夕暮れ
吉乃は、ぜえぜえと肩で荒く息をした。
目の前では、「上手、上手」とのんきに手を叩いて喜んでいる武秀がいる。
事の発端は、武秀からの「化け比べをしよう」という提案だった。
曰く、今まで狐が化けるところを見たことがないので、見てみたいということだった。
武秀は、小さい頃から好奇心旺盛であった。
ただ化けるだけならば、吉乃の得意とするところで、何の問題もない。
しかし、お手玉に化けてと言われて化ければ、手のひらでくるくると回される。
犬に化ければ、お腹をくすぐられる。
赤子に化ければ、とんでもない高さまで高い高いをされる。
悪意があるのかないのか、わからない。
ただ、これが無邪気で許される範囲ならば、相当たちが悪い。
吉乃は負けじと、武秀を独楽に化けさせて回してみた。
しかし、武秀は目を回すどころか、けらけらと笑って楽しむ始末である。
驚いたのは、武秀の化ける能力の高さだった。
吉乃は今まで、自分より上手く化けられる者はいないと自負していた。
しかし、武秀の化ける能力は、自分のそれを遥かに上回っていた。
「殿は……化けるのが……とても、お上手……なのですね」
息を整えながら、吉乃は言った。
「吉乃だって、すごく上手だよ」
お世辞ではなかった。
武秀もまた、吉乃の化ける能力は高いと思った。
矢継ぎ早に化けることを要求すれば、どこかで元の姿に戻る際に、ぼろが出るかと思った。
しかし、ついぞそれらしきものは見えなかった。
自分と同じ、化けることが得意な花嫁。
本人が気づいているかはわからないが、少々むきになって食らいついてくる様子は可愛らしいと、武秀は思った。
「吉乃は、負けず嫌いだね」
「いえ、そのような……」
「実は、俺も負けず嫌いなんだ」
ーというより、負けることが許されない環境で育ったんだ。
武秀は、ぽつりと言った。
その言葉を聞き、自分もそうであったと吉乃は思う。
吉乃にとって、負けることは死ぬことだった。
武秀は、吉乃の本当の出自を知らない。
それでも、心に触れるようなことをぽつりと言ってくる。
天性の人たらしなのだ、と吉乃には思えた。
「まだまだ遊んでいたいけど、仕事に行かなくちゃ」
「そうでございますか」
武秀の言葉に、吉乃は内心ほっと息を吐いた。
ようやく、この得体の知れない男から解放される。
「もう少し寂しそうにしてよ」
そう言う武秀の顔は、少し寂しそうだった。
「今宵、お待ちしております」
吉乃は深々と頭を下げた。
武秀は何も言わない。
そっと吉乃が顔を上げると、武秀がちょいちょいと手招きをした。
何かと思い、吉乃はそろそろと歩み寄る。
武秀は吉乃の肩に手を添え、顔を近づけると、耳元で囁いた。
「実は、城中では、みだりに化けることは禁じられている」
化ける者同士が互いに疑心暗鬼にならないため、いつの間にか、そのようなしきたりができた。
とはいえ、武秀は幼い頃から、隠れてそれを破っている。
「……では、先ほどの遊びは……」
「吉乃と俺だけの秘密の遊びだよ」
ただし、と言った武秀の声は、いつもより暗く、低かった。
「俺以外の前では化けるな。あらぬ疑いをかけられたくなければ、ね」
吉乃の背筋に冷たいものが走った。
言外に、この男は告げているのだ。
自分のいない間、おとなしくしているようにと。
先ほどの化け比べは、ただの遊びではない。
化け方の癖を見られていたのだ。
吉乃の表情がこわばるのを見て、武秀はふっといつもの笑顔に戻った。
「侍女方にも、よろしく伝えて」
手をひらひらと振り、部屋を出ていく。
武秀がいなくなると、吉乃は脱力し、その場に座り込みそうになった。
自分は、いったい何者を相手にしようとしているのか。
「殿は、お帰りですか」
綾女が顔を出した。
吉乃の顔色が悪いのを、さして気にする様子もない。
