解けた術
和永にともなわれて父の部屋へ入ると、枕辺には千代と正信がいた。
その他にも、何人かの重臣が父の床を囲んでいる。
父は、呼吸が途切れ途切れになり、肩やあごを動かして、あえぐように息をしていた。
もはや、口をきくこともできぬようであった。
呼吸の間隔が、少しずつ長くなっていく。
その父の手を、母・千代が握りしめていた。
武秀も父に駆け寄る。
母の手から父の手を奪うようにして、きつく握りしめた。
「父上、武秀がここにおりますよ」
武秀は大きな声で父に呼びかけた。
一瞬、父の目が開いたように見えた。
口が動くが、何を言っているのかまではわからない。
喉の奥が、ごろごろと鳴るばかりである。
苦しそうな呼吸は次第に間が空き、何度か呼吸が止まった。
そして次第に、苦悶にゆがんでいるかに見えた父の顔が、穏やかになっていく。
一回、二回。
……三回。
………四回。
呼吸が途切れた。
最後に、小さく空気の抜けるような音がした。
しん、と室内が静まり返る。
侍医が武信の腕を取り、脈をとった。
それから口元と胸元に顔を近づけ、再び脈をとる。
そして、重い口を開くと、侍医は言った。
「ご臨終です」
わっと千代が武信に覆いかぶさるように泣いた。
武秀は茫然とした。
涙は出ない。
ただ、泣いている母を見ていた。
母は、ひとしきり泣くと、正信の方をきっと睨んで言った。
「そなたが、殿の寿命を縮めたのじゃ」
急な言葉に、武信をただ見つめていた正信が顔を上げる。
「異なことを。千代の方こそ、兄上のご心労を増したのではありませぬか」
「いいや、もともとお身体が弱かった殿に、そなたが何度も強く意見をし、心労をかけたのじゃ」
「身体が弱いならば、当主になどならなければよかったのだ」
そのあまりの言いように、千代は掴みかからんばかりの勢いで言った。
「そなたには、兄を助ける気はなかったのか。いつも和信、和信と。殿が死ぬのを待っていたのであろう」
「あなたこそ、兄上を利用していたのではないか。我が子が当主となるに相応しい年齢になるまで。ただ、自己保身のために兄上の延命を願ったのではないか」
「静かにしてください!」
武秀の一喝に、千代と正信は思わず口を閉じた。
「今……父上が、身罷られたのです。なぜ、その枕辺で、そのように声を荒らげることができるのです」
武秀は、薄く開いていた父の瞼をそっと閉じた。
「今は、ただ、静かに眠らせてあげてください」
言い終えると、武秀は静かに立ち上がった。
そして顔を上げ、周囲を見渡す。
家臣たちの視線が、武秀に集まった。
武秀は言った。
「世継ぎは、この武秀である。葬儀から即位式まで滞りなく進むよう、各々、役割をよく果たせ」
父を亡くしたばかりの十五の少年とは思えぬ毅然とした態度に、重臣たちは思わず身を縮こませるように平伏した。
正信でさえも、拳を床につけ、頭を下げた。
武秀は「万事滞りなくいたせよ」と言うと、部屋を出た。
部屋の外に控えていた家臣たちも、武秀の姿を見るなり、恐れ入るように平伏した。
武秀は何も言わず、その場を後にした。
廊下を進むほどに、武秀の足が速まる。
武秀の後を追って部屋を出てきた和永が、小走りでその後に続いた。
歩きながら、武秀のなかで何かが崩れ落ちていく。
身体と思考が、分離していく。
景色がゆがむ。
動悸がする。
苦しい。
胸が引き裂かれそうだ。
だが、倒れることは許されない。
葬儀を行い、即位式を行い、他の者を黙らせる。
その後も、ずっとその後も。
自分は一生、人を欺き続けるのだ。
立派な当主にならねばならぬ。
そう思うのに―。
くすん、
