父と子
夕暮れ時、武秀は父に呼び出され、病床へ向かった。
武秀が部屋に入ると、父は人払いを命じた。
部屋のなかは薄暗かった。
死期の近い者が伏す病床とは、このように暗いものなのかと、武秀は思った。
「武秀、近う」
手招かれ、武秀は父・武信の枕辺に座った。
「吉乃とは、仲良くしておるか」
「え……あ、はい」
父に改めて尋ねられると、なにゆえか恥ずかしさが込み上げる。
武秀の顔を見て、武信はふっと笑った。
「お前は昔から、人の心をつかむのが上手かった……誠、当主の器であるの」
武秀の胸が、微かに痛んだ。
「わしには似ず、闊達で、賢く……世継ぎとして申し分のない資質を持っているのに……惜しいことじゃ」
父の目は、どこか遠くを見ているようだった。
惜しい、とは、年若いことを言っているのであろうか。
父の言葉の意図が、武秀にはわからなかった。
「武秀……先のないものの戯言として、聞いて欲しい」
父は天井を見つめたまま言った。
「はい」
父の声は、か細く掠れている。
聞き逃すまいと、武秀は父の口元に耳を寄せた。
「正信は、狐と和議を結んだことを弱腰であると、わしをなじっておった。だが、正信が深く敬愛する兄上こそ、和議を望んでおったのだ。それも、ずっと昔から……」
「……伯父上が」
武秀の伯父であり、和永の父である和信は、狐の間者と恋に落ちたゆえに家を捨てたと聞いている。
それは事実と異なる、と父は言いたいのだろうか。
「兄上こそ、両族が仲良くなることを望んで、動いていた……それなのに、母の、福富家の陰謀に嵌まり、出家させられたのだと、わしは思う」
福富家は、武信の母・お妙の生家で、狸の一族きっての豪商である。
「母は元は側室で、正室の松の方を憎んでおった。松の方は名門久慈家の姫であることを誇り、金ばかりで家格の低い母を、何かと見下していたからの」
「父上を当主とするために、福富家とお妙様が手を組んで……伯父上を失脚させたと申されるか」
父の想像に過ぎないのであろうか。
だが、あり得ぬ話ではないと思う。
しかし、聡明で人望も厚かったと聞く伯父が、そう簡単に陰謀に嵌まるであろうか。
「狐の一族は、長く藤白家が実権を握っていた。しかし、事件のあと、藤白家は没落し、本来は神事のみを司っていたはずの大白家が実権を握った」
「……まさか、狐方に協力者がいた、と」
「協力していたかはわからぬ。ただ、双方の思惑が一致したとは考えられる」
そうだとすれば、伯父は和議を望みながら、狸の一族と狐の一族、その両方から罠にはめられたというのか。
「なにゆえ……今まで口を閉ざしておられたのです」
父を責めるのは筋違いだと思いながらも、武秀は言わずにはいられなかった。
「想像のことじゃ。証拠がない」
「……」
「それに……わしは、母に頭が上がらなかった。母を問いただすことができなかった」
気弱な父は、実母への疑いを抱きながらも、身動きが取れなかったということか。
それは、母に反発心を持ちながらも、逆らうことのできない自分と似ている、と武秀は思った。
「母には意見できず、妻の言いなりでもあり、わしは愚かな当主であった」
「そんなことはございません」
武秀は父の手を握った。
「伯父上にも成せなかった和議を、父上は成立させたではありませぬか」
「時勢が違っただけじゃ。兄のときとは、時勢が違った」
「いいえ、父上だからこそ成せたことです」
父の手を握る手に力がこもる。
父は、武秀の手を握り返す力さえ、もはや残っていないようだった。
「和議……か。千代はこの先、どうするつもりであろうか」
「どうする……とは?」
「そなたと吉乃がいかに仲睦まじい夫婦であろうとも、子はできぬものを……」
どくん、と武秀の心臓が跳ねた。
父は、吉乃が男であると知っているのであろうか。
それとも、まさか、自分のことを―。
「千代は、昔から気が強く、わがままな女であった。だが、気弱なわしには、それがちょうどよかった」
「……父上は、母上を愛しておられたのか」
父は答えなかった。
ただ、僅かに口元を緩めただけだった。
「わしは、千代の嘘を信じた」
武秀の心音が速まる。
「よいか、武秀。嘘をついたら、つき通さねばならぬ。信じたならば、信じきらねばならぬ」
「……」
「それが、化けるものの一族のなかで生きるということじゃ」
武秀の手から力が抜け、握っていた父の手が、するりと滑り落ちた。
「お前には、辛い思いをさせるの……」
武秀は、何も言うことができなかった。
父はまた、深い眠りへと落ちていく。
まるで、死に引きずられるように。