「ずいぶんと楽しそうなお声が聞こえました」
「綾女……」
「はい?」
「あいつの前で、下手な動きは控えよ」
その命令口調に、綾女は少しむっとした顔をした。
「私には、私のやりようがございます」
「我々は、相応の時間を稼がねばならぬ。時期が来るより先に騒ぎを起こしてはならぬと、言っているのだ」
「何か、ございましたか?」
綾女はようやく、何事かを察したようだった。
吉乃は、ただ、勝手な振る舞いは控えるようにとだけ釘を刺した。
それが綾女に効果があったかは、わからない。
吉乃は、夜が来るのが少し怖いと思った。
*
表向きの仕事が終わると、武秀はやれやれと肩を回した。
狐の一族の土地だけでなく、狸の一族の土地にも、不作に見舞われた田畑が多いという報告を受けた。
花嫁行列は、狸の一族の土地の中では、あえて不作の地を避けて通った。
こちらは飢饉による被害が少なく、狐側より有利であることを見せつけるためだった。
和議に先立つ戦は、狸の一族が有利に終わったとはいえ、痛み分けに近かった。
戦は、勝っても負けても、土地は荒れ、民は窮する。
多額の賠償金を狐の一族から受け取ることはできなかった。
代わりに、土地の一部と花嫁をもらった。
もう少し戦えば、狐の一族を壊滅状態にできたのにと、叔父の正信は口惜しそうに言った。
しかし、武秀の父は、兵の中には農民もおり、これ以上長引けば農繁期に響くと判断して、和議を結んだ。
表向きは、そうなっている。
ただ、内情は少し違った。
一通りの仕事が終わり、家臣たちが部屋を出ていく。
武秀も部屋を出ようとしたとき、父・武信に呼び止められた。
「武秀、こちらへ」
父に呼ばれ、武秀は奥の間に入った。
襖を閉め、武信と武秀の二人きりになる。
武信は辛そうに顔を歪め、その場に座り込んだ。
「横になられますか」
武秀はあえて人を呼ばず、父を支えるようにして横にならせた。
父の身体が軽くなった、と思った。
父は病に侵されている。
そのことを知る者は限られていた。
異母弟である正信にすら、武信は自らの病を秘している。
過去のお家騒動で、正信は武信と対立した和信に味方していた。
そのことで、二人の間には、なお深い溝があるようだった。
横になり、苦しそうに息をする父の背を、武秀は労わるように撫でた。
「お前は、優しい息子じゃ」
―息子。
その言葉に、武秀の胸がちくりと痛む。
「せめて、お前がもう少し年長であればのう。わしが死んでも、誰もそなたが当主となることを阻むまいに」
ごほごほと父が咳き込むのを、武秀は辛そうに見た。
叔父の正信は、武信が気弱であると、外で公然と責めることを憚らない。
父は母やその実家の操り人形であると、陰で言う者もいた。
過去にあった狸の一族のお家騒動は、今なお、くすぶり続けている。
お家騒動が再燃すれば、狐の一族や、同盟関係でありながら油断のならぬ犬の一族に攻められるだろう。
父は、先の戦を、自らの病や家の事情によって長引かせることができなかったのだ。
「情けない父であるの」
武秀は首を振った。
「民のために戦を長引かせない。ご英断だったと思います。あれ以上長引けば、犬の一族が漁夫の利を狙ってくるおそれもありました」
武信はふっと笑った。
「お前は、思いやり深く、賢き子じゃ。わしに似ず、よき当主となろう」
そう思えばこそ、年若いがゆえにその座を追われるかもしれぬ武秀を、武信は不憫に思った。
「あと十年、生きたいものだ」
「生きますとも」
「そうか」
「はい」
秋の夕日に、室内が赤く染まる。
父子はそのまま、何も語らなかった。
日はあっという間に暮れ、細い虫の音がリーリーと聞こえてくる。
父の苦しげな息は、いつしか寝息へと変わっていた。
吉乃のもとへ行かなければと、武秀はぼんやりと考えた。
しかし、父の側を離れることができなかった。




