3.祖法の真実
孫太后は、翠薇の膨らんだ腹を忌々しげな目つきで睨めつけた。
監視の目を逃れると言っても、李洸廉とまる一日共に過ごすわけにもいかない。彼が後宮を辞した後、翠薇は太后の無聊を慰める話し相手に、との名目で召し出されたのだ。
場所は、蓮の浮かぶ池に張り出して作られた石舫だ。
船を模した装飾の、石造りの四阿は、当然のことながら波に揺れることはない。とはいえ、中にいる者には陸地が見えぬように設計されているから、舟遊びの心地を楽しむことができる。水面を渡る風は暑気を払い、時おり跳ねる魚が生み出す水しぶきは涼しげで──夏の午後を過ごすにはうってつけの場所だろう。
対面しているのが、一瞬の油断も許されない太后でさえなかったら。周囲を水に囲まれた石舫は、暑さではなく人の耳を避けるために選ばれたのだと、気付かないでいられたら。
茶菓を供した宮女が下がると、翠薇は卓を挟んで太后とふたりきりになった。
「赫の学びは順調か。李少師にはもう馴染んだか」
「はい。時にとても鋭い質問をなさることもおありです。頼もしいことですわ」
授業の進捗の報告は、一応は翠薇の務めの一環だ。彼女が皇太子の養育に関れるのも、太后の意向があってこそだから。ただ──太后の用件はそれだけではないだろう。
「それは重畳。……玫もたまには同席すれば良いのに」
「ええ、まことに」
探り合いのような言葉を交わしながら、薄く切られた蜜漬けの桃を、太后は品よく平らげる。膝に手を揃えたままの翠薇に勧めることは、もはやない。
しばらく前までは悪阻ゆえに、ここ最近は育ってきた胎児に圧迫されて。食欲がないと訴えていたら諦めたらしい。太后が今の翠薇に盛るなら堕胎薬だろうから、相手が平然と食したところで何の保証にもならないのだ。
まだ、抑えつけて毒を口に押し込まれるようなことにはなっていないけれど──
(そろそろ忍耐も切れるでしょうね。皇帝に言いつける隙を許さずにこの子を始末する方法は、あるの? どう出るつもり?)
手をわずかに動かして、翠薇はさりげなく腹を庇った。
実のところ、姉が大切そうに抱いていたほど、彼女は胎児のことを愛しいとは思えない。
内臓を圧迫し重石となり、常に息苦しさを覚えさせる存在だ。この苦しみを周囲には見せず、幸せそのものの笑みを浮かべていた姉は、やはり喩えようもなく優しい人で、翠薇とはまるで違う心の持ち主だった。
とはいえ、かけがえのない手札であることは間違いない。一度失えば、また手に入れられるとも限らない。奪わせてはならないのだ。
「妾からもそなたに教えることがある」
「太后様からご教授いただくとは、光栄の極みでございます。いったい、どのような?」
いい加減、警戒するのに疲れていたところだった。だから、太后が居住まいを正した時、翠薇はいっそ安堵した。──安堵しかけた。
「赫と共に魁の国史を学んでいるのであろう。ならば、魁の皇后に実子がいた者がいないのはもう知っておるな」
太后が切り出したのは、彼女には本題から逸れているとしか思えないことだった。
「はい。存じております」
過去の后妃がどのように記述されているかは、確かに気になることだった。だから赫太子が読み上げるのを待たずに、翠薇は国史を紐解いていた。
(要は、身分低い妃嬪に子を産ませ、取り上げ、殺してきたのでしょう?)
皇后は、名家の姫君から選ばれるもの、皇帝と共に祭祀を司ることを求められるものだ。
うっかり皇子を産んで死を賜ることになっては何かと都合が悪いからだろう、皇后と皇帝の生母、その両方の地位を兼ねた女は魁の歴史には存在しない。
そのいっぽうで、生母たちは単に薨した、としか記されないのだ。まるで、たまたま立太子と同時に病を得ただけででもあるかのように。その欺瞞に気付いた時は、国史を記した木簡を、折り砕いてやろうかと思ったものだ。
(それが、何だというの?)
翠薇を見据える太后の目は、いつもの猛禽の鋭さだった。けれど今日に限っては獲物を嬲る獰猛さではなく、ひたすらに冴えた、真摯な眼差しで見つめられているような。
太后の唇だけが、静かに動いた。
「妾は──そなたを皇后に推しても良いと考えておる」
「──は?」
露骨に眉根を寄せてしまったのは、どう考えても無礼であり失態だった。先ほどの李少師といい、今日は翠薇にわけの分からないことを言う者が多い。翠薇の端的過ぎる反問は、けれど咎められなかった。太后は、軽く眉を寄せたものの、淡々と続ける。
「だからその子は諦めよ」
「何を……仰られているのか分かりませぬ」
もっと、慎重にならなければならないと、分かっているのに。混乱のまま、翠薇は思ったことを垂れ流してしまう。
「私が皇后などと、あり得ぬことでございます。まして──だからといって。いったいなぜ、そのようなことを仰いますか……?」
「そなたが魁の皇后の何たるかを体得しているから、だ」
太后が立ち上がると、纏う衣装の金銀の刺繍や装飾が眩く煌めいた。と思うと、その輝きは翠薇の間近に迫る。太后が、翠薇の傍らに膝をつき、肩を掴み、彼女の顔を覗き込んできたのだ。目を逸らすなど許さぬとでも言うかのように。息が掛かるほどの距離で。
「生母殺しの祖法は、外戚の禍を防ぐためのものなどではない。最初はそうだったのかもしれないが、今日まで存続しているのには別の理由がある」
別の理由とは――翠薇が問うのを待たず、太后は噛んで含めるようにゆっくりと続けた。
「次代の皇帝を、恣意によって決められる。実母やその実家に煩わされることなく、手元で養育することができる。皇后や皇太后──妾の地位にある者を利するための法だ」
言い終わると、太后は苦々しげに唇を歪め、笑みに似た表情を作った。
「そなたと初めて会った時は驚いた。卑しい婢に、祖法を利用する発想があるとは」
「私は、そのような──」
「あの時は、私利のためだったかもしれぬ。だが、体裁を整えることを知っているのは良い。慕容皇后とは、器が違う」
どうやら太后の後継者に見込まれたらしい、とは辛うじて理解した。ゆえに、太后と同じ道を歩めというのだろう、と。だが、だからといって納得できるはずがない。
太后は、自らの権勢のために翠薇の姉を殺したと白状も同然だ。それに――
「不明の身にご教示願います。今のお話とこの子を諦めることに、何の関係がございますか」




