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魁国史后妃伝 ~艶麗にして婉媚、しかして奸にして邪~  作者: 悠井すみれ
四章 炎天に果実は熟れる

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4.強欲

「祖法があるからこそ皇后や太后の権が約束されるのだ。強欲は身を滅ぼすぞ」


 鋭く詰問した翠薇《すいび》の非礼を咎めることなく、孫《そん》太后は噛んで含めるように言い聞かせた。驚くほどの寛大だが、無論、翠薇が光栄に思うことなどない。


「我が子を生まれる前に失いたくない、と願うのは強欲との仰せでしょうか」

「そうだ」


 短く言い切って翠薇を絶句させた後――太后は、今度は言葉を和らげた。


「生さぬ仲でも子は可愛いものだ。赫《かく》もそなたに懐いているではないか。玫《ばい》は──少々腕白に育ったが。だが、それでも妾に感謝して孝を尽くそうとしている。それで良かろう」


 目を見開いて翠薇が全身を震わせるのを、この女はいったいどのように解釈しているのだろう。感動して、それでは堕胎します、とでも言うと思っているのだろうか。彼女は、自分でも御しきれないほどの怒りに震えているというのに?


「皇后の位に登るのならば、何ひとつと失わぬというわけには行かぬ。そうであろう?」


 そんなこと、まったくもって思わない。


 翠薇はすでに、姉と甥を失っている。奪われている。皇后の位も、決して埋め合わせにはならない。憎い相手に投げ与えられた位で満足できるものか。

 すべてすべて、何もかも。奪い取らなければ勝ち誇ることなどできない。姉を殺した祖法を振りかざして得る権勢なんて、何の意味もない。


(分かった風なことを……!)


 翠薇は、決して強欲ではない。当然の復讐を望むだけだ。甥が殺されなければ、そもそも姉を奪われなければ、彼女はそれ以上は何も望まなかった。


「では、姉のことはいかようにお考えでしょうか。甥の、丹のことは? この子が産まれたとして、丹の代わりにはなりませんが! でも、この子まで……!?」


 危ういことではあるけれど──腹をしっかりと抱いて、追い詰められた母を装って言い募る。

 悲痛な叫びに聞こえたのだろう、太后は顔を歪めた。切なそうな溜息の後、ひと言ひと言を噛み締めるような声が、答える。


「先の薛《せつ》貴人《きじん》は優しく美しい娘であったし、丹《たん》も良い子であった。活発で──赫よりも父に似ていたな」

「な──」


 太后は、偽りなく悲しみ悼んでいるらしい。それが信じられなくて、翠薇はまたも絶句する。


 この女は、それでもふたりを殺したのだ。権力のために。祖法を堅持するために。


 凍り付いたように動かない──動けない翠薇の背を、太后がそっと擦った。毒虫が這い回るようでおぞましい。でも、振り払う気力もなかった。


「あの者たちに報いるためにこそ、そなたは皇后にならねばならぬ。──聞き分けよ」


 胎児と引き換えに翠薇を皇后にして、太后は、それで償った気になれるらしい。目に余る言動も多かっただろうに見逃されてきたのは、罪悪感が理由でもあったのだろうか。


(姉様が私を助けてくれていた……?)


 悟りながら、翠薇は深く頭を垂れて俯いた。


「……承知いたしました」


 憎悪と憤怒に満ちた表情を、太后には見せないために。


(許さない許さない。絶対に許さない……!)


 翠薇は、床に敷かれた精緻な織物に指を強く立てた。白く染まるほどに力のこもった爪先が、縦横の糸を引き攣らせ、花鳥の模様を歪ませる。──大丈夫、太后は勝手に我が子を諦める悲嘆の表れだと思ってくれるだろう。


「そうか。やはりそなたは賢明だ」


 ほら、太后の声は明らかに安堵した。翠薇の手を取り、優しく握りさえする。


「魁の皇后は母になることはできぬ。比類なき位にあるためには、諦めなければならぬこともあると知るのだ」


 太后のありがたい訓諭は、翠薇の胸には何ら響かない。


(子を持ったこともない癖に。元より持っていないものを、奪われたかのように語るなんて浅ましい……!)


 嫌悪が募る一方で、けれど、喜ぶべきこともある。


 太后は、血も涙もない女ではなかった。殺した相手を悼む情はあるし、絳凱《こうがい》も赫太子も、そして驚くべきことに翠薇自身も、思った以上に心に懸けられているらしい。


 翠薇を説得しようと、あえて弱みを見せたのだというなら──利用してやる。彼女を勝手に哀れんだことを、後悔させてやる。


「……皇上が決してお気づきにならぬような形でなければなりませぬ。とはいえ、私もいつ、どのようになるか……長く怯えたくはございません」

「無論、そうであろうとも」


 翠薇のしおらしげな様子は、太后を騙せているのだろうか。少なくとも、彼女の背を撫でる手つきは、それこそ母か姉のように優しかった。


「待たせはしない。すぐに、怪しまれぬように整えよう。……その後は、玫にも重々慰めさせよう。そなたはいっそう、寵愛を集めることになる」

「ご厚情に……心から、感謝申し上げます」


 太后への感謝は、まったくの嘘というわけでもない。これで翠薇は、日々の食事に神経を削る必要はなくなった。太后は、間もなく分かりやすい形で翠薇に毒を渡してくれる。


 左昭儀《さしょうぎ》を丹の死の下手人に仕立てた時と同じ構図になるのに、どうして気付かずにいられるのだろう。

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