5.胎動
赫太子は、しばしば翠薇の住まいである瑶景殿で休む。皇太子の住まいはもちろん別にあるし、父帝の寵姫の殿舎に入り浸るのは、いくら幼くとも外聞が悪い。太后にもしばしば釘を刺されてはいる。
けれど、高貴な子供がどうしてもと言い張れば、どうして止めることができるだろう。母を亡くしたことさえ知らない赫太子を哀れむ者は多いというのに。翠薇自身が、その筆頭として振る舞っているのに。
だから今宵も、赫太子は翠薇の膝に甘えて、彼女の膨らんだ腹に顔を寄せている。
「──動いた! 元気な赤子なのだな」
胎児は日々順調に育ち、胎動も頻繁に感じるようになっていた。腹の形が変わるほどの胎児の動きに驚いたのだろう、太子は目を輝かせて歓声を上げた。
「ええ……早く出たいと、言っているのでしょう。兄君様にお会いしたい、と」
姉のように優しく微笑み、姉のように柔らかく語ることには、とうに慣れ切っている。
けれど、姉の婉蓉が語ったことを繰り返すのは、いつもの演技とはわけが違った。
(姉様は、心から言っていたのでしょうね。私も……丹の誕生を心待ちにしていたわ……)
生母殺しの祖法を知らなかったあのころに戻れたらどれだけ良いだろう。姉こそが皇帝の寵愛を一身に集めて懐妊を寿がれ、弟か妹の誕生を待ち望むのが甥の丹であったなら。
それなら、翠薇自身の立場は宮女でも婢でも構わなかったのに。
けれど、それは決して叶わぬことだ。皇帝の子が宿っているのは翠薇の胎で、彼女の手に頬を撫でられて目を細めるのは、知らない女が生んだ余所の子供だ。
「男の子だろうか」
「どうでしょうか。お転婆な公主かもしれません」
「どちらでも、私が馬を教えてやる」
「まあ、頼もしい」
他愛ないやり取りを重ねるたびに、翠薇の心は少しずつささくれて擦り減った。赫太子が無邪気で愛らしく優しいほど、丹もそうだったと思い出されて。
さらに、彼女が相手しなければならない子供はひとりだけではなかった。
「赫よ。翠薇を独り占めするでない。父に代われ」
やり取りを傍で見ていた絳凱が、息子を翠薇の膝から追い出して、その後に収まったのだ。
子供は床に就くべき時刻であったのは、確かなのだけれど。子犬が母犬の乳を取り合うような所業は、やはり魁の皇帝には相応しくないだろうに。
赫太子が寝台に追い払われた後──翠薇は膝を枕として貸しながら、大きな子犬にそっと苦言を呈した。
「大人げないことを仰いますな」
「もう少ししたら、赤子にもそなたを取られるのだ。見栄を張っている場合ではない」
すでに解いた髪を梳かれてうっとりと目を細める絳凱は、とても臣下には見せられない表情をしている。それだけ翠薇に心を許している――だなんて、露ほども信じていないけれど。
「それは、右昭儀様もご同様でございましょう? 私こそ、絳凱様を独り占めするのは心苦しいですわ」
だって、翠薇の懐妊が分かった後は、この男はほかの女にも通っている。
特に皇后は、焦って妹の右昭儀をしきりに勧めたのだとか。親しい落羅家を族滅させた埋め合わせでもあったのだろうか、絳凱がその勧めを容れた結果、右昭儀もめでたく懐妊中だ。
そのていどには情を交わしたなら、あちらも気遣ってやれば良いだろうに。翠薇の諫言に、絳凱はうるさそうに眉を寄せた。
「そなたは寛容だな。皇后も右昭儀も、そなたを訪ねると泣いたり怒ったりで騒がしいのに」
「ただでさえご政務でお忙しい御方を、後宮でも煩わせることなどできませんわ」
翠薇に──姉の鬼に求められているのは、都合の良い母親役だ。温かく柔らかく居心地が良いだけの。そうと知っているから、わざわざ要らぬ棘を見せたりはしない。にこやかにしているだけで、皇后たちは勝手に疎まれてくれるのだ。
「……どうすればそなたが心から喜ぶのか分からない」
翠薇は、いつも通りの完璧な演技をしたはずなのに。今宵に限って、絳凱はおかしなことを言い出した。翠薇の腹を漫然と撫でていた手が伸ばされて、彼女の頬に触れる。
「そなたの子には、南方の、昊の豊かな領地をやろう。帝位を与えてやることはできずとも、諸王の中でももっとも富裕になれるように。そなた自身にも──何か、皇后に準じる位を設けてやりたい。それでは不足か? ほかに何か望みはないか?」
「そのようなこと──私は、ただ絳凱様のお傍にいられれば嬉しいのです。それ以上は、何も」
李洸廉にも言ったような綺麗ごとを、翠薇は繰り返した。頬に添えられた絳凱の手に、彼女のそれを重ねながら。
(望みなんて言わないわ。そんな無駄なこと……!)
姉と甥を返して欲しい。幸せな時間を返して欲しい。言ったところで、叶わないだろうに。
もう少し上辺の、まだ実現し得る望みはあるけれど。それも、言う必要はない。
(この男は、まだ祖法に囚われているのね。でも、かなり揺れている)
皇太子の生母は死ななければならない、という思い込みから絳凱はまだ自由ではない。翠薇を死なせたくないから、彼女の子は王に留めるしかないと思っているのだ。
ここまでくれば、あと一押しだ。祖法を覆しさえすれば、何も我慢する必要はないと気付くのにもあと少し。
「……本当に? そんなことでは──」
「そんなこと、などと仰らないでくださいませ。私はとても幸せなのですもの」
どこまでも優しくあやしても、絳凱は納得しがたく唇を尖らせている。もう少し、頭を悩ませてもらおう。格別の寵愛を表すにはどうすれば良いか。
考えれば、きっと分かるはずだから。




