吉乃
ずっと暗闇のなかを生きてきた。
狐の一族のなかでも、最下層の者が住まう場所。
そのなかでも、馬鹿にされるような存在だった。
「私の父は大白様だ」
そう怒鳴れば、子どもたちは一斉に石を投げ、嘲笑った。
「こんなところに大白様の子がいるものか」
「嘘つき吉次」
片足を引きずり、夕暮れの村を歩く。
帰る場所などなかった。
人家や畑から食べ物を盗んでは、捕まり、手痛く打たれた。
なにも食べるものがないときは、草の根を食み、川の水を飲んだ。
――『吉次』。ずっと忘れていた、私の本当の名前。
母は、大白家の下女だった。
清史の手がつき、吉次を身ごもった。
そのことが正妻の怒りにふれ、身重のまま、屋敷から放りだされた。
親切な老夫婦に拾われ、子を産んだ。
老夫婦が死に、その親族から家を出るよう言われると、その後は、身体を売って僅かな金を稼いだ。
そして、病になり、吉次を残して死んだ。
生前、母は何度も吉次に言った。
お前は、大白清史の子であると。
大白家は、能力のあるものを尊ぶ。
化ける能力さえ磨けば、いつかきっと父がお前を迎えにきてくれるはずだと。
吉次は、いじめられながらも、日々、化ける修行をし続けた。
悔しくて、悔しくて、気が狂いそうになる日ほど、一層厳しい修行をした。
次第に、周りは、吉次の化ける能力を恐れるようになり、いじめられることもなくなっていった。
吉次が十二歳になった頃である。
大白家から呼び出しがあった。
吉次は、天にも昇る心地であった。
やはり自分は大白家の子であるのだと。
父は、自分の能力を認めてくれたのだと。
はじめて父に対面したとき、吉次は頭をあげられなかった。
父は、吉次に何も語りかけなかった。
ただ、「化けてみせよ」とのみ言った。
「……は」
「化けの上手ときいて召し出したのだ。娘に化けてみよ」
吉次は、父との冷たい対面に落胆しつつも、ふっと娘に化けた。
金色の瞳に、白い肌。輝くような白銀の髪。
父はそれをみて、一瞬驚いたような顔をした。
大白家の女の特徴を、あまりにもよく模倣していたからだ。
「大白家の屋敷に、住むがよい」
父の言葉に、吉次は、自分の長年の苦労が報われたように思った。
術を解こうとすると、それを父は止めた。
「娘のままでいよ」
「しかし……」
「家中の者にも、男であることを明かしてはならぬ。一生、娘のままでいろと言ったのだ」
そう言うと、父は、とんと扇子の先を吉次の首にあてた。
「男とばれれば、その命、ないと思え」
以来、吉乃という名を与えられ、屋敷の奥深くに隠されるように育った。
父は、初対面のとき以来、吉乃を訪ねることはなかった。
ただ、毎日、毎日、さまざまなことを学ばされた。
書、舞、琴、薬や毒の知識まで。
その内容は多岐にわたった。
外にいるときより、一層この屋敷は孤独だと吉乃は思った。
そんなとき、太陽が顔を出した。
「こんにちは」
急に現れた青年に、吉乃は怯えた。
「……誰?」
「大白長松、きみの兄だ」
「……兄上」
輝くような白銀の髪が同じである。
面差しも、自分に似ている。
しかし、いつも陰鬱とした自分の表情とは違い、兄は明るくいかにも利発そうな顔をしていた。
「まったく、父上も人が悪い。自分にこのような可愛い妹がいると教えてくれないなんて」
「……」
なぜだか、吉乃は急に泣きたくなった。
人前で泣いたことなど、ずっとなかったのに。
吉乃の目が潤んでいるのをみて、兄は、少し戸惑ってから、よしよしと頭を撫でてくれた。
それから、「寂しかったね」と言って抱きしめてくれた。
吉乃は泣いた。
それが、あまりに温かかったから。
兄は、それから父の目を盗んでは、吉乃のところへ顔を出してくれるようになった。
あるときは本を。
あるときは、飴細工を持ってきてくれた。
「…可愛い」
初めてみる、きらきらと光る飴細工に吉乃は目を輝かした。
「食べるのがもったいないです」
そういう吉乃に兄はくすくす笑って、「食べないともったいないんだよ」と言って、それを口に入れた。
吉乃も、兄を真似て、飴を口に入れる。
「……美味しいです」
また、涙が出そうになる。
「吉乃は泣き虫だなあ」
兄は、また頭を撫でてくれた。
