とまった音
吉乃は、琴を弾きながら武秀の笛の音を聴いた。
澄んだ、良い音だと思った。
だが、どこか物憂げでもある。
もう少し聴いていたい、と吉乃は思った。
そのとき、ふと笛の音が止んだ。
吉乃が顔を上げると、武秀の目が潤んでいた。
「……いかがなさいましたか」
武秀は笛を構えたまま、自分の手が止まったことにも気づいていないようであった。
「殿?」
「……あ」
吉乃の声に、武秀はようやく我に返った。
「吉乃の琴の音が、あまりにも悲しげだったから……」
そう言うと、武秀はやおら吉乃を抱き寄せた。
「吉乃には、何か、悲しいことがあったんじゃないかと思ったんだ」
それは武秀の笛の音も同じだと、吉乃は思った。
そして、自分の音に隠れた悲しみなど、汲み取ってほしくなかったとも思った。
「……秋の曲ゆえ、物悲しさが出たのかもしれません」
吉乃はそう言って、自分を慰めるように抱きしめる武秀の背に手を添えた。
武秀の腕に、ぎゅっと力が入る。
「吉乃は、化けるのが上手だから、自分を誤魔化すことにも慣れているんだね」
吉乃は、はっとした。
自分より年若いゆえ、甘やかしてやろうと思った矢先に、この男は思いがけず自分の心に触れてくる。
そう。
屋敷の奥深くに囲われる前、自分は暗く冷たい場所にいた。
正式に娘と認知されてからも、与えられた場所は、常に脆く崩れやすい崖の上のようであった。
この男は、自分の生い立ちをどれだけ知っているのだろうか。
吉乃は訝った。
いや、生い立ちだけではない。
何故、自分が偽りの姿で敵地に送り込まれたのかまで、知っているのではないか。
そんな疑いも頭をもたげた。
しかし、武秀はそれ以上、何も語ることはなかった。
夜になる。
今夜は、遅れることなく武秀が寝所にやってきた。
二人は、いつものように枕を並べて横になった。
吉乃は、武秀が何をどこまで知っているのか、何を抱えているのか知りたいと思った。
しかし、それは自分が嘘をついていると自白するようなものだった。
武秀は、昼間に黙したきり、口を開かない。
いつもはよく話すだけに、その沈黙が吉乃には堪えた。
いっそ、なんと言われようが、組み伏せて自分を抱かせてしまおうか。
身体の奥深くまで繋がってしまえば、後は何とでもなるのではないかと、吉乃は思った。
それこそ男のように乱暴な発想だと、吉乃は自嘲した。
「ねえ、吉乃……」
武秀が重い口を開いた。
吉乃は、何を言われるのかと身構えた。
「昼間は、変なことを言って悪かった」
意外な謝罪に、吉乃は首をかしげた。
「悪かったなど……そのような……」
「……触れてほしくないことがあるだろう」
それは自分も同じだと、武秀は思った。
「吉乃の話を聞きたくて、吉乃のことが知りたくて、少し踏み込み過ぎた」
自分にも、夫婦とはいえ、話せることと話せないことがある。
「気を悪くしないで。変わらず側にいて、吉乃」
「側におりますとも」
吉乃は武秀に微笑みかけた。
それは嘘だと、武秀は思った。
和議が破れれば、敵になる。
そもそも、いつか和議を破るためにこそ、吉乃はここにいるのではないか。
「吉乃……」
「はい」
「俺のこと、最後まで、上手くだまして……甘やかして……ね」
武秀はそう言うと、吉乃にそっと接吻をして、微笑んだ。
吉乃はもう、何も言うことができなかった。
この男は、裏切られ慣れているのだと、吉乃は思った。
*
「秋の宿直は冷えるな」
太助は、よく冴えた月を見上げながら言った。
「今頃、武秀は嫁と寝てるのか。あったかいだろうなあ」
「ああ」
和永は気のない返事をした。
