2.本当の望み
ひと通りの勉学を終えた後、赫太子は馬場に連れられて行った。魁の皇太子たるもの、手足のように馬を御せなくてはならないし、武術も修めなければならないのだ。
師としての役目を終えた洸廉も、後宮を辞そうとした。だが、薛貴人は彼を引き留めた。
「身重の御方は大事になさったほうがよろしいのでは──」
「太后様は何かと過保護にしてくださいますが、侍医は、少しは出歩いたほうが身体に良いと申しておりますの」
逃げさせて欲しい、と控えめに乞うてみたが、優美な笑みに斬り捨てられた。太后の目を逃れて羽根を伸ばすのに付き合え、という意味だ。皇帝の寵姫とふたりきり──とはいえ、涼風を呼ぶべく窓は開け放たれたままだし、宮女も宦官も控えている。
(後ろめたいことはない。咎められる謂れもない……)
季節に似合わぬ薄ら寒さを感じながら、洸廉は自分に言い聞かせた。彼の内心に気付いているのかいないのか。薛貴人は冷えた瓜をひと口ふた口食してから、切り出した。
「李少師にお願いがございますの。──殿下のご勉学の進みようを、皇上にご報告なさるのでしょう?」
「ええ。皇上もお気に懸けていらっしゃることでしょう」
「その時に進言して欲しいことがございます」
ふたりきりの時に強請れば、どんな無理難題でも叶えられそうな寵愛振りだと聞いているのに。わざわざ彼に頼むというのは不穏だった。
「それは──どのような?」
露骨に構えた洸廉に、薛貴人は赫太子に対するのと同じように優しく微笑んだ。その眼差しは、彼女の膨らんだ腹にも落とされる。
「この子のために、皇上は昊の領土を削って誕生祝いにしてくださるおつもりだとか。たいへんありがたい御心ではありますが、それではこの子が生まれた時に、真っ先に父君にお見せすることができなくなってしまいます。それは寂しいことですわ」
その噂は、確かに洸廉の耳にも届いていた。
薛貴人の御子が男子であったなら、王に封じる時の領土として。女子であったなら、嫁す時の持参金として。新たな領土を増やしたいと、皇帝は戦意満々だとか。昨年の南伐は、先の皇太子の訃報を受けて早々に引き返すことになったから、今度こそ、の思いもあるのだろう。
皇帝が戦果を挙げること、ひいては武力を握って反抗することは、太后の望むところではない。薛貴人としても、皇帝の不在は怖いのだろう。それは、理解できるが──
「攻める先が昊だから私に、ということでしょうか。今の主君に対して、捨てた祖国のために慈悲を乞えと?」
やる気に水を差されれば、皇帝は機嫌を損ねるだろう。だからこそ、薛貴人は自分で言おうとはしないのだ。太子の師として仕えたばかりの彼ならなおのこと、昊と通じているとして処断されかねない。
(命を懸けてまで肩入れする義理はございませんな)
洸廉の言外の意は伝わっただろうに、薛貴人の優美な笑みは変わらなかった。
「殿下もご不安でしょうし、少師の務めにも沿ったことかと存じます。昊のためなどではございません。魁──の在り方について、皇上に申し上げたいことがおありなのでは?」
薛貴人のどこまでも黒い目は、やはり底知れない。そしていっぽうで、洸廉の底は見透かされいるかのようだった。
(申し上げたいことは──あるに、決まっている)
草原を駆ける勇壮な民も、平地に城や都市を築く術には慣れていない。南から父祖が伝えた知識や法制は、この国を富ませる礎になろう。戦い奪うだけではなく、耕し殖やすことも覚えれば、魁はより強くなる。昊も降せる。祖父を父を、彼を逐った祖国を滅ぼせる。
覚えかけた喜びと高揚は、野心を見抜かれた悔しさと裏表だった。
(私の足もとを見ているのか)
洸廉は、薛貴人の微笑をきっ、と睨めつけた。とはいえそれも一瞬だけ、すぐに主君の妃に対するに相応しく、目を伏せる。
「……殿下の御為ということでしたら、やぶさかではございません。──とはいえ、お聞き入れくださるとは思えませんが」
「皇上が少しでもお考えくだされば十分ですわ。少しだけ、時間稼ぎをしていただければ。そうすれば、李少師のお言葉を聞いてくださるようになると思いますの」
薛貴人は、例によって何かしらの企みを巡らせているに違いない。また良いように使われつつあるのを察して、洸廉はもう少し食い下がることにした。
「本当のお望みを聞かせてはいただけないのですか。皇上には決してお伝えいたしません。が、そのほうが私としてもどのように申し上げるかを考えやすいですから」
「本当の、望み……?」
人の心には踏み込んでおいて、同じことを返されるとは考えてもいなかったらしい。
不思議そうに首を傾げ、目を瞬かせた薛貴人は少女のような幼さにも見えた。
(……こんな顔もなさるのか)
慈愛溢れる控えめな佳人の顔も、冷酷に企みを巡らせる悪女の顔も、この御方の素顔ではなかったのではないかと、期せずして垣間見たような気がして、洸廉の胸は波立った。
「何を仰っているのでしょうか、分かりませんわ」
無論、表情を繕うことを忘れたのは彼女にとっては不覚だったのだろう。薛貴人はすぐにいつもの婉然とした笑みを浮かべて洸廉を拒んだ。
「私の望みは、我が君の御代の繁栄と、殿下の健やかなご成長。それだけですわ」
聞こえの良い言葉を紡ぐ彼女の面からは、少女の気配は幻のように消え去っていた。