ここのところ、武信は眠っている時間が長くなった。
布団のなかにいてもわかるほど、父の身体は薄くなっていた。
力なく落ちた腕は、枯れ枝のように細い。
「……父上っ」
武秀は一人、肩を震わせた。
*
寝所に入ってきた武秀の暗い顔を見て、吉乃は驚いたように駆け寄った。
「いかがなさいましたか」
武秀は力なく、その場に座り込んだ。
ゆっくりと吉乃を見上げる。
―父は、いつから自分のことを知っていたのか。
武秀の目に映る吉乃の顔が、歪んだ。
吉乃は、父から命じられて十歳の頃より女の姿をしていると言っていた。
自分とは置かれた状況が違う。
それでも武秀は、ふと、本当の吉乃を知りたいと思った。
「吉乃……」
「はい……」
「お前、本当の名はなんという」
吉乃は、急に何を言い出すのかと、武秀の顔を見た。
いつもの明るい瞳とは違う。
暗く沈んだ目をしていた。
その様子に戸惑いながらも、吉乃は答えた。
「吉次……と、申しました……」
自分でも、久しく忘れていた名前だった。
それは、暗い記憶とともにある。
母がつけ、父に奪われた、本当の名前。
「吉次……か。吉乃には、男として生きていた時が、確かにあったのだな」
武秀には、女としての名がない。
女として生きたこともない。
「その姿に、疲れることはないか」
吉乃には、なぜ急に武秀がそのようなことを言い出したのか、わからなかった。
「ないとは言えませんが……」
ずっと化け続けることは、心身に強い負荷がかかる。
同時に、化ける時間が長くなるほど、感覚は麻痺していく。
自分が無理をしているということすら、忘れてしまうのだ。
「吉次の姿を、一度、見てみたい」
自分は、戻り方を忘れた。
吉乃は、戻ることができるのであろうか。
武秀の申し出に、吉乃はますます困惑した。
もう何年も晒したことのない本当の姿を、なぜ今更見たいというのか。
「俺は……少し、嘘に疲れた……」
武秀は言った。
父の言葉を思い出す。
嘘をつき通せ、とは。
言われずとも、そのつもりであった。
それなのに、何かが自分のなかで揺らいでいく。
「吉次の本当の顔を見たい」
まるで哀願するように言われる。
いつにない武秀の様子に、吉乃は断りがたいと思った。
吉乃は戸惑いながらも、静かに術を解いた。
涼やかな切れ長の目。
すっとした鼻も、薄い唇も、目の色も、女であった時と変わらない。
ただ、形のよいきりりとした眉や、とがった喉仏が、いかにも男らしかった。
筋肉の少ないすらりとした体躯で、上背が高い。
「夜着が、つんつるてんではないか」
武秀は吉乃の手元と足元を見て、思わず笑った。
笑って、笑って、最後に泣いた。
「なかなか良い男だったのだな、お前は」
吉乃は、褒められているのか、貶されているのかわからないと思った。
なぜ武秀が泣いたのかも、わからない。
「お笑いになるのでは戻りますよ」
そう言って化けようとしたとき、急に武秀が抱きついてきた。
肩が震えている。
どうやら、先ほどより一層泣いているようだった。
吉乃はわけがわからず、男の姿のまま、そっと武秀を抱きしめた。
武秀は、戻れるものであれば、今ここで自分も術を解いてしまいたいと思った。
しかし、父の言葉がそれを阻む。
父は、母の嘘を知っていた。
死の間際になるまで、そのことを明かさなかった。
言えずにいたのなら、最後まで言わないで欲しかった。
父の言葉は、呪いのようだと思った。
吉乃は術を解けても、自分には術を解くことができない。
それでも。
なぜ、こんなにも。
吉乃の前で、女に戻れたらよかったのに、と思うのだろうか。
「武秀様」
戸の向こうから声がかかった。
吉乃は即座に女の姿に戻った。
武秀も、涙を悟られぬように拭う。
和永の声だった。
「今日の宿直番はお前だったのか」
武秀は、いつもと変わらぬ声で言った。
その声には、ほんの僅かな震えさえない。
和永が夜半に、このような奥まで自ら呼びに来る。
そのように急を要することとは―。
「武信様が、ご危篤とのことです」
「わかった。すぐに行く」
武秀が部屋を出て行こうとした、そのとき。
吉乃は、はっと息をのんだ。
一瞬、武秀の背が小さく見えた。
細い肩。
やわらかな曲線を描く後ろ姿。
それはまるで。
「……女?」
いや、そんなはずはない、と吉乃は思った。
あわただしく、武秀と和永が廊下を行く音がする。
「まさか……見間違えだ」
父の死が近いために、武秀は弱っていたのだろう。
だから、小さく見えたのだ。
吉乃は、先ほどまで自分に抱きついていた武秀のぬくもりが、急激に冷めていくのを感じた。




