◆エピローグ◆
「せっかくの初のバイト代なのに、こんなもん買って来やがって……」
さっきからそう言いつつも、アスカは何度も指に視線をやっては微笑んでいる。左手の細い指に銀色の輪をはめただけでそこまで喜んでくれるんなら、俺としては全く問題がない。
「出逢って一年の記念日に何か贈り物がしてぇんだって店長に相談したらよ、それが良いって教えてくれたんだ」
シーフードカレーの鍋をかき混ぜて答えたら、待ち切れねぇのか後ろからアスカが覗き込んでくる。
「ふーん、何だ……そうだよな、ブラウンだもんな」
「何だ、まだ何か不満か? 一年前につけてくれた名前が“ブラウニーだからブラウンな”のアスカとは良い勝負じゃねぇか?」
「そりゃまー、そうだけどさ」
どこかふてくされた響きの声に鍋から視線をアスカに向ける。するとアスカはプイッとそっぽを向いて卓袱台のある部屋に引き返してしまった。
一年前に電熱器からアスカがガスコンロに買い替えてくれたお陰で、調理時間が大幅に改善された訳だが……そのことで良いことがある。
それは機嫌を損ねたアスカの様子を見に火の傍から離れられることだ。
俺は緩む頬を何とか引き締め直して、ガスコンロの火を弱めてその後をついて行く。店長の言ったことが本当なら、これで第一関門突破だぜ。
「どうしたんだ、アスカ。随分とご機嫌斜めじゃねぇか?」
緊張で上擦りそうになる声を、何とか窺うようなそれに抑える。
「別に何でもないってば。それよかあれだよな、オマエ最近私がいなくても楽しそうだよな? 半年前に勝手に飲み屋のバイトとか探してくるし。大体、職業ビザ持ってないのに住所と名前が記載出来りゃ大丈夫って……その店で変なことしてないだろうな?」
そんなムスッとした表情で何でもないとか……これ以上俺をどうしようってんだアスカ。
これが店長の言ってた「ブラウン君の彼女さんツンデレってやつだ!」とかいうあれか?
「半年前に勝手にバイトを決めたのはもう謝ったし、アスカも許してくれたじゃねぇか。そのお陰で今日だってアスカにその輪っかがプレゼント出来たんだしよ」
ソロソロと背中を向けたままのアスカに後ろから近付く。こういう時はあまりにも機嫌が悪いと攻撃されるので注意が必要だ。
下手に刺激し過ぎないようにジリジリと距離を縮めながら、アスカが買ってくれたエプロンのポケットから、もう一つ用意した同じ形の大きめの銀色の輪っかを取り出す。
――店長曰わく、ここからが一番重要だ。
「あー、なぁ、アスカ。ちょっと頼みたいことがあるから、こっち向いてくれねぇか?」
掌に握りしめた細い銀色の輪っかにそんな効力があるとは、こっちの世界に来て初めて知ったんだが……本当にこんな物でアスカが俺の物になってくれるのか心配になるな。
「――あぁ?」
眉間にくっきりと深いしわを刻んだアスカが振り返って、その三白眼気味の鋭い目で俺を見上げる。
……思わず今度に回してしまいそうになる眼力だな……。
しかし、ここで引いては駄目だ! 記憶に残る記念日の為に耐えろ俺!
「――これは、アスカの手で俺の指にはめてもらいたいんだが、良いか?」
怪訝な顔をするその小さい掌の上にやや大きいサイズの銀色の輪っかを載せて、恐る恐る左手を出す。
と……脇腹に拳が……。やっぱり駄目だったか! 脇腹の痛みに膝を折るが、どっちかといえば胸の方が痛ぇが、諦めんぞ……来年こそは……!
などと涙目になりながらうずくまっていると、不意にアスカが怖い表情のまま屈み込んで俺の左手を取った。
「――ブラウンの癖に回りくどい真似するなよな、馬鹿」
舌打ちと共に離れた小さい手の後には、ゴツい俺の左手の指に華奢な銀色の輪っかがはめられていた。
「なぁ……腹減ったし、もうカレー食べよう?」
コテンと小首を傾げるアスカが可愛過ぎて思わず触りたくなるが、さすがにここで雰囲気をぶち壊すのもな……。
卓袱台でささやかな一周年の記念と、銀色の輪っかを使った契約を祝して缶ビールを空ける。
金色のシュワシュワとした液体をご機嫌で俺のグラスに注いでくれたアスカが、ベランダの方を見て苦笑する。
「ブラウン、いい加減にあのトランクスとタンクトップ捨てろよ」
そう言われた先には、あの白いタンクトップと水色と白のストライプ模様のトランクスが、一年の歳月でだいぶくたびれて揺れているが……。
「いくらアスカの言うことでも、そりゃ聞けねぇぜ」
グビリと一口飲んだ缶ビールの苦味に目を細めて「馬ぁ鹿」と笑うアスカをこれ以上ないくらいに幸せな気分で眺めた――。