その手の話はしてくれるな、とでも言いたげな和永に、太助はやれやれと息を吐いた。
「じゃあ俺、西側回ってくるから」
太助はそう言うと、槍を手に西の方へと歩いて行った。
和永は一人、月を見上げた。
冷たい月であった。
初夜は何もなかったと、武秀は言っていた。
あれから幾晩。
その後はどうなったであろうかと、和永は武秀を思った。
城の奥深く、自分が入ることを許されない場所に、自分の知らない武秀がいる。
その姿を、和永は見ることができない。
しかし、昼間に聴いた楽の音から、二人の距離が思っていたよりもずっと近いであろうことを、和永は感じ取った。
ほうと息を吐いたとき、闇の中で何かが動いた。
猫の鳴き声。
和永は、はっとしてそちらを見た。
猫は城壁の高いところへ飛び乗ると、そのまま姿を消した。
*
暗く湿った書庫の中。
月明かりを頼りに、綾女は頁をめくる。
表には出ない、狸の一族の歴史。
昔からの米や金の流れ。
昔あった事件。
取るに足らぬような家臣の手記まである。
その一冊一冊を、綾女は毎夜忍び込んでは盗み見ていた。
どこかに、狸の一族と武秀の綻びを探して。
急に、がちゃりと戸の開く音がした。
綾女は、はっとして猫に化けた。
月明かりを背に、何者かが入ってくる。
綾女は猫の姿のまま、目を細めた。
とたん、ぐいと首根っこを掴まれた。
無様にも、宙にぶら下がる。
「猫、か」
綾女は、よりにもよってこいつかと、内心舌打ちをした。
しゃっと手を伸ばして引っ掻き、身をよじったが、逃げることができない。
「狐の侍女が、このようなところで何をしている」
綾女は、目を見開いた。
何故、猫に化けている自分の姿がわかるのだろうか。
和永は、猫の姿をした綾女を壁に押し付けた。
「何をしているかと聞いたのだ、綾女」
綾女は、和永が鎌をかけているのではなく、本当に自分の姿が見えているのだとわかった。
観念したように、人の姿に戻る。
「ずいぶん、女に対して手荒な真似をするのですね」
ぐっと和永の手に力が入る。
綾女に引っ掻かれた和永の手の甲から、ぽたりと赤い血がこぼれ落ちた。
眼光が鋭い。
宴で見た様子とはだいぶ違うと、綾女は思った。
「その目、狐と狸のあいの子に現れる力ですか」
「……」
「裏切り者の息子が、よくものうのうと城仕えができたものですね」
「裏切り者……だと?」
和永が眉を寄せる。
「あなたの母親のことですよ」
綾女は、首を掴まれながらもよくしゃべった。
「狐の一族を裏切り、私の家を、地位を、貶めた」
和永は、宴の席で自分に向けられた綾女の敵意ある視線を思い出した。
「あなたには、裏切り者の血が流れている」
綾女は、侮蔑するかのように薄く笑った。
和永の力が、一瞬わずかに緩んだ。
その隙をついて、綾女は首を押さえつけていた和永の手から逃れた。
そのまま、さっと猫に化け、書庫を駆け出していく。
「……待てっ」
和永は、はっとして綾女の後を追った。
猫の足には追いつけないとわかると、和永もまた猫に化けた。
綾女の逃げていく先に、太助がいた。
和永は、さっと再び猫から人へと姿を変ずると、
「太助!その猫を捕まえろ!」
と叫んだ。
太助は、急に和永に言われ、状況が把握できない。
その足元をすり抜けるように、猫が通り過ぎようとした。
太助は、とっさに猫を止めようと槍を横に構えた。
猫はそれを避けようとしたが、槍の柄が腹に当たった。
「ぎゃうっ」
打ちどころが悪く、猫はその場に転がった。
術が解け、綾女の姿に戻る。
猫の叫び声を聞いた宿直番が集まってくる。
太助は肩で息をしていた。
綾女は動かない。
和永は、しまったと思ったが、すでに遅かった。




