1.繋いだ手
李洸廉という男は、なかなかの拾いものだった、と翠薇は思う。片手で重くなってきた腹を支え、もう片方の手を赫太子と繋いて後宮の回廊を進みながら。
「翠薇、足もとに気を付けて」
「ありがとうございます、殿下」
太子は翠薇を守ってくれているつもりらしい。何度も通った道のりの、何ということもない段差をいちいち教えてくれるのは愚かしくも健気で愛らしかった。姉の婉蓉が懐妊していた間は、彼女もこのように何かと世話を焼こうとしたものだった。
翠薇たちは今、住まいの瑶景殿から後宮のはずれの文正堂に向かっている。
絳凱は李洸廉に後宮への出入りを許したけれど、さすがに妃嬪の殿舎に男を招き入れることはできない。よって、赫の授業は外朝からほど近い建物で行うことになったのだ。
翠薇にとっては、孫太后の監視から少しでも離れられる貴重な機会、ということになる。
(あの女、私をここまで信用していないと思わなかった……!)
皇帝である絳凱と、李洸廉。そして、後に判明したところによると、娘の子である赫を取り返そうと短慮を起こした落羅家の者たち。これほど多くの者を巻き込んで茶番を演出しなければ、翠薇の子は誰にも存在を知られぬまま、闇に葬られていたかもしれないのだ。
いち早く懐妊を察知した太后は、あからさまに眉を顰めていた。安定するまで皇帝に言うな、と命じたのも建前で、知られる前に堕胎させようとしていたのは明らかだったから。
(寵愛が深くなりすぎるのを懸念している? 皇子だったら皇太子を害すると思われている? そして、太后を脅かすとでも? ありそうなことだけど……)
そして、実のところ正しい懸念でもあるのだけれど。
いくらでも考えられる理由のどれが正しいかなんて、どうでも良い。とにかく、翠薇は早急に手を打つ必要があった。だから、李洸廉を利用することにしたのだ。
太子を連れて行列を離れれば、彼女は必ず狙われる。その上で絳凱が駆けつけられるように手を打って、助け出されたところで衆目の前で懐妊を打ち明ける──というか、匂わせる。吐き気を堪える振りでもすれば誰かが察してくれるだろう、という読みだった。結果的には、太后が口を滑らせてくれて助かった。
会ったばかり男に命を預けるのは不安だったけれど、必要な賭けだと判断した。いつまでも太后の手駒でいるわけにはいかないし、翠薇の独力でできることには限りがあるから。
それに、昊の皇室の血を引く亡命者だというのが有望だった。あの男の目つきは、地盤のない国で一介の官に甘んじる気には見えなかった。
(野心も、魁に思うところもあるようだし。肚も据わっているようだし)
襲撃を受けた時のことを思い出すと、翠薇の口元は緩んだ。慌てふためいて怯えていても、文官なりに赫を抱えて馬を駆ったのだから、なかなか頼りがいがあると言えよう。
「翠薇。文正堂に向かうのか」
と、冷ややかな声が翠薇の名を呼んだかと思うと、痩せた、けれど豪奢な衣装を纏った人影が彼女たちの行く手を遮った。
「これは、太后様──」
瑶景殿に仕える宮女あたりが注進に及んだのだろう。孫太后自らが姿を見せて、釘を刺しに出向いたようだ。ご丁寧に、背後には威圧するように宮女や宦官を引き連れている。
「ああ、良い。身重の身体を跪かせては、玫に叱られよう」
恭しく目を伏せ、膝をつこううとした翠薇を、太后は面倒そうに指先で止めた。
「恐れ入ります」
威厳ある声に苦々しさがはっきりと滲んでいるのを聞き取って、翠薇は密かに嗤う。もちろん、太后に顔を見せるまでには、優しく控えめな笑みを繕っているけれど。
例の茶番の後、絳凱は珍しいことに厳しい義母に抗議していたのだ。
『懐妊中は、馬に乗ることはおろか、車の振動も障ると侍医が申しておりました。知っていたら、翠薇に無理をさせなかったのに。どうして教えてくださらなかったのですか』
もちろん太后は、北辺を巡る行幸の間に、あわよくば胎児が流れることを期待していたのだろう。まだ悪阻も終わっていない時期に、不調を訴えることも許されずに旅路に引き出されて、翠薇は大いに太后を怨んだものだ。
でも──あの襲撃以降は、翠薇は壊れ物の宝物のように大切に扱われ、移動の揺れも北辺の風も感じることなく帰途につくことができた。不自由はないか、欲しいものはないかと絳凱がしきりに構うお陰で、太后も皇后もそのほかの者も、彼女に害を及ぼす余地はなかった。
(気に入らないようね? でも、私が仕組んだことだという証拠はないでしょう?)
彼女の笑みの影の本音を聞き取ったのかどうか。翠薇を軽く睨んだ後、太后は鋭い眼差しを赫に向けた。
「赫はもう六つ。魁の皇太子は強くあらねば。そなたが常についてやる必要はなかろう」
太后は、当然のことながら赫の日ごろの躾にも口を出している。義理の祖母の厳しさを骨身に染みて知っているからだろう、翠薇の手を握る赫の指先に、きゅっと力がこもった。
「お、おばあ様。申し訳──」
打たれたかのように身体を縮めた赫の肩に、翠薇はそっと手を置いた。そうして、震える声での謝罪を遮ってしまう。太后は、どうせ翠薇を引き留めたいだけなのだ。
(思い通りに、させないわ)
弟を甘やかす姉のように、翠薇はにこりと微笑んだ。
「私も学びたいのですわ。書に触れる機会など、これまでなかったものですから」
庇ってもらえたと思ったのだろうか、赫の肩からわずかに力が抜ける。思い違いではあるけれど、この子供が日々翠薇に懐いていくのは歓迎すべきことだった。
「愚かな質問をしてしまうことも、多いのですけれど。でも、李少師は噛み砕いて説明してくださいますから、殿下にもかえって分かりやすいやも、と──」
あくまでも太子のため、と言い張れば、太后も咎めづらい。絳凱の耳に入りでもすれば、翠薇の味方をするだろうから。そうして、皇帝と太后の間の溝は広がっていくのだ。
「感心なこと。……少師を待たせてはならぬ。行って良い」
「御意」
ほら、眉間に皺を寄せながらも、太后は道を開けた。付き従う宮女も宦官も、主に倣う。
後宮の主として君臨するはずの太后の前を、翠薇は背を伸ばして悠然と通り過ぎた。矢のような視線が刺さるのを感じてだろうか、赫はずっと、翠薇の手を強く握りしめていた。




