犬姫
和永は、一人、太助の屋敷の客間に座していた。
先日の非礼を詫びようと、菓子を持参して太助のもとを訪ねたのだ。
二日酔いとはいえ、人の家で粗相をしたことを、和永は深く恥じていた。
太助は少し出かけているが、すぐに戻るのでここで待つよう、家人から言われた。
和永がぼんやりと掛け軸などを眺めていると、すらりと戸が開いた。
見れば、太助ではなく、女が立っている。
「犬姫様」
和永は頭を下げた。
太助の母で、犬の一族から同盟の証として嫁いできた姫である。
太くきりっとした眉と鋭い眼光は、その意志の強さを表していた。
太助から、父と母が喧嘩をすると、最終的には父が折れると聞いたことがあった。
いつもは武将然とした強面の叔父に限って、妻に頭を下げることなどあるまいと思っていた。
だが、なるほど、犬姫には有無を言わせぬ強さが感じられた。
「先日は、誠に失礼をいたしました」
義理の叔母とはいえ、和永は女が苦手である。
特に、犬姫のようなタイプとは、あまり関わり合いたくなかった。
「太助から、和永は常々、固すぎると聞いていましたが。昨日の様子、むしろ微笑ましく思いましたよ」
和永は、言われてわずかに赤面した。
自分のした粗相が、いっそう悔やまれる。
「誠に、その節は……」
「義理とはいえ、叔母と甥の仲で、そのようにかしこまる必要はあるまい。なに、私も少し、そなたと話がしたいと思っておったのじゃ」
犬姫は、和永と向かい合うように座った。
「賢そうな顔をしておる。また、誠に美しい青年じゃ。女どもが放っておくまい」
「そのような」
「いやいや、正信殿も、和永殿のことをよく褒めておいでですよ」
「叔父上には、寺におりました頃から目をかけていただき、ありがたく思っております」
和永は、早く太助に帰ってきてほしいと思った。
和永は世間話が苦手である。
特に、女を相手にした世間話は。
「ときに、和永殿。最近の情勢を、どのようにお思いか」
「情勢、と申しますと」
思いがけず犬姫から政の話を振られ、和永は身構えた。
「狐の一族との和議・婚礼にて、ひとまずは落ち着いているかと思います」
「正信殿は、そのようには思っておりません」
切り込むように、犬姫が言った。
「現当主の武信殿は、病にかかっているのではないかと、正信殿は見ておる」
それは、和永も疑っていたところであった。
最近は、武信に代わって武秀が政の場に出ることが多い。
武信を見かけても、どこか面やつれしているように見えた。
「もし、武信殿に何かあったら……」
犬姫は、そこで言葉を切った。
「どうなると思います?」
犬姫の強い目が、しかと和永を見据える。
「……何も」
「何も?」
「武秀様がおられます」
「だが、まだ十五じゃ」
犬姫の言葉に、和永は口をつぐんだ。
十五。
確かに、当主となるには少し若すぎる。
「叔父上は、武秀様を案じておられるのでしょうか」
「そなたには、どう見える?」
問い返され、和永は考えた。
正信は、武秀の若さを口にすることがある。
武信が病に伏していると知れば、なおさら心配するだろう。
だが、その心配は、単に武秀を支えたいという意味なのか。
それとも――。
和永の脳裏に、父・和信の姿が浮かんだ。
過去のお家騒動で、正信は兄である和信に味方したという。
和信は、今は出家し、都から離れた寺にいる。
もし武信が倒れれば、正信が和信を還俗させようと考えても、不思議ではない。
そして、父である和信が当主となれば。
その後を継ぐのは、自分だ。
和永は、そこで思考を止めた。
「……私には、わかりません」
和永は、犬姫の強い視線から逃れるように顔を背けた。
「本当に?」
「はい」
「そなた自身が、いずれ当主になるかもしれない、とは考えぬか」
その言葉に、和永は顔を上げた。
「私は、そのようなことを望んでおりません」
和永は、はっきりと答えた。
「武秀様は、文武に秀でておられます。若いとはいえ、ご立派な当主となられましょう」
「では、そなたは?」
「私は、武秀様を支えたいと思い、城に上がりました」
和永の言葉に迷いはない。
「それは、今も変わりません」
犬姫は、しばらく何も言わなかった。
やがて、ふっと目を細める。
「そうですか」
それだけだった。
だが、和永には、その短い言葉の奥で、何かを探られたような気がした。
「犬姫様は、何をお考えなのでしょうか」
和永は尋ねた。
犬姫は、口元を袖で隠した。
