は?」


 オスカーの言葉が、喉の奥で詰まる音がした気がした。


「エリシア様や精霊使い殿が力を振るうための『壁』として、十分に役に立ちましたぞ。いやはや、人間というのも使いようによっては便利なものですな」


 長老は悪気なく笑った。本当に、悪気なんてこれっぽっちもないんだと思う。彼らにとって、勇者は希望。精霊使いは奇跡。そして騎士は――ただの消耗品。壊れたら取り換えればいい、便利な盾。それ以上でも、それ以下でもない。


 カヒュッ、と。誰かの喉が鳴る音がした。


 空気が凍った気がした。さっきまでの、あの温かい勝利の余韻が、夕立みたいに急速に冷えていく。俺の背筋に嫌な汗が伝う。違う。そうじゃないだろ。こいつが死ぬ気で支えたから。こいつが命がけで守ったから、今あんたたちは生きてるんだぞ?


「ふざけんなよ」


 俺は思わず低い声を漏らした。一歩前に出て、長老を睨みつける。精霊王の隠蔽? 知るかよそんなもん。


「おい、じいさん。あんた目がついてんのか? この人がいなきゃ、俺もお前らの勇者様も、今頃ミンチになってたんだぞ! 一番体張って、一番血を流したのは誰だと思ってんだ!」


 俺の剣幕に、長老たちはキョトンとして顔を見合わせている。


「精霊使い殿? なぜ怒っておられるので?」

「盾が盾の役割を果たした。それを褒めているのですが?」


 話が通じない。こいつら、根本的に見てる世界が違うんだ。人間なんて、彼らの物語のモブですらないってことかよ。エリシアも顔を真っ青にして、何か言おうと前に出る。


「待ってください! そんな言い方……オスカー様は私の命の恩人で……!」

「勇者様はお優しい。ですが、道具にいちいち頭を下げていては、威厳に関わりますぞ」

「――よせ」


 低く、乾いた声がした。エリシアの言葉を遮ったのは、オスカー自身だった。

 見ると、彼は笑っていた。さっきの、泥臭くて人間くさい、最高の笑顔じゃない。王城で何度も見た、完璧に計算された、角度の一ミリまで調整されたような――王族の微笑み。能面みたいな、綺麗な顔。


「ルーク候補生、エリシア殿。……長老の言う通りだ」


 オスカーは淡々と言った。まるで他人事みたいに。


「私は盾だ。剣が輝くために泥を被るのが仕事だ。……称賛など、最初から期待していない」

『嘘をつくな』


 ヴァルが俺の耳元で低く唸った。毛が逆立ってる。


『匂いが変わったぞ、ルーク。……こいつの心、今、すごい勢いで冷えてやがる。炭になる前の、嫌な匂いだ』


 わかってる。見ればわかるよ、そんなこと。オスカーの拳が微かに震えているのを。握りしめすぎて革手袋が軋む音が聞こえるくらいだ。爪が食い込んで、血が滲んでるかもしれない。

 俺たちと拳を合わせた時の、あの熱。「お前らとなら」って言った時の、あの光。それが全部、急速冷凍されていく。塗り固められたコンクリートみたいに、感情が埋められていく。


「……オスカー副団長」


 俺は彼の名前を呼んだ。でも、オスカーは俺を見なかった。俺の肩に乗る精霊たちと、俺に向けられるエルフたちの畏敬の眼差し。それを一瞬だけ見て――ふっ、と自嘲気味に笑った気がした。

 諦めのような、絶望のような、色のない笑い。


「……行くぞ」


 オスカーは踵を返した。もう、俺たちのことは見ていない。


「部隊を再編する。……私は私の仕事に戻るだけだ」


 その背中は、さっきまでの頼れる仲間の背中じゃなかった。分厚い透明な壁の向こう側に、一人で行っちまったみたいに遠い。拒絶の背中だ。


「オスカー様……」


 エリシアが手を伸ばそうとして、空を切る。周囲のエルフたちは、まだ呑気に俺たちを称えている。


「さあさあ、都へ! 祝宴の準備がありますぞ!」

「精霊のお話を聞かせてくだされ!」

「人間などは放っておいて、こちらへ!」


 うるさい。黙れよ。俺の中で、アストラの鞘がカチリと鳴った気がした。いっそ、この森ごと吹き飛ばしてやろうか。そうすれば、この胸糞悪い空気を変えられるか?


『旦那、落ち着け』


 アルクが俺の髪を引っ張って、強引に視線を逸らさせる。


『今ここで暴れたら、あの兄ちゃんの立場、もっと無くなるぜ。耐えろ』

『……そうですわね。彼が必死に守った体面を、貴方が壊してどうしますの』


 フィオが冷静に諭してくるけど、その声だって少し震えてる。


『おやかた、悲しいのう。……じゃが、壊れた土は、今は触れんほうがええ』


 オルドが重々しく呟く。


 わかってるよ。そんなこと、頭ではわかってる。俺がここでキレて暴れたら、オスカーが我慢して飲み込んだ屈辱が、全部無駄になる。あいつは「ガルドリアの盾」として、外交問題にならないように、あのクソみたいな侮辱を飲み込んだんだ。俺がそれを台無しにする権利なんて、どこにもない。


 でも、やりきれないだろ。

 あいつ、あんなに嬉しそうだったんだぞ。やっと、本当の仲間になれたって顔、してたんだぞ。俺たちが命がけで作った絆を、こいつらは言葉ひとつで踏みにじりやがった。

 俺は唇を噛み締めて、遠ざかるオスカーの背中を見送った。泥だらけの、誇り高いはずの背中が、今はやけに小さく見える。


 夕暮れの森に、冷たい風が吹き抜けていく。勝利したはずなのに。世界を救ったはずなのに。俺の手の中には、冷たい石ころみたいな後味の悪さだけが残っていた。


「くぅん……」


 足元でフェデが悲しげに鳴く。その声だけが、やけに大きく響いた気がした。

 俺たちの「黄金の連携」は、たった数分で、粉々に砕け散ったんだ。



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