くすん……
どこかで、幼い女の子の泣き声が聞こえる。
踏みつけられた、赤い花。
息ができない、と武秀は思った。
「武秀様っ」
倒れそうになる武秀を、和永はとっさに支えた。
その姿を見て、和永ははっと息をのむ。
武秀の姿が揺らいでいたのだ。
和永は、ここで術が解けてはいけないと、自分の羽織りを素早く脱ぎ、武秀の頭に被せた。
「ここでは人目につきます。今しばらくご辛抱を」
そう言いながら、和永は武秀を抱えるようにして廊下を駆けた。
人気のないところまで来ると、今は使われていない小部屋に入った。
羽織りを取ると、そこには女の姿で、苦しそうに喘ぐ武秀がいた。
とにかく呼吸を落ち着かせなければならない。
和永は武秀の口元に手を添え、背を撫でた。
「ゆっくり、ゆっくり、吐いてください」
はっ、はっと、必死に息を吸おうとしていた武秀は、和永に言われ、何とか息を吐いた。
それから今度は、途切れ途切れに息を吸い、ゆっくりと吐き出した。
それでも、武秀は男の姿に戻ることができなかった。
「どうしよう……どうしよう、和永……」
武秀は小さな手で、和永の胸元を掴んだ。
「……化けられない」
その言葉には、深い絶望の色があった。
「なぜ……こんなときに……」
そう言って泣き崩れる武秀を、和永はかき抱いた。
そのとき。
かたん、と背後で音がした。
はっとして振り返ると、そこには綾女が立っていた。
「そこにいるのは、武秀様ですか」
和永はさっと武秀の頭に羽織りを被せ、その姿を隠すように前に立った。
「千代様のご実家での事故死……隠したかったものは、このことでしたか」
「綾女!」
和永はとっさに刀を抜いた。
綾女は猫に変ずると、ひらりとそれをよけた。
よりにもよって、綾女に見られるとは。
和永は素早く手を伸ばし、逃げようとする綾女を捕まえた。
逃げようとしたところを引っ張られ、綾女は猫の姿のまま床に転がった。
和永は歯で自らの衣を裂くと、猫の首にそれをきつく巻き付けた。
ぎりぎりと首を締め上げる。
「今、人間に戻ってみよ。首が締まるぞ」
綾女はなんとかもがいて逃れようとしたが、どうしても抜け出せなかった。
和永は猫の姿のままの綾女を隠すように抱きかかえると、狸の侍女の姿に変じた。
どうすればいい、と和永は自問した。
誰を頼ればいい?
太助は隠し事ができない。
叔父上にも言えない。
いったい、誰を頼ればいいというのか。
和永は侍女の姿のまま、奥の間へ駆け込んだ。
吉乃が顔を上げる。
肩で息をした見慣れぬ侍女が、猫の首を締め上げたまま部屋に入ってきた。
「何事です?」
吉乃の顔を見て、和永は、なぜ自分はここに来てしまったのだろうかと思った。
しかし、ここ以外に武秀を隠せる場所はないとも思った。
手荒に猫を吉乃へ投げよこすと、
「その猫を絶対に逃がすな」
と言って、部屋を駆け出していった。
しばらくして、羽織りを被せられた女を連れて、侍女が戻ってきた。
そこで初めて、和永は元の姿に戻った。
「お前……」
吉乃は和永の姿を見て驚いた。
和永がこれほどまでに慌てて、隠すように連れてきた女はいったい何者であろうか。
はらりと、羽織りが落ちる。
その泣き顔に、覚えがあった。
吉乃は細い目を大きく見開いた。
「……殿……?」
猫がじたばたと暴れる。
また逃げようとするのを、和永が捕らえた。
首の紐を解く代わりに、両手を縛り上げる。
ふっと猫が綾女の姿に戻った。
首元には赤い痕が残っていた。
「綾女?」
綾女は、自分の手を縛り上げた和永を睨んでいる。
「これは……どういうことだ……」
吉乃は、その場に立ち尽くした。




