秋の夜
枕辺に虫の音を聞く。
今は何刻であろうかと、吉乃は思った。
夜は更けたが、武秀は来ない。
昼間の自分の態度に、何か落ち度でもあったであろうか。
吉乃はまんじりともせず、何度目かの寝返りを打った。
そのとき、虫の音が止んだ。
足音がする。
武秀が寝所に入ってきた。
「吉乃、寝ている?」
「……起きております」
「そう」
武秀はわずかに嬉しそうな顔をして、布団に入った。
そして、吉乃との距離を詰めるように身体を寄せた。
吉乃がちらりと武秀の顔を見る。
昼間遊んだときとは違い、ひどく疲れているように見えた。
「お疲れですか」
「まあね」
武秀は吉乃の胸に、甘えるように顔をこすりつけた。
吉乃の温かさが心地よい。
ごつごつと骨の目立ってきた父とは違う。
女盛りの柔らかな肢体である。
武秀は、父といたときの陰鬱とした気分が、少し和らぐような気がした。
吉乃は、そんな武秀の頭を胸に抱いた。
今の武秀には、隙があるように吉乃には見えた。
その隙間にゆっくりと忍び込むように、武秀の身体を撫でる。
柔らかい肢体が妖しくまとわりつき、身体を、心を、絡め取ろうとする。
弱っている男を誑かすほど簡単なことはないと、吉乃は思った。
しかし、武秀はそんな吉乃を冷静に見ていた。
長年、城で狸どもに囲まれて暮らしてきた。
人の好意や誘いを、簡単には受けない癖が、武秀にはついていた。
好意は受け取らず、受け取ったふりをして微笑む。
「慰めてくれるの。吉乃は優しいね」
騙されたふりをすることさえ、武秀には容易かった。
吉乃は、自らの胸に顔を埋める武秀の髪を撫でながら、そっと接吻をした。
武秀も顔を上げ、吉乃の接吻に応える。
しばらく軽い口づけを交わし、武秀は言った。
「ねえ、吉乃は、俺のこと、好きになれそう?」
「妻は夫を恋い慕うものです」
吉乃は微笑んで言った。
その微笑みには、妖艶な美しさがあった。
「じゃあ、俺が夫じゃなかったら?」
武秀もまた、微笑んで尋ねた。
冷たい目で、吉乃を見据えたままで。
「は?」
「それでも、俺を好きになるかな」
父母は、世継ぎゆえに自分を愛する。
家臣は、優れた当主を敬う。
和永も、太助も、従兄弟であり、友達のような存在であるけれど。
和永は、お家騒動さえなければ、自分に代わって世継ぎとなっていたはずの男である。
太助は、最近、父への反発を隠さない正信の息子である。
では、吉乃はどうであろう。
「俺のことが好きで、接吻した?」
武秀は、試すように吉乃に尋ねた。
「はい」
吉乃の答えに、武秀は心の中で小さな反発を覚えた。
それでも、吉乃の誘いに身を委ねた。
男ならば、そうするであろうと武秀は思ったからだ。
焚きしめた香の香りに包まれる。
吉乃は武秀の顔に両手を添えると、先ほどより深く接吻をしてきた。
ぬるりと舌の絡まる感触。
白い手が、武秀の夜着の襟元から中へと滑り込む。
武秀の夜着がはだける。
吉乃は、武秀の胸に唇を落とした。
されるがままに横たわっていた武秀は、ぽつりと呟いた。
「……まるで、手慣れているみたい」
吉乃の手が止まる。
その手を取って、武秀は吉乃を組み伏せた。
「花嫁が、生娘でないなんてこと、あるのかな」
武秀は吉乃の耳元で囁くように言った。
「枕絵にて、見ましたので……」
「……そう」
武秀の長い黒髪が、ぱさりと吉乃の顔にかかる。
「こういうのは、ちゃんと俺を好きになってからにしてよ」
好きでもない者に、踏み込まれたくない一線が、武秀にはある。
「私は……」
「女の人の方が、好きでもない男に抱かれるのは抵抗があると思っていたけど。違う?」
吉乃の手首を押さえる武秀の力が強くなる。
吉乃はわずかに眉を寄せた。
「女の人の気持ちとか、俺にはよくわからないんだ」
自分には、女の心がない。
だから、女の心がわからない。
その悲しみに、武秀の顔が一瞬、泣きそうに歪んだ。
吉乃は、なぜ武秀がそんな顔をするのかわからず、困惑した。
「ねえ、教えて……吉乃……」
武秀はそう言うと、覆いかぶさるように吉乃を抱きしめた。
吉乃は、予想もしていなかった武秀の反応に戸惑いながらも、おずおずと武秀の背に腕を回した。
それから、小さく震える武秀の背を、赤子をなだめるように撫でた。
しばらくして、武秀が吉乃の上から身体を起こした。
隣に横になると、再び吉乃を抱き寄せて言った。
「……ごめん、忘れて……」
吉乃は、小さく頷いた。
頷くしかなかった。
武秀は、本当に忘れてほしいと願った。
自分には、ずっと寝床の中しか泣く場所がなかった。
でも今は、そこに吉乃がいる。
一人で泣ける場所がなくなってしまった。
自分はどこで泣けばいいのだろう。
自分はどこで心を休めればいいのだろう。
弱ってしまった父の姿を見て、自分の心もまた弱くなってしまったのかもしれない。
幼い頃から、努力を重ねてきた。
耐え忍ぶことも多かった。
いつも何かに脅かされてきた。
常に心身を緊張させ、休まることがない。
吉乃のことも、疑い続けている。
警戒している。
武秀の背を労わるように、吉乃が撫でる。
その優しさは、本物ではないだろうに。
それなのに、吉乃に優しく背を撫でられていると、少しずつ何かが緩んでいく。
一人にしてほしい。
一人になりたい。
武秀は、緩んでいく心に抗うように願った。
それでも、吉乃の温かさに、武秀の瞼は次第に重くなっていった。
やがて武秀は、深い眠りへと落ちていった。
吉乃は、眠る武秀の顔を見た。
武秀は、自分の誘いに乗ってこなかった。
男ならば、容易に誘いに乗るものと思っていたのに。
かえって、自分の誘いが武秀の何かを傷つけたのかもしれないと思った。
その「何か」の正体を、吉乃は知らない。
好きになれるかと聞かれた。
好きになどなれるはずがないと思った。
自分は、夫を愛さぬよう、ただ惑わすために女に化け、狸の一族に嫁いだのだ。
その意味を、自分の目的を、忘れてはならないと強く思う。
武秀には、弱さを見せてほしくないと、吉乃は思った。
自分には、それを受け止める情などないのだから。
眠れぬ夜は辛い。
秋の夜は長い。
武秀は、吉乃の腕の中で、蹲るように眠っている。
まるで幼子のようであった。
早く夜が明ければいいのに、と吉乃は思った。