「何も。ただ、家中で何かが起きたとき、誰が何を思うのか。それを知っておきたかったのじゃ」
犬姫の意図はどこにあるのだろうと、和永は思った。
裏表がなく、竹を割ったような性格の、あの太助の母にしては、何やら不気味な印象を受ける。
「太助は、どのように?」
「太助は、馬鹿なところが可愛いのじゃ」
噂をすれば、入口の方から、どたばたと大きな音が聞こえてきた。
大きな声も聞こえる。
太助が帰ってきたらしかった。
「待たせたな、和永」
がらりと大きな音を立てて、太助が入ってきた。
室内がぱっと明るくなったようだった。
「あれ、母上もこちらでしたか」
「少し、和永殿と話がしたくて参ったのじゃ」
「どのような話ですか?」
「難しいお話です」
それを聞いて、太助は、うげっ、と嫌そうな顔をした。
その顔に、犬姫はくすりと笑った。
先ほどまでとは違う、優しげな母の顔である。
「では、私はこれで」
軽く頭を下げると、犬姫は部屋を出ていった。
「珍しいな。母上が顔を出すなんて」
太助は不思議そうな顔をした。
が、目線の先に和永の持ってきた菓子折りを見つけると、ぱっと顔を輝かせた。
「それ、俺の好きな塩饅頭じゃないか!」
「ああ、先日は、その、悪かった」
「気にすんなって!」
太助は、和永が差し出すより早く、菓子折りをびりびりと開け始めた。
和永は、そんな太助の様子をいつものことと思いながらも、先ほどの犬姫との話が気にかかった。
「やっぱこれ、美味しいなあ」
太助は、さっそく両手に菓子を持って頬張っている。
「武秀も好きなんだよな。食わせてやりたいな」
その言葉に、和永は安堵した。
太助は変わらない。そう思った。
「俺がこの前言ってやったから、今頃はさすがに嫁とよろしくやっているだろう」
しばらくは会えないかもな、と太助は言った。
しばらくとは、どれくらいだろうかと和永は思った。
自分はまだ、何をどう伝えるべきか考えあぐねている。
その間にも、何か悪いことが起きるのではないか。
和永は、先ほどの犬姫との会話を不吉に思った。
*
その日は政務も少なく、武秀は早々に部屋に下がった。
吉乃のところへ行こうとも思ったが、昨晩のことがあり、少し行くのをためらわれた。
そこへ、侍女がやってくる。
「吉乃様が、殿にお渡ししたいものがあるそうです」
断るのも悪いだろうと思い、武秀は吉乃のもとへ向かった。
吉乃は、特に変わった様子もなかった。
昨晩のことに触れることもない。
ありがたいと、武秀は思った。
「渡したいものって何?」
「珍しい菓子など、ご賞味いただこうかと思いまして。殿は甘いものがお好きとうかがったので」
そう言うと、吉乃は朱塗りの器を差し出した。
中には、さまざまな動物の形をした小さな飴細工が入っていた。
「へえ、可愛いね」
「狐の一族には、飴細工を作る腕の良い職人がおります。今日は特別に取り寄せました」
「そっか」
昨日、自分が弱っていたのを気遣っての差し入れであろうか。
だが、武秀は素直にそれを受け取ることができない。
「毒なんか、入っていたりして」
武秀は、吉乃の方をちらりと見た。
しかし、吉乃は「まさか」と笑っただけだった。
そして、飴細工の一つを取ると、自ら口に入れてみせた。
かちり、と口の中で飴細工の割れる音がする。
その様子をしばらく見てから、武秀も飴細工を口に入れた。
飴は、思ったよりも甘く、美味しかった。
「美味しい」
「そうでございましょう」
吉乃は嬉しそうに言った。
「私も、この飴細工が昔から好きでした」
「そうなんだ」
武秀は、口の中で割れた飴細工を転がしながら言った。
「そういう話、もっと聞きたいな」
「そういう、とは……」
「吉乃の昔話。もっと、吉乃のことが知りたい」
武秀は、ころんと吉乃の心の中に転がり込んでくる。
吉乃は身構えた。
引きずり込まれることなく手懐けるのは、なかなか骨が折れそうだと思った。
吉乃は、自らの膝をぽんぽんと叩いた。
武秀は、その意味がわかると、嬉しそうにその膝に頭を乗せて横になった。
「私も、殿のお話が聞きとうございます」
吉乃は、上からのぞき込むようにして武秀に言った。
武秀は、光を受けて輝く吉乃の白銀色の髪がきれいだと思った。
その髪の先を自分の指に絡ませながら、武秀は尋ねた。
「吉乃はさ、小さい頃、どんな子だったの」
吉乃は一瞬黙ってから、言った。
「屋敷の奥深くにおりましたので。これといって楽しいお話はございません」




