変わりゆく関係
武秀は、ヤモリの姿のまま息をひそめ、梁の陰から部屋の様子をうかがった。
部屋には、武秀もよく知る叔父の正信がいた。
その隣には、きょろきょろとあたりを見回す、いかにも元気そうな男の子が座っている。
「叔父上、今日はどうされたのですか」
和永が尋ねた。
「いやなに、お前の様子が気になってな」
正信は笑った。
「それにしても……相変わらずだな」
正信の視線が、部屋の隅に積まれた書物へ向く。
「これだけの本を読んでいるのか」
「はい」
「……惜しいな」
正信は、しばらく書物を眺めていた。
「これだけのものを身につけているのに、ここに埋もれたままとは」
和永は黙っていた。
「兄上がどう考えているのかは知らん。だが、私はお前がこのまま埋もれていくのは、もったいないと思っている」
正信は、隣にいる少年へ目を向けた。
「息子の太助も、そろそろ城へ仕え始める頃だ。お前も一緒に来ないか」
和永は、すぐには答えなかった。
やがて、ためらいがちに口を開く。
「私は、狐の血が入っております。そのような身で外へ出るのは……」
言葉の先が続かなかった。
武秀は、自分に何の偏見も抱かず接してくれる。
そのことが、和永には嬉しかった。
けれど、それはきっと珍しいことなのだろう。
寺の外では、自分はどんな目で見られるのか。
狐と狸の混血であることを理由に、蔑まれるのではないか。
そう思うと、和永は寺から出ることが怖かった。
「まあ、お前の不安も分からんでもない」
正信は太い腕を組んだ。
「だがな、だからといって、お前はここで朽ちてよいやつではない」
そして、太助へ目を向ける。
「この太助も犬との混血だ。混血であることを恥じることはない」
太助は、父親の言葉に特段の反応を示すこともなく、相変わらず落ち着きなくあたりを見回していた。
「……」
「外へ出られよ」
正信は、ぐいと身を乗り出した。
和永はなおも、断る言葉を探しているようだった。
その様子を見て、正信は小さく息を吐いた。
「……兄上によく似ておられるの」
そう呟くと、正信は立ち上がった。
「また来る。考えておいてくれ」
正信は太助を伴って寺を出ていった。
静かになった部屋で、和永はぽつりと呟いた。
「私は、外へは出たくない」
誰に聞かせるでもない声だった。
それから、ふと天井を見上げた。
「武秀。いるんだろう」
武秀は、ぎくりとした。
「おりてきたらどうだ」
――まったく。何もかもお見通しか。
武秀は心の中でぼやきながら、しぶしぶ姿を現した。
「……断るんだな」
和永は答えなかった。
武秀は、しばらく和永を見つめた。
「和永」
「なんだ」
「俺は、城が息苦しくてここに来ている」
武秀は部屋の中を見回した。
「ここは心地いい」
和永は黙って聞いていた。
「お前の心配も、よく分かる。城へ来れば、嫌なこともあるだろう。だが……」
武秀は、一度言葉を切った。
それを口にすれば、和永を困らせると分かっていた。
それでも、言わずにはいられなかった。
「俺は、お前が城に来てくれたら、嬉しいと思う」
「太助が城にあがるという。それでいいだろう」
和永の声は、少しだけ冷たかった。
確かに、大人ばかりに囲まれて育った武秀にとって、太助のような子供が城に来てくれるのは嬉しいことだろう。
けれど、それだけではない。
「俺は、お前にも来てほしい」
武秀は、和永の手を握った。
和永の細い目が、わずかに見開かれる。
「太助は、いいやつだと思う」
武秀は言った。
「俺はきっと、太助と仲良くなれる」
そして、少しだけ笑った。
「でも、俺はこれから、どんどん立場が変わっていく」
和永の手を握る指に、わずかに力がこもる。
「ここには、来られなくなるかもしれない」
小さく息を吸い、続けた。
「お前に、会えなくなるかもしれない」
和永は、何も言えなかった。
いつもは明るいばかりの武秀の黒い瞳が、寂しげに潤んでいる。
その目を見て、和永は思った。
武秀は、孤独なのかもしれない。
寺で世捨て人のように暮らしている自分よりも、ずっと。
和永は、断れない、と思った。
武秀は、自分を男だと頑なに言う。
けれど、和永だけは武秀の秘密を知っている。
そして、自分には化けた者の姿を見抜く目がある。
もしそれが、武秀を守るために役立つのなら。
それは、太助にはできないことだ。
武秀がどこまで意識して言っているのかは分からない。
ただ、会えなくなるのが寂しい。
近くにいてほしい。
それだけの、わがままなのかもしれない。
それでも――。
和永は、武秀に弱かった。
「……酷なことを言う」
和永は、困ったように笑った。
たとえ城で、狐との混血と後ろ指をさされようとも。
武秀のそばにいて、支えてやりたい。
和永は静かに息を吐いた。
そして、武秀に握られていた手を、そっと離した。
「では……」
和永は、主従の距離を確かめるように、武秀へ頭を下げた。
「あなたにお仕えしましょう。武秀様」
その瞬間。
武秀は、胸の奥に小さな痛みを覚えた。
和永が城に来る。
これからは、いつでも会える。
それは嬉しい。
自分が望んだことだ。
けれど、和永は今、頭を下げた。
今までは自分の隣に座り、頭を撫でてくれていた和永が、臣下の礼を取っている。
もう、今までのように気楽には甘えられない。
自分が望んだはずなのに。
武秀は、和永との距離が変わってしまったことに、一抹の寂しさを覚えた。




