紅葉
ざわざわと人が引けていく。
太助は、まだぼうっとしていた。
その頭を、正信がぴしゃりと叩く。
「用心せぬか。この馬鹿者」
父親に怒られ、太助は小さくなった。
正信は吉乃に一礼すると、まだ説教が足りぬというように、太助を引っ張っていった。
その場には、武秀、吉乃、和永が残された。
和永は、なぜ助けられたのかわからず、吉乃を疑いの目で見た。
「これで、貸しがひとつできましたね」
吉乃はにっこりと笑って言った。
助けてやったのだから、何かに気づいていたとしても、余計なことは言うな。
そういう意味だった。
武秀は、ただ「よかった」とだけ言った。
和永は一礼し、その場を去った。
処分こそ免れたものの、人の口に戸は立てられない。
噂には尾ひれがつき、「和永が綾女と逢瀬を重ねており、それを主君から咎められた」という話になって広まった。
「まあ、よかったじゃないか、和永」
太助に肩を叩かれ、和永は、何がよいものかと思った。
綾女が書庫に忍び込んでいたことは忘れ去られ、こともあろうに、自分と綾女が恋仲だという噂が広まっている。
武秀に、吉乃のことも伝えられていない。
何より、目の前で武秀が吉乃を抱きしめた光景が、和永にはつらかった。
だが、借りは借りだ。
こんなもの、さっさと返してしまいたい。
和永はそう思った。
*
「どういうおつもりですか」
綾女は、痛めた腹をかばうようにして布団に横たわっていた。
その枕元には、吉乃がいる。
「お前を助けたのだ。下手に動くなと言ってあっただろう。反省しろ」
吉乃は男言葉で綾女を叱りつけた。
「私のためではなく、狸男の友だちのための行動に見えましたが」
吉乃は答えなかった。
「書庫で何を探っていた」
逆に、吉乃が綾女に問うた。
綾女は周囲を見渡し、自分と吉乃のほかに誰もいないことを確かめた。
それから、声を落として言った。
「死んでいるんですよ」
「死んでいる?」
「武秀が生まれてから数年のうちに、あの男の母親の実家で、大勢の人が死んでいます」
吉乃は眉をひそめた。
「いずれも事故死ですが、数年の間に、侍女や家人がすっかり入れ替わるなど、偶然でありえましょうか。死人に口なしと申します」
「……口封じか。しかし、何のために」
「さあ」
綾女は、まだ痛む腹を押さえた。
「私はしばらく動けませぬゆえ、ご自分でお確かめになればよろしいでしょう」
綾女は、今回の吉乃の振る舞いに納得がいかないようだった。
自分は狐の一族のために動いていた。
それなのに、単なる恋に走った侍女として噂を流されたことが、気に入らない。
あの女もそうだった、と綾女は思った。
和永の母は狐の一族の間者でありながら、狸の男と恋に落ち、一族を裏切ったと聞く。
そのせいで、かつては狐の一族の筆頭家であった名門藤白家は没落し、大白家にその座を奪われた。
綾女は、本来ならば主筋であるにもかかわらず、意に添わぬまま、偽りの花嫁の侍女頭にされたのだ。
ならば、家の汚名を返上しようと動いていた矢先に、こともあろうに、憎い女の息子と恋仲だと噂されることになろうとは。
「お前が、和永に呼び出されたなどと言い訳をしたのが、事の発端であろう」
恨まれる筋合いはないと、吉乃は思った。
「他に、あの場でどのような言い訳ができたというのです」
綾女は不満げに頬を膨らませた。
面倒な女が侍女頭になったものだ、と吉乃は思う。
そもそも吉乃は、女のなりをしていても、女が嫌いだった。
勝手に行動して捕まり、挙げ句に適当な言い訳をした綾女を、吉乃は苦々しく思った。
自分の周りにいる、噂好きな女たちにも嫌気がさしている。
