夏の終わり
和永と太助が武秀に仕えるようになってから、数年の歳月が過ぎた。
はじめ、周囲の和永への視線は冷たかった。
しかし、正信や武秀の擁護があり、何よりも和永の賢さや忠義心の厚さから、次第に周囲の見る目は変わっていった。
情勢も、その間に変わった。
長い戦に疲弊した狸と狐の一族が、和議を結ぶことになったのだ。
その和議の証として、十五歳になったばかりの武秀のもとに、狐の花嫁を迎えることになった。
戦を終わらせるために、自分が狐の姫を娶る。
次期当主として、それが必要なことだと武秀はよくわかっている。
それでも、婚礼の日が近づくにつれ、武秀の心は重くなっていった。
武秀は暗い顔で、一人、天守閣から城下町を見下ろしていた。
城下町はいつになく賑わっている。
長く続いた戦乱の世が終わる。
人々の足取りは軽く、その表情は明るかった。
「花嫁を迎える花婿の顔ではありませんね」
「母上」
いつから来ていたのか、侍女も連れず、武秀の母、千代が立っていた。
「まあ、わからずともない。何を考えているかわからぬ狐のこと。この度の和議も婚礼も、どのような腹積もりでいるのやら、わかったものではありませぬ」
「心配事はそれだけですか」
武秀は振り向きもせずに言った。
「私は子を成せません。その理由は、母上が一番よくご存じでしょう。狐の陰謀とやらを心配するより先に、事が露見してご自分の首が飛ぶことこそ、心配すべきではないですか」
千代はすっと武秀に歩み寄ると、その背に優しく手を添えて言った。
「この母の首がどうなるかは、あなた次第。こんなにも立派な男子に成長したあなたを、母は誇りに思いますよ」
ああ、嫌だ。
武秀の母への嫌悪が募る。
その昔、長く子に恵まれず、ようやく産まれた子が女とわかると、千代は男が生まれたと偽りの報告をした。
自らの地位を失うことを恐れてついた浅はかな嘘など、すぐにばれるはずだった。
しかし、言葉を話すよりも早く化けることを覚えた武秀の卓越した才能が、母の嘘を本当にしてしまった。
慣例に従い、三歳まで母の実家で育てられ、四歳で登城したときには、すでに武秀は立派な男児となっていた。
武秀の秘密を知る者は、侍医を除いて、みな不慮の事故により死亡した。
それが単なる事故ではないことを、武秀は知っている。
はじめは、母が喜ぶのが嬉しくて化けた。
今はもう、戻れないところまで来てしまった。
「失礼。この後、和永と太助と遠乗りに行く約束がありますので」
「花嫁が来るのです。いつまでも、そのような……」
母の言葉を振り切るように、武秀は足早にその場を去った。
*
草原を馬が駆ける。
先頭を武秀が、少し遅れて太助と和永が馬を走らせていた。
「飛ばしすぎだ!」
太助に怒鳴られても、武秀は振り返らない。
何かを振り払うかのように、ますます馬足を速める。
武秀は川のほとりまで来て、ようやく馬を止めた。
川幅は三、四メートルほどの小川である。
小さい頃、三人は城を抜け出しては、よくこの川で遊んだ。
「あまり遠くへ行っては叱られるぞ、武秀」
武秀の横に馬を並べ、太助が言った。
「もう、叱られるような年じゃないさ」
武秀は川を眺めながら、この川で遊んだ日々を遠い昔のことのように思った。
「少し、気晴らしをしたかったのでしょう」
遅れてきた和永が、気遣うように言った。
和永の目には、可憐な少女へと成長した武秀の姿が映っている。
女の身で、妻を娶ることになるとは。
その複雑な心境を和永は思いやったが、太助はそのことを知らない。
「一番若いお前が、一番早く嫁をもらうことになるなんてな」
太助はさっぱりとした性格で、武秀に対しても主人に仕えるというより、弟に接するように振る舞う。
武秀は、それが好ましいようだった。
「羨ましいだろう、太助」
冷やかすように武秀が言った。
「ああ、羨ましいとも! 俺も早く可愛い嫁が欲しい」
武秀は、あははと笑った。
武秀と太助は、常に武芸を競い、馬の速さを競っている。
嫁を迎える早さも、太助にとってはそれと変わらないようであった。
夏の日差しが強い。
馬を止めると、噴き出した汗が粒になり、幾筋も肌の上を流れていった。
こんな日に川で泳げたら、どんなに気持ちがいいだろう。
しかし武秀には、昔のように裸になって川で泳ぐことに、少しばかり躊躇いがあった。
川の水を手ですくい、顔を洗う。
川の水は冷たく、とても気持ちよかった。
水に濡れた武秀の横顔を、和永は眩しいものを見るような目で見つめた。
太助は気にすることなく川に入っていった。
頭まで川に潜り、浮き上がってきてぶるぶると水を払う。
その姿が大きな犬のようで、武秀は笑った。
「穏やかで、いい日だ。戦など、ないにこしたことはない」
武秀は、ごろりと草の上に寝転んだ。
白い雲が形を変えながら、ゆっくりと青い空を流れていく。
「どんな花嫁かな。楽しみだ」
武秀は流れる雲を眺めながら言った。
「俺がどれだけ花嫁を幸せにできるかわからないけれど、仲良くしたいな」
武秀は、男として生きることを決められている。
ただ、その犠牲となる花嫁を憐れんでいるようであった。
「一時的な和議なんかじゃなく、絆を本物にしたいんだ」
それは、次期当主としての覚悟でもあった。
和永は何も言うことができず、武秀の横に腰を下ろした。
昔は、寝転がった武秀の頭を撫でてやったことがある。
今は、武秀に触れることができない。
それは、主従関係からくる遠慮か。
それとも――。
「心優しい、良い姫君だとよいですね」
和永は武秀に言った。
その言葉に嘘はない。
花嫁が、たとえ政略結婚によって嫁いでくる者だとしても、武秀の一番近くにいて、支えてくれるような女人であってほしいと、和永は願った。
武秀は「そうだな」とだけ答えた。
その後は、何も喋ることなく、ただ空を眺めていた。




