疑惑
「武秀様……武秀様っ」
夜中、部屋の外から武秀を呼ぶ声がした。
寝所には近寄るべからずと伝えてある。
それにもかかわらず呼び起こされたことに、武秀は胸騒ぎを覚えた。
真っ先に頭をよぎったのは、父の容態が急変したのではないかということだった。
「何事か」
武秀は夜着に上着を羽織り、外へ出た。
「綾女殿が、太助殿に傷つけられた由」
その言葉に、吉乃も起き上がった。
「綾女が、なにゆえ……」
大人しくしているように言ったはずなのに、いったい何があったのか。
「傷は深いのか」
「それがしも、詳しくは……」
「何故、そのようなことになった」
「はぁ……」
要領を得ない返答に業を煮やし、武秀は現場へと駆けつけた。
そこには、宿直番たちに囲まれ、茫然と立ち尽くす太助と、倒れている綾女がいた。
その傍らでは、和永が太助の肩を支えていた。
「何をしている。綾女を早く医師に見せよ」
武秀の声に、何人かが慌てて医師を呼びに走った。
「何があった」
問われた太助は、まだ何が起きたのかわからぬという様子で答えた。
「俺は、ただ……走ってきた猫を止めようと……」
「猫?」
「綾女が猫に化けて、書庫に忍び込んでいたんです」
太助に代わり、和永が答えた。
真偽を問いただそうにも、綾女はぐったりとして動かない。
「これはこれは……」
奥から聞こえた声に振り向くと、千代が立っていた。
「花嫁の侍女頭を傷つけるとは、どのようなおつもりか」
「違います。太助はただ……」
「和永も一枚かんでおるのか」
千代は和永の言葉を遮った。
「聞けば、綾女は藤白綾女というそうな……」
その言葉に、和永の表情が硬くなる。
「藤白家は、そなたの母御の生家であったのう」
武秀は、千代の発言の意図に気づき、人払いをしようとした。
だが、千代はそれを制した。
まるで周囲に聞かせるかのように、はっきりと言葉を継ぐ。
「綾女と組み、影で動いておったか」
「……違います」
「もしくは、此度の婚儀に反対であった正信からの指示か」
「違います! 綾女が書庫に忍び込み、こちらの内情を探っていたようなので、捕らえようとしました。私と太助で挟み撃ちにしようとしたところ、当たり所が悪く、このようなことになったのです」
和永は事の次第を述べたが、周囲は疑いの目を向けた。
もとより、狐との混血児である和永に向けられる目は冷たかった。
近頃は、そうした目を向けられることもなくなっていた。
だが、ひとたび疑わしいことが起これば、和永の言葉よりも千代の言い分のほうが、周囲にはもっともらしく聞こえる。
「古狸どもは覚えておろう。和永の母が、狐の一族も狸の一族も裏切り、両族を混乱させたことを」
「母上、和永の母親のことは、和永の預かり知らぬところ。和永は幼少の頃より父母と離れ、久慈家に養子に入っております」
武秀は和永をかばうように、早口で言った。
「武秀、そなたは甘い。夜明けとともに、早々に詮議にかけようぞ」
数人が太助と和永を後ろ手に縛り上げ、連れ去った。
綾女は医師のもとへと運ばれていった。
武秀は、これは単なる事故にすぎぬと思った。
日頃から正信や和永をよく思っていない母に、利用されたにすぎないのだと。
綾女さえ目を覚ませば、事の次第も明らかになろう。
武秀ははやる気持ちを抑え、いったん部屋へと戻った。
事の次第を聞いた吉乃は、眉を寄せた。
「綾女は、正直に話さないでしょう」
武秀も、それは思わないでもなかった。
和永の言葉が真実だとして、綾女は自分が書庫に忍び込んでいたことを告白するだろうか。
綾女に和永を助ける動機はない。
自らに不利になることを、わざわざ話すとも思えなかった。
果たして、夜明けとともに目を覚ました綾女は、こともあろうに、こう言ってのけた。
和永から誘いがあり、夜陰に紛れて会っていたのだと。
まるで、武秀と吉乃、それぞれの従者が逢瀬を重ねていたかのような口ぶりであった。
「和永に限って、そのようなことはするまい!」
武秀は綾女の言葉に憤った。
しかし、昨晩の千代の発言に加え、何よりも、和永の母の生家と綾女の生家が同じ藤白家であったことが、周囲の疑惑を深めていた。
千代は綾女の発言を聞くと、詮議に加わっていた正信に、勝ち誇ったように言った。
「残念であったの、正信」
「千代の方……」
「そなた、殿亡きあと、和信を還俗させる企みがあったのであろう。そして、和永を世継ぎに据えようと……」
正信は強い目で千代を睨みつけた。
「そのように強気でいられるのも、武信あってのことでしょう」
武信に先がないことは知っているのだと、正信は言外に告げていた。
だが、だからこそ千代は、この機に乗じて正信の力を削ぎたかった。
「和永の処分、いかがいたそうか。太助も、狐の侍女頭を傷つけておきながら、何の処分もせずでは、狐方に示しがつきますまい」
「お待ちください!」
唐突にかかった声に、その場にいた者たちの視線が集まった。
視線の先には、吉乃がいた。
「吉乃……」
武秀は驚いたように、その名を口にした。
吉乃は嫁して以来、表向きの政務に口を出したことはおろか、このような場に姿を現したことすらなかった。
「その処分、必要ございませぬ」
吉乃は毅然と言い放った。
「此度のことは、従者と侍女の恋の鞘当てにすぎませぬ。私の侍女が夜陰に紛れて怪しげな動きをしたことは、私の管理不行き届きにございます」
武秀は、いつになく声を張る吉乃を、呆気に取られて見つめた。
「狐方への報告にも及びませぬ」
千代もまた、堂々とした吉乃の言葉に、すぐには反論できないようだった。
「私が嫁しましたのは、両族が手を取り合い、平和な御世を築くため。それならば、和永殿と綾女が惹かれ合うのは、むしろ喜ばしいこと。それが義母上様をはじめ、周囲の方々にあらぬ疑いを抱かせてしまったことは、私の不徳のいたすところです」
一息に言い終えると、吉乃は千代に深々と頭を下げた。
「処分と申しますならば、私に罰をいただきとう存じます」
千代は何も言えず、しばらく黙り込んでいた。
やがて、次の言葉を待つ周囲の視線に気づいたのか、口を開いた。
「今後はこのようなことがなきよう、よく侍女を躾けられよ」
そう言い残し、千代は奥へと下がっていった。
ほう、と正信は息をついた。
太助も、へなへなと力が抜けたようにその場に座り込んだ。
「吉乃!」
武秀は吉乃に駆け寄った。
「出過ぎた真似をいたしました」
吉乃は静かに頭を下げた。
「いや、礼を言う。ありがとう」
そう言うと、武秀は人目もはばからず、吉乃を抱きしめた。