思えば、自分には狸男を誑かすくらいの役割がちょうどよいのではないか。
吉乃はそう思った。
あれ以来、自分の評判は上がったはずだ。
少なくとも、和議のために嫁いできた者としての役割は果たしている。
二人の本当の距離がどうあれ、衆目の前で武秀に抱きしめられたことを思い出した。
ーー綾女を助け、こちらが怪しまれぬように動いたにすぎぬ。
武秀は、太助と和永が問題を起こしたのを見て、ひどく慌てていた。
従兄弟であり、幼馴染であり、従者であり……政敵にもなりうる。
だが、武秀にとって太助と和永は、何よりも大切な存在なのだろう。
以前、武秀は太助と和永のことを楽しそうに話していた。
自分が守りたかったものは、いったい何だったのだろう。
吉乃は、赤く染まった紅葉が、風に吹かれてはらはらと散っていくのを眺めていた。
「吉乃は、紅葉が好きなの」
飽かず紅葉を眺めている吉乃に、武秀が声をかけた。
「狐にとって、赤は特別な色です」
吉乃は紅葉を見たまま答えた。
「特別……?」
「そうですね。大事な人への贈り物ですとか、祝い事に用いたりですとか。そういうとき、狐は赤いものを選びます」
武秀は、幼い頃、和永が自分の髪に赤い花を挿してくれたことを思い出した。
母に奪われ、ぐちゃぐちゃに踏みつけられた赤い花。
「赤い花には、何か特別な意味があったりするの……?」
「愛する人への贈り物です」
吉乃は、ただ知識としてそのことを話した。
自分は、赤い花など特に好きではない。
ただ、燃えるように赤い紅葉には、強く心を惹かれた。
風に吹かれて頼りなく散りゆくさまに、もののあわれを感じる。
「愛する人……」
武秀は、今回の事件で、和永に流れる血の半分が狐のものであることを、改めて思い知らされた。
綾女が和永に呼び出されたと証言したとき、和永に限ってそんなことはないと、武秀は強く否定した。
それは、和永が幼い頃から、狐との混血という中傷を受けぬよう、執拗なまでに狐を嫌い、用心していたことを知っているからだ。
そう。武秀が知っているのは、それだけだった。
「……朴念仁のあいつが、そんなの知っていたわけない……か」
「あいつ、とは?」
吉乃はふと、武秀は昔、赤い花を贈られたことがあるのではないかと思った。
しかし、狸が赤を好むという話は聞いたことがない。
もし、武秀の身近な者が赤い花を贈ったのだとすれば―。
「和永殿……ですか」
「そう、和永」
武秀はあっさりと認め、遠くを見やった。
和永の名を口にするとき、武秀はときおり、懐かしく、もう手に入らないものを追うかのように、遠くを見ることがある。
そこにどのような想いがあるのか、吉乃には知る由もない。
「いいやつなんだ。真面目で、正直で……」
寺にいた頃、兄弟のように遊んだ。
兄がいれば、このようなものかと思った。
外へ出たくないという和永を城へ来るよう誘ったのは、幼い自分のわがままだった。
「大事な方なのですね」
吉乃は、少し胸がざわつくのを覚えた。
主従の情。
男同士のこと。
そう思うのに、何かが心につかえる。
「あのとき、吉乃が和永と太助を庇ってくれたこと。本当に嬉しかった」
そう言われると、まるで、自分が武秀のために表へ出たかのようだった。
違う。そうではない。
吉乃は心の内で強く否定した。
私は、侍女頭の綾女を庇ったのだ。
自分の立場が危うくならぬように。
「ねえ、吉乃……」
「はい」
風に舞い散る紅葉の一枚が、吉乃の髪を飾った。
武秀はその紅葉に手を伸ばし、言った。
「和永は、俺に、嘘をつかない」
吉乃の髪から紅葉を取り、武秀はそれをぐしゃりと握りしめた。
「ねえ、吉乃……綾女はあの書庫で、何を見つけたの」




