第八章 恋に鍵をかけて
新しい店に通い始めてから、空気は明らかに変わった。
以前は彼女と私、ふたりだけの濃密な空間が広がっていた。
だがここでは、年季を重ねたホステスたちがテーブルに座り、洗練された所作と余裕ある笑みで場を支配する。
十年、二十年と夜の世界を泳ぎ抜けてきた者だけが纏う、独特の風格。
その中に身を置く彼女は、背筋を伸ばし、緊張を笑みで包み込みながらも確かに変わり始めていた。
新しい挑戦。避けられぬ試練。
それは彼女自身の姿勢を変えると同時に、私に「これまでの関係の輪郭を改めて見直せ」と突きつけてきた。
――もう、ただの“特別な存在”というだけでは足りないのかもしれない。
そんな思いを胸に抱いていたとき、私は彼女の意外な一面を知ることになる。
きっかけは、何気ない会話だった。
グラスの中で氷が鳴る音。柔らかな灯りに照らされた彼女が、微笑を浮かべながら語り出す。
「私、小学生の頃から推してるグループがあって……」
その声は少し高まり、頬が淡く色づく。
推しの一人――特別な男性アイドルについて話す彼女の瞳は、潤んだようにきらめいていた。
「ライブで目が合うと……『きゃー、見ないで!』って」
甲高い声を真似しながら、両手で顔を隠す仕草。
指先が頬を覆い、肩が小さくすくむ。
その瞬間、彼女の姿は大人の仮面を外され、少女の面影をのぞかせていた。
私は思わず息を呑む。
無垢で無防備なその仕草に、新鮮な驚きと同時に、胸の奥で黒い感情が膨らむ。
――なぜ、俺にはその姿を見せてくれない?
言葉にはせず、代わりに問いを投げた。
「俺はカッコいいのか?……そういえば、女性って身近な男には“カッコいい”って言わないよな。
君からも、聞いたことがない。……まあ、推しと俺を比べるのは馬鹿げてるかもしれないけど」
自嘲混じりに笑うと、彼女は小首を傾げ、唇に指を添えた。
視線が一瞬だけ私を正面から射抜き、すぐに横へ流れる。
「うーん……女性は、推しには“カッコいい”って言いますけど、身近な男性には“素敵”って言うことが多いかもしれませんね」
(彼女は、私に対してよく「素敵」という言葉を発してくれた、お世辞とは思えない二人の真剣な場面で。そうか、それはその意味だったのだと、私はようやく腑に落ちた)
柔らかな声に含まれた優しさ。
それは慰めのようでもあり、遠い隔たりを示す境界線のようでもあった。
私はグラスの縁を指でなぞりながら、乾いた喉を自覚する。
――ああ、こういう感覚なのだ。
巷で耳にしてきた、推しに夢中な恋人や妻に嫉妬する男たちの心情。
今、私はその渦中にある。
けれど同時に、彼女の仕草は私に別の確信を与えていた。
彼女は確かに、男性に心を動かされる存在なのだ。
恋という感情を知っている。
ただ、それを長年押し殺し、夜の世界に生きてきた。
後日、私はその確信を胸に問いかけた。
「俺の愛情は……君の恋愛感情を呼び起こしたか? 少しでも揺らいだことはあるのか?」
その瞬間、彼女の呼吸がわずかに止まる。
グラスを指で撫で、視線を伏せ、長い沈黙ののちに答えが零れた。
「どうでしょう……そういう感情には、長年蓋をしているので」
吐息が震え、声は小さく掠れていた。
その言葉は短くとも、胸の奥深くに沈み込むほどの重みを持っていた。
私は拳を膝の上で固く握りしめ、込み上げる衝動を抑える。
――これが限界点なのだ。
彼女の仕事を思えば、それ以上を望むのは酷だろう。
それでも、抑えきれぬ想いが胸を焼く。
彼女の心を揺らしたいと願いながら、結局はその蓋に阻まれてしまう。
私はただ静かに、目の前の彼女を見つめるしかなかった。




