朝露
赤い花が、目に焼きついて離れない。
あれはいつの頃だっただろう。
まだ、和永が寺にいたときだ。
珍しく早朝に訪ねると、和永は寺の庭先で花を眺めていた。
朝露に濡れた赤い花と、それを眺める和永の横顔がきれいだと思った。
和永は武秀に気がつくと、何を思ったか、赤い花を一輪手折って武秀の黒髪に飾った。
「よく似合っている」
そう言われて、武秀は嬉しかった。
あの頃はまだ、男の姿をしていても、どこかに娘心が残っていたと思う。
きれいなもの。可愛いものが好きだった。
それでも虚勢を張るように、武秀は「俺は男だ。似合わない」と言った。
城に帰ってから、武秀は一人、自室で手鏡を取り出した。
男の姿のまま、和永がくれた赤い花を自分の髪に挿して、飽くことなく眺めた。
武秀にしては、気を抜いていたのだと思う。
不意に母が部屋に入ってきた。
咄嗟に手鏡をしまったが、赤い花を隠すのは間に合わなかった。
武秀の黒髪に飾られた赤い花を見て、母・千代の美しい顔が歪んだ。
とたん、千代は武秀の頭から無造作に花を抜き取ると、それをぐしゃりと握りつぶした。
「男子にこのような花、似合いませぬ」
般若のような顔だった。
このときは、ただただ母が恐ろしかった。
「申し訳ございません」
武秀は深く頭を下げた。
その目線の先に、赤い花びらが散る。
千代の足が、それを踏みつけた。
千代は何事もなかったかのように、いつもの冷たい笑顔に戻ると、武秀に言った。
「剣術の先生が来ておりますよ。励みなさい」
千代が部屋を出ていく。
武秀は茫然として、踏みつけられてぐちゃぐちゃになった赤い花を見つめた。
母を喜ばせたくて、男に化けた。
認められたくて、武芸に励み、学問も修めた。
誰よりも強く、誰よりも賢く。
血の滲むような努力を重ねた。
認められれば、愛されると思った。
しかし、そのままの自分が愛されることはないのだと、あの日、思い知った。
赤い花が、嫌いになった。
*
はっと、武秀は目を覚ました。
見慣れた天井。
隣には、慣れぬぬくもりがあった。
武秀は慌てて目尻をぬぐった。
隣から穏やかな寝息が聞こえる。
「そういえば、俺、結婚したんだっけ……」
どこか他人事のように、武秀は呟いた。
吉乃を起こさぬよう、そっと身を寄せて寝顔を覗き込む。
きれいな顔だと思った。
作り物のような、きれいな顔だと。
慣れない人のぬくもりに触れて、嫌な夢を見てしまった。
武秀は今まで、深い眠りにつくとき、そばに人を置いたことがなかった。
最初は、無意識のうちに万が一にも術が解けることを恐れていた。
小さい頃は、何度か眠っている間に元の姿に戻ってしまったことがある。
しかし今は、無意識のうちに姿が戻ることはないという自信があった。
そもそも、女に戻る方法すら忘れてしまっている自分がいる。
それでも、置かれた立場ゆえの警戒心から、寝所に人を近づけることはできなかった。
昨日、宴の席で和永が何事かを告げようとしていたことを思い出す。
また、和永に向けられた吉乃の一瞬の鋭い視線や、寝所で刀を見たときの吉乃の警戒した様子も思い出した。
武秀は、この花嫁には何かあるのだろうなと、ぼんやり考えた。
「……っ」
吉乃がわずかに身じろぎし、武秀はどきりとした。
外はまだ暗い。
自分が吉乃を起こしてしまったのではないかと、おそるおそる顔を覗き込んだが、吉乃は眠っているようだった。
武秀は吉乃に少し身を寄せ、あったかいなあ、と思った。
目には冷たさがあるのに、身体はあたたかい。
そのぬくもりに、また眠りに引き込まれそうになった。
しかし、武秀は起き上がり、静かに部屋を出ていった。
戸が静かに閉まり、忍ぶような足音が遠くに消える。
それを待っていたかのように、吉乃は目を開けた。
武秀が寝ていた場所は、まだほんのりと温かかった。
吉乃は、武秀の寝言で目が覚めていた。
何を言っていたかまでは聞き取れなかった。
武秀は泣いているようだったが、涙までは見ていない。
吉乃はゆっくりと起き上がると、自分の手を見た。
ほっそりとした女の手である。
吉乃は、ほっと息を吐いた。
昨日は思いがけず深く眠ってしまった。
そのため、術が解けていないか気がかりだったのだ。
しかし、特に何かが変わった様子はない。
吉乃は、自分がそのような失態を犯すはずはないのだと、自分を励ました。
白々と夜が明け、侍女が部屋に入ってくる。
特に乱れたところのない吉乃を見て、綾女は「おやまあ」と言った。
「初夜に何もなかったのですか」
その言葉に、吉乃はひどく自尊心を傷つけられたような気がした。
「殿のお気に召しませんでしたか」
綾女の嫌味に、吉乃は冷たく返した。
「殿はお疲れだとおっしゃった」
侍女が夜着を脱がせ、吉乃の肌を拭き清める。
何の情事の痕もない白い肌を晒すことが、吉乃はかえって恥ずかしかった。
「おわかりのこととは思いますが……」
吉乃の柔らかな髪を少し乱暴にすきながら、綾女は言った。
「あなたは狸の懐深くに入り込むためにも、殿に気に入られなければなりません」
「そんなこと、言われずともわかっている」
「姿形ばかり美しくとも、生まれの卑しさが、狸の嫡男たる方にはお気に召さないのかもしれませんね」
「……私は、大白家の姫。没落貴族のお前に蔑まれるいわれはない」
その言葉に、綾女は答えることなく、髪をすき続けた。
ときどき柔らかい髪が絡まっても、綾女は気にせず櫛を通す。
何本かの髪が切れ、吉乃は痛みを感じた。
だが、それ以上、吉乃も綾女に言葉をかけることはなかった。
いつ、どこで、誰が聞いているかわからない。
吉乃はただ黙って、綾女にされるがままになっていた。
*
「起きろ」
ゆさゆさと乱暴に揺り起こされ、和永は目を覚ました。
「起きろってば!」
太助の大声が頭に響いて、痛い。
「太助……うるさい……」
「酒が弱いくせに飲みすぎたお前が悪い」
太助は口ではそう言いながらも、和永に水を渡した。
昨日、したたかに酔った和永は、太助に背負われ、城下にある太助の屋敷に運び込まれていた。
和永は重い身体を起こし、水を受け取った。
その水を口に含んだとたん。
「なんだ、二日酔いか」
思いがけない声に、和永は激しくむせ返った。
目の前には、呆れ顔の武秀が立っていた。