兄に会えることだけが、吉乃の楽しみになった。
兄には、なんでも話した。
出自のこと、日々の稽古のこと、そして自分の性別の秘密までも。
兄が来ることだけを楽しみに、吉乃は稽古や勉学に励んだ。
吉乃が十六歳になったとき。
しばらく兄が来なくなった。
狸の一族と、いくつかの大きな戦があったときく。
兄は、会えば明るく温かかったが、ふとしたときに、大白家の長男としての覚悟からか、ひどく怖い顔をすることがあった。
外の兄は、どんな様子であろうかと吉乃は、兄を思った。
そんなとき、夜中にすっと戸が開いた。
「……誰?」
返事はない。
とたん、強い力で口を押さえつけられた。
見慣れぬ男だった。
わけもわからぬうちに、娘の姿のまま犯された。
男に戻ろうとしたが、何らかの方法で術を封じられたのか、元の姿に戻ることができなかった。
嗅ぎなれない香。
口に入れられた、何かの薬。
朝がきて、そこここに残る痕をみた。
胸をかきむしりたくなるほどの不快感が全身を襲う。
死にたい、と思った。
悪夢は、それで終わらなかった。
男はその後も、度々やってきた。
ときには複数人のこともあった。
なぜ自分がこんな目にあうのかわからなかった。
後になって思えば、自分は、仕込まれていたのだ。
男を籠絡する術を。
兄には、会わせる顔がないと思った。
元々は下賤の生まれ。
表で生きる兄に、自分はそもそも会ってはいけない人間なのだ。
一年程経ったであろうか。
兄が久しぶりに訪ねてきた。
吉乃は、自分でも驚くほどよそよそしく兄を迎えた。
兄は、自分のことをどれだけ知っているのだろうか。
恥ずかしい、と思った。
「吉乃……」
兄は何も言わずに吉乃を抱きしめた。
そのとき、吉乃は、兄の片腕がないことに気がついた。
「どうなされたのです!?」
吉乃は、驚いて兄に尋ねた。
先の狸の一族との戦で、片腕を失ったという。
「しばらく、うちは不利になるだろうね」
兄は言った。
「戦は好きじゃない」
「……兄上は、きっと戦場では勇猛果敢に戦われることでしょう」
私も、男として、兄の横で一緒に刀を振るえたらどんなによかっただろうか。
女のまま生きるように言われ、汚され、自分の行き先にどのような希望があろうか。
「戦うのは、当たり前だよ。僕は、大白家の長男だから」
兄はどこかあきらめたように言った。
「でも、思うときがあるんだ。こんな戦乱の世の中、おかしいって。仲良くなれれば、それが一番いいのにって」
それからまたしばらくたった頃、急に、父が吉乃のもとへ来た。
そして、「お前の嫁入り先が決まった」と告げた。
吉乃は、一瞬かたまった。
それから、ようやく「……私は、男です」と言った。
父は吉乃の言葉など意にかいさぬふうであった。
「わが一族は今までになく不利な情勢にある。狸の一族と和議を結び、その証として、お前を、嫁がせる」
「……」
「時間を稼げればそれでよい。狸の若造を誑かしてこい」
「……それで、その後は……」
「殺せ」
吉乃はぐっと唇をかんだ。
父は、捨て駒として使うために、自分を拾ったのだ。
誑かせと、父は言った。
自分を犯した男たちは、おそらく父の命により動いていたのだ。
激しい怒りがわきあがる。
今すぐ、この男を、殺してやりたいと思った。
しかし、狐の一族には、兄がいる。
ただ一人、自分に優しくしてくれた兄・長松が。
いつか兄が言っていた。
仲良くなれれば、それが一番よいと。
いま、狐の一族は不利だという。
兄は戦で片腕を失った。
自分が狸の根城に入り込めば、兄の助けになるのだろうか。
いつか、兄の隣で一緒に戦いたいと思った。
「……承知……いたしました……」
吉乃は、頭を下げた。
自分は化ける能力を買われて拾われた。
そして、利用された。
血のにじむような努力をして、手に入れたかったものは、いったいなんだったのであろうか。
兄から離れて、狸の土地へきて、武秀に会って。
明るい笑顔と、世継ぎとしての自覚が、兄に似ていると思った。
甘やかしながら、癒されていた。
化ける能力がなければ、出会わなかった。
そして、化ける能力があったゆえに、手に入らなかった。
寝屋にはもう来なくてよいと言われた。
自分は、すべてにおいて敗北したのだ